第42話 帰還

レーゲンスの屋敷を脱出したミツキは、ただひたすらに神那を目指して飛んでいた。

すでに日が沈みかけており、広い空は見渡す限り茜色に染まっている。そんな言いようのない哀愁が漂うホムラを空から眺めていても、ミツキの心にはまるで余裕がなかった。

心が重い錘に引かれながらも、ふわふわと漂っている。辛く苦しくてしょうがないのに、思考が全くまとまらないのだ。

ミツキにとって虚霊に敗れたことは大した問題ではなかった。悔しさはあるが、たとえ神であっても負けないことなどあり得ないと割り切っている。

だが、主をここまで傷付けられ、何もできずにおめおめと逃げ帰ることしかできない自分を許すことはできなかった。それは決して変えることができない、式の存在意義なのだから。

ミツキは常に合理的な判断を下すように努めていた。それが周りに求められている役割であり、そしてミツキ自身もそうすべきだと感じていたからだ。

しかし、その裏側では、理性と本能の乖離がミツキの心を引き裂こうとしていた。叫びたいほどの衝動と生真面目すぎる責任感が混在し、そのどちらもが不完全燃焼のまま心の中を漂っているのだ。

そして、それは全てミツキ自身の力の無さが原因だった。割り切っていると思っていた心の弱さを、まだ捨てることができていなかった。

力があれば主を傷つけられずに済んだ。力があれば仲間を見捨てるような判断をしないで済んだ。力があればこんな情けない思いをしないで済んだ。力があれば何も考えずに自分を貫くことができた。力があれば…!


「ダメだ…こんなことを考えている場合じゃない…!」


ミツキは泥沼に入りかけている足を引き抜き、しっかりと意識を保つ。

そして、周囲に潜んでいるかもしれない虚霊に気を配り、決して油断しないように警戒しながらも、気持ちだけは急くように身体を前へと推し進めていく。

息があがってくる。神威を使い過ぎたか?いや、まだここで力尽きるわけにはいかない!

ミツキは力を振り絞って、速度と高度を必死に維持する。


「ぐっ…ぅぅ……っ…!」

「主様!?クソ、急がないと…っ!」


背中のユズルが苦しそうに呻き声を上げる。

ユズルから流れ出ている血はすでにミツキの全身を真っ赤に染め上げていた。

吐き気がするような錆臭さが鼻をつくが、気にしている余裕はない。

むしろ、背中にその生温かさを感じるだけで、安心すら覚えていた。まだ自分が守るべきものが残っていると。


やがて神那のある森が見えてくる。

ただ青々としているだけの景色だが、ずいぶんと帰ってきていないように感じる。

だが、そんな懐かしさを感じる風景がはっきりと見えないほど視界がボヤけてきていた。

ミツキにも神威の限界が確実に迫っていたのだ。

それでも、最後の力を振り絞り、神那へ続く階段へと崩れるように着地する。

神威による肉体強化が消え、背負っているユズルが途端に重く感じられる。


「はぁっ…はぁっ…はぁっ…!」


呼吸ができない。苦しい。

だが、その足はボヤけて揺れる世界の中を少しずつ前に進んでいく。

一段、また一段と階段を登り、今にも崩れてしまいそうな身体を必死に足で支えていた。

この戦いでは何も成すことができなかった。だからこそ、自分の主を助けるということだけは絶対に諦められない。


「主様、もうすぐです…!あと少しだけ耐えて下さい…!」


ミツキはまるで自分に言い聞かせるように、ユズルに声をかけ続けていた。口を動かしていないと、今にも倒れそうなのだ。

そして永遠にも感じられた時間を乗り越え、ようやく階段を上り切る。

前を見ると、自分たちが過ごしていた神那があった。

大した思い入れがあるわけでもなければ、特に何かをした記憶もない。けれど、その外観を見ただけで「帰ってきた」という郷愁に駆られてしまうのだ。さっきまで動き続けていた足が止まり、ミツキはただその心地の良い感情に身を任せていた。

そして、遠くからこちらへ走ってくる人影を見付け、ミツキは安心したように意識を失った。



☆☆☆



ここはどこだ?

目を覚ました時、俺は最初にそう思った。

目の前に広がるのは見覚えのない真っ白な天井。どうやら布団に寝かされているらしい。

とりあえず腕を動かしてみるが、特に違和感はない。そして、ただぼーっと周りの景色を眺めてみる。

最初は見覚えがないと思っていたが、そこかしこに少しだけ既視感を覚える。だが、頭の隅に何か引っかかるような感覚が抜けない。俺はここに来たことがあるのか…?

寝起きのぼやけた頭では思考がまとまらないため、俺はひとまず考え込むのをやめて身体を起こしてみる。


「痛っつ…!」


不意に胸のあたりに痛みが走った。

見てみると、包帯が何重にも乱雑に巻かれていた。まるで傷痕を覆うように。

――――傷…?そうか!

それを見て、ようやく記憶が戻ってくる。

俺はレーゲンスと戦って、たしかに奴に敗れたはず。しかし、それからどうなったのか全く記憶がない。


「どうなってるんだ…?」


思わず誰もいない部屋の中で独り言をつぶやく。

ノラたちが何とかしてくれたのか?だったらここはどこなんだ?もしかして俺は死んだのか?もし死んでいるのだとしたら、ここはまた別の世界なのか?


俺は一旦落ち着いて思考の海から顔を上げる。

考えをまとめるには、あまりにも情報が足りなさ過ぎている。まずはここから出て、状況を見てみないと。

ひとまずそう見切りをつけて、立ち上がった。

胸の傷以外はほぼ完治しているし、痛みも違和感も全くない。これならたとえ戦闘になったとしても問題ないだろう。

そう思い部屋の扉を開けようと取手に手をかけた瞬間、扉が勝手に開いた。

そして、俺が「あれ?」と前を見ると、誰かが飛び込んで来たのだった。


「ユズル様ぁぁぁあああ!!」

「お前、ヒオリか?!って、うおわぁ…っ!?」


いきなり部屋に飛び込んで来た人影―――ヒオリに押し倒されるように背中から床に落下する。

ドスンという擬音語が頭に浮かぶような衝撃音が部屋に響き、胸の傷がズキリと痛む。


「痛た…って、ユズル様!?お怪我は大丈夫なんですか?!」

「お前がぶつかってくるまでは大丈夫だったよ…」


俺が愚痴るように言うと、ヒオリは俺の上で驚いたようにあたふたする。

扉が向こうから開くのは正直予想外の出来事だったので小柄なヒオリを支えきれずに押し倒されてしまい、そのまま覆い被さるように乗っかられてしまっているのだ。

その柔らかい感触に一瞬ドキッとするも、ヒオリだとわかるとすぐに苦笑いが出てきてしまう。可愛さよりも愛おしさを感じるのだ。俺にとって彼女はもはや妹のような存在で、かけがえのない家族なのだから。


「あの、これは…!あ、あたしはそんなに重くないですよ!?」

「いや、そういう問題じゃないだろ!」

「うっ…で、でも、ユズル様こそ全然元気じゃないですか!」

「まあ、ヒオリの顔を見れて少し元気は出たな」


俺がそう言って笑うと、ヒオリは顔を赤くして「こういう時だけ素直になるのズルいですよ…!」とそっぽを向いてしまった。

別に普段から素直なつもりだけどなと思いながらも、つい言葉が口を衝いて出てしまったような気もする。いつも通りのヒオリを見ると、やっぱり元気づけられるのだ。


「こら!ヒオリ、あなたもまだ傷が治ってないんだから走らないの!……あ、ホムラ様!お目覚めになられたのですね!」


ヒオリの後を追うように、巫女服姿のミヤが扉から入ってくる。そして、ミヤは俺の顔を見ると、まるで花が咲いたかのように笑顔になった。

俺はイマイチ状況が掴めないまま呆然と二人を眺めるが、すぐに合点がいく。


「ミヤもいるのか…?!じゃあ、ここは――――」

「ええ、ここはあなた様の帰るべき場所ですよ」


そうだ。俺は神那に帰ってきたんだ。

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