1389.構文篇:書き手の信念と人生観で読ませる
小説は散文ですから、書き手の自由に書けます。
韻を踏んだり季語を入れたりする必要はありません。
ですが、本当になんでも自由に書いてよいよけではないのです。
「信念」や「人生観」が求められます。
書き手の信念と人生観で読ませる
書き手はどんな文章だって小説に書ける「権能」を有しています。
しかし書かれた文章には社会性が生まれるのです。
書かれた文章は誰かに読まれなければなりません。そのとき読み手は理解と納得をしながら読み進めるのです。
だから基本的に「嘘」を書いてはなりません。
ハッタリをきかせてもかまいませんが、嘘は駄目です。
読み手から信用されない文章が、読み手の感情を震わせるなんてありえません。
軽薄でなく信念を込める
私は公然と「反・村上春樹氏」を標榜していますが、本来文章の書き手として褒められた行為ではありません。
なぜなら、私の「小説の書き方」コラムを読んでいる「ハルキスト」だっているはずだからです。
幾度となく私が村上春樹氏を貶めれば、「ハルキスト」たちが傷ついて離れていくだろうことは疑いようもありません。
ではなぜ私は「村上春樹氏」の名誉を傷つけるような文章を書いているのでしょうか。
私の基準では「村上春樹氏の文体」が日本人に受け付けられない、少なくとも文章の表現として手本たりえないと判断しているからです。
つまり「村上春樹氏のような文章を書かないように」という戒めの意味を込めて、あえてコラムで「反・村上春樹氏」に進めています。
多くの「ハルキスト」は村上春樹氏の文体の軽妙さを褒め称えていますが、私には軽薄にしか映らないのです。
なぜかなと考えたら、村上春樹氏の文章には「嘘」が多いからではないでしょうか。
とにかく比喩を多投するのが村上春樹氏の文章の特徴です。しかしその比喩がとても「嘘」くさい。書かれている比喩に妥当性がなく、妙に現実味つまりリアリティーを感じません。
だから私は村上春樹氏の作品を読み始めると、そこに「嘘」を感じてしまうので、バカらしくなってくるのです。
こんな「表面だけの嘘ばかり並べた文章」つまり「軽薄な文章」は読むに値しない。
そう感じているのかもしれません。
もちろんその「表面だけの嘘ばかり並べた文章」が軽妙さを感じさせて読み手を楽しませることだってあるはずです。そういう方たちが「ハルキスト」になるのでしょう。
しかし軽妙さがノーベル文学賞に値するのか。日本語では軽妙であっても、英語に翻訳したら軽妙なのか、フランス語に訳したら軽妙なのか。それはまた別の話でしょう。だからこそ村上春樹氏の作品は言葉の遊びだけをしている軽妙というより軽薄な文章であって、裏に「信念」が見えないのです。
なぜシンガー・ソング・ライターのボブ・ディラン氏がノーベル文学賞を獲れたのか。彼の歌詞がベトナム戦争への「反戦の意志」を高らかに訴えていたからです。彼の歌詞には「信念」がありました。だから「歌詞」でもノーベル文学賞を獲れたのです。
村上春樹氏の作品を冒頭しか読んでいない私に詳しくはわかりませんが、彼の作品の裏に強い「信念」を感じません。もし「信念」があるのなら、冒頭だけを読んでも惹き込まれるはずです。しかし彼の文章には惹かれませんでした。つまり「信念」を感じなかったのです。
彼の親友であるノーベル文学賞作家カズオ・イシグロ氏の作品を読むと、文章に「信念」が詰まっています。その「信念」が多くの人の共感を呼んだから、カズオ・イシグロ氏はノーベル文学賞を獲れたのです。
翻って村上春樹氏の作品を読むと、軽妙な文体で表面だけの軽薄な物語でしかない。エンターテインメントとしてはそれでもよいのでしょうが、文章に「信念」が宿っていないのです。それではただの娯楽作家であり、単なるベストセラー作家でしかありません。
過去を遡っても、娯楽作家、ベストセラー作家がノーベル文学賞を獲ったためしはありません。つねに文章に「信念」を込め、多くの人へ「信念」を広められた人物こそノーベル文学賞にふさわしいのです。
人生観を持たないと小説は書けない
小説に必要な「信念」とは、言い換えれば「人生観」です。
人生を謳歌している人が書いた小説は躍動感に満ちています。
人生に絶望している人が書いた小説は退廃的です。
村上春樹氏の「信念」「人生観」とはなんなのでしょうか。私には見えてこないんですよね。
普通、小説を読めば書き手の「信念」が伝わってくるものなのですが、村上春樹氏の小説は冒頭であきらめてしまうほどで、「信念」をいっさい感じません。
シニカルな笑いをとりにきているようにも感じられます。冷淡家なのかもしれませんね。私はハートウォーミングな作品のほうが好きなので、冷淡な彼の作品が合わないのでしょうか。
逆に言えば「ハルキスト」は冷淡さをこのうえなく愛しているのでしょうか。このあたりがわかりません。
退廃的な作品が多いから、村上春樹氏は人生に絶望しているのか、というとそうでもない。お金を稼ぐためならどこへでも出向くような人です。イスラエルでサイン会をするなんて政治的な活動もしていますからね。
私が村上春樹氏の作品を嫌いなのは、そんな作品を書いた彼自身から感じられる「信念」「人生観」が嫌いなのかもしれません。
それなら村上春樹氏が嫌いな理由も説明できそうです。
私の「信念」「人生観」とは相容れないから、私は村上春樹氏を受け入れられないのではないか。
私は小説にデイトレーダーを出したかったので株式トレードを始めましたが、とくにお金儲けをしたいわけではありません。どうしてデイトレーダーは株式トレードやFXトレードをするのか。その理由を知りたかっただけです。
金儲けのためならなんでもするような人物の気持ちは今でもわかりません。
デイトレーダーは「自身の予測が当たるか外れるかに賭けている」のです。どれだけ「予測」が正しいのかが、デイトレーダーの生業となっています。
これは他人に自分を認めてもらいたいという「承認欲求」の一形態です。
Twitterで銘柄を検索して出てきたタイムラインには、これからの株価の予想を書いている人もいますが、圧倒的に多いのは「これだけ儲かりました」という成果の発表です。つまり「自分の予想はこれだけ当たったんだ」とみんなに認めてもらいたい。それがデイトレーダーの「信念」であり「人生観」なんだと思います。
私は地道な努力で成果を積み重ねて「こんな作品を書きました」という「承認欲求」のほうが強いので、デイトレーダーにはなれそうもありません。もう少し深いところまで潜ってみたら、すぐに小説の筋書きに戻ります。
昨日より今日をよくしよう。今日より明日をよくしよう。それが私の「信念」であり「人生観」です。相場を見て「上に行く」「下に行く」を当てて金儲けする思考はほとんどありません。まぁ予測が当たると面白いのは確かです。
昔のパチンコやスロットは、釘を見極めたり、目押しをしたりして「技術」で儲けられました。しかし今はCR化が進み、出目はすべてコンピュータの確率任せです。昔は「技術」を極めた「パチプロ」がいたのです。しかし今は平等な「確率」なので「パチプロ」もほとんど見かけませんね。しかも新型コロナウイルス感染症の蔓延により、当たりが渋いようなのでパチンコ店の前で行列が出来ているのをほとんど見ないのです。まぁパチンコホールとしても売上がなければ運営できないわけですから、当たりが渋くなって当然でしょう。本来確率を操作するのは禁じられていますが、あくまでも「確率」なのだと主張すれば見逃されるんですよね。
パチンコ店にとっての「信念」「人生観」とはなんなのでしょうか。
小説に出す予定もないので取材する気にもなりませんが。
他人の「信念」や「人生観」を知らなければ正確な描写はできません。
皆様にもぜひ文章から書き手の「信念」や「人生観」を見抜く目を養っていただきたい。自分の「信念」や「人生観」を再認識する機会を持っていただきたい。
このふたつの視点を持てば、小説の質は飛躍的に向上しますよ。
最後に
今回は「書き手の信念と人生観で読ませる」について述べました。
小説には「信念」が必要です。それは「人生観」と呼んでもよいでしょう。
書き手に「信念」「人生観」がないと、書かれた文章にも反映されません。とても乾いた物語になってしまうのです。
登場人物が生き生きとした作品でなければ「小説賞・新人賞」は獲れません。
登場人物を生かすか殺すかは、ひとえに書き手の「信念」「人生観」にかかっています。
単に金儲けのために小説を書こうとしているかぎり、選考さんを唸らせるような作品にはならないのです。
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