1350.物語篇:物語94.未知なるもの

 自らに課した物語百本ノックもようやく終わりが見えてきました。でも残り六本なのでひねり出さなければなりません。

 そして次の篇をどうしようかも考えています。とりあえず「日本語」にこだわった篇にしたいと思っているのですが、この路線で何話もつのかわかりません。

 とりあえず書きたいことはあらかた書いたので、次の「日本語篇」今までの三文字例からすれば「和語篇」と名づけようと思います。

 千話以上読んでこられた方に、いまさら「日本語」というのもどうかとは思いますが、どこから読んでもかまわない百科事典を目指しているので、ここであえて「日本語」と向き合いたい。そんなわがままです。

 前書きが長くなりましたが、今回は「知らないものって怖いよね」について。

 当たり前ですが、小説を書くとき意外と忘れられてしまいます。

 勇者が見た経験のないドラゴンや魔王を見て「怖くない」とは考えづらい。まぁ怖くないから「勇者」と呼ばれるのかもしれませんが。





物語94.未知なるもの


 正体がまったくわからないものに、人は恐怖を覚えます。

 これから戦う相手の正体がわからなければ、これほどの恐怖はまたとありません。

 同じ民族と戦うのは不幸ですが、正体がわかっているので安心して戦えます。

 異民族と戦うのは、正体がわからないので不安と恐怖が募るのです。

 ましてや未知なる怪物と戦う羽目になったら。




未知なるものだからこそ怖い

 人は未知なるものに恐怖を覚えます。

 いや、知らないからこそ怖いのです。

 知っている相手なら戦い方がわかりますから対処のしようもあります。

 遊牧騎馬民族が相手なら、こちらはより攻撃力のある戦車で対抗すればよいのです。

 しかし伝説のドラゴンが相手ならばどんな準備が必要か、誰も知りません。

 ドラゴンがなぜ「伝説」とまで呼ばれるほど強いのか。生態がまったく知られていないからです。

 どこに棲み、どんなものを好物とし、どんな攻撃をしてくるのか。硬い鱗があるというが、どんな武器なら斬りつけ貫けるのか。魔法のかかっていない剣ではまったく太刀打ちできないのかもしれません。となれば魔剣・聖剣の類いは最低限用意する必要があります。

 そんな風聞さえ耳に入らなければ、たいせつな準備が整わず、「伝説」のドラゴンに初見で皆殺しされるのは必定。それほど情報とくに「生きた情報」は生命を懸けるに値するものなのです。

 未知は怖い。既知は対処しようがある。

 ギリシャ神話の勇者ペルセウスがヒュドラ退治をした際、切り落とした首からふたつの頭が生えてくる窮地に陥りました。そこでヒュドラ討伐に際して仕入れた情報である「斬り口を炎で焼けば頭は再生しない」を実行するのです。片手にたいまつを持ち、首を斬り落としたらすかさずたいまつで焼いていくのです。こうして最後の首を斬り落としてヒュドラにとどめを刺しました。

 似た話が日本にもあります。日本武尊ヤマトタケルノミコト八岐大蛇ヤマタノオロチを退治した際、ペルセウスのヒュドラ退治とまったく同じ戦法で討伐したのです。

 このように「情報を収集する」のを疎かにするのは、不安や恐怖を自ら呼び寄せているにすぎません。




弱点の情報を仕入れる

「剣と魔法のファンタジー」では、どうしても情報に格差が生じます。

 現代日本のように、インターネットで情報を仕入れるような真似ができないからです。

 だから勇者パーティーといえど、情報通が不可欠になります。勇者パーティーに犯罪者である盗賊がいるのも、王国の情報を一手に担う「盗賊ギルド」が存在するからです。

 もし「盗賊ギルド」がなく「冒険者ギルド」が存在するなら、勇者パーティーはそこに所属するか、所属している人物から情報を得ます。

 勇者にとってパーティー・メンバーは、自らの使命を果たすための駒なのです。駒は最大限に利用しなければ、勇者が不利益を被りかねません。最悪の場合、情報不足から勇者の死すら招くでしょう。

 勇者の前に立ちはだかる強敵の弱点を仕入れるのは、常勝を求められる勇者には必須なのです。

 かつて情報を軽視して敗北した武官は数知れません。

 太平洋戦争当時の大日本帝国は、真珠湾にアメリカの太平洋艦隊が集結している情報を得て奇襲を仕掛けます。いわゆる「真珠湾攻撃」です。

 これによりアメリカ軍の太平洋艦隊は一時的に壊乱し、その間に大日本帝国軍が東アジアから東南アジアを経てインドに至るまで植民地解放を成し遂げます。

「真珠湾攻撃」では周到なまでの「情報収集」が行なわれていたのです。しかしアジア解放を成し遂げる際には綿密な「情報収集」を怠ったとしか思えません。

 事実、解放地域を各個撃破されて物量にまさるアメリカ軍の反撃を招いています。

「情報」を制して勝利し、「情報」を軽んじて敗北したのです。

 実は、日本はアメリカが原子力爆弾を開発するのと同じ頃に、原子力爆弾の所持を検討していました。もちろん核実験の必要はありますが、もしかすると日本がアメリカ本土へ核爆弾を炸裂させていた可能性すらあったのです。

 しかしそれが本当にその後の平和を招いたのかは論を待ちません。確実に戦乱は拡大していたはずです。


 この戦時中の核兵器開発を教訓として、今話題の「日本学術会議」が設立されます。科学が戦争の手助けをしないための組織とされているのです。しかし現在では組織はあれど政策提言などは行なっておらず、二百十名の定員はただ政府から割り当てられた年間十億円を分配して、政府に難癖をつけるだけの組織に成り下がっています。だから六名の任命が拒否されたのでしょう。

 しかし日本国憲法第九条「戦争の放棄」のもとで設立された「日本学術会議」は、翌年「自衛権」を主眼に据えた「自衛隊」設立後も、組織が変革しませんでした。依然として「戦争は駄目」としか言わないのです。

 本来なら「自衛」を目的とした研究開発はするべき。そうしないと国が滅びますからね。

 日米安全保障条約に反対し、集団的自衛権に反対し、どうやって日本を守るのか。その政策すら提言していないのです。これでは「給料泥棒」と呼ばれても仕方がありません。

 そもそも「自衛権」は戦勝国であるアメリカがお墨付きを与えており、「自分の国は自分たちで守る」という国家の大前提を提言しているのです。

 それなのに「集団的自衛権」どころか「自衛権」そのものを否定するのは、国際社会を甘く見すぎです。

 核心的利益があるならば、それを主体的に守らないで領土の保全はできません。

 ロシアのクリミア半島強奪、中国のスプラトリー環礁の埋め立てと軍事拠点化、さらに香港の一国二制度を骨抜きにする法律の制定。

 これで「国家に差し迫る危機」を感じないのであれば、「日本学術会議」の存在意義はありません。

 本来ならこういった社会情勢を分析して、適切な政策を提言するはずの機関なのですから。

 六名の任命拒否ばかり問題になりますが、活動実態が伴っていないのであれば拒否されて当然です。

 しかも特定政党の支持者の学者を「日本学術会議」に加入させること自体がリスクといえます。

 今の「日本学術会議」は政府直轄となっていますが、活動実態を見れば民間組織に下るべきです。そうすれば活動の自由は保証されます。

 そもそも「日本学術会議」に加入しなければ「学問の自由」の侵害だというのであれば、日本に数十万人いる「日本学術会議」に所属していない学者には「学問の自由」がないとでも言うのでしょうか。

「日本学術会議」の言う「学問の自由」は詭弁にすぎません。

「日本学術会議」に所属していない多くの学者が反発するだけです。





最後に

 今回は「未知なるもの」について述べました。

 それがどんなものかわからなければ、人は不安や恐怖を覚えます。

 それを晴らすために、事に当たる前に「情報」を仕入れるのです。

「情報」はまさに生命線となります。

 日本は、そして日本人は本当に「情報」のたいせつさを感じているのでしょうか。



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