1312.物語篇:物語56.記憶と真相

 記憶喪失の物語はかなりの数ありますよね。

 自分は何者なのか。ここはどこだ。今はいつだ。

 わからないところから始まるから、読み手へ状況を説明しやすい利点があります。

 しかし「説明しやすい」だけで主人公を記憶喪失にしてしまう書き手が多いものです。

 現実にいる記憶喪失者の割合と、小説の主人公における記憶喪失者の割合は、かなり乖離しています。小説は多すぎるのです。





物語56.記憶と真相


 主人公が記憶喪失からスタートする物語があります。

 しかしそれは本当かもしれませんが、方便かもしれない。

 本当の記憶喪失の場合は主人公の一人称視点で書けます。

 しかし方便だったら、脇役の二人称視点か三人称視点でしか書けません。なにせ一人称視点だと主人公の心の中は読み手がすべて知ってしまいます。それではすぐに方便だとバレてしまうでしょう。




隣に死体が

 眠りから覚めて隣を見たら死体が転がっていた。

 しかも昨夜の記憶はまったくない。

 この状況で混乱しない人はまずいません。記憶はないが自分が殺したのか、誰かが自分をハメようとしているのか。とても危うい状況です。

 もしホテルの一室なら警察に電話せざるをえず、その場合は容疑者筆頭となります。

 もし自分の家だったらどうでしょうか。やはり警察に電話する方もいます。ですが自分が疑われるのが嫌で、死体をどこかへ遺棄しに行くかもしれません。まぁ遺棄してしまうと殺していなくても「死体遺棄事件」として捕まるんですけどね。

 欠けている記憶の中に真相がある。だから真相を思い出すために捜査を開始するかもしれませんね。ですが主人公が警察でもなければ、聞き込みしようとしても答えてくれる方なんて数えるほどです。

 記憶がないというのはとても焦ります。その間になにをしていたのかわからないからです。飲酒でやらかしてしまう人が多いのも、記憶に残らないから。もし酒に呑まれても記憶に残っていたら、飲酒を控えるでしょうし飲むとしても深酒はしないはずです。

 たとえば記憶のない主人公が「異世界ファンタジー」で目覚めたらどうでしょうか。

 読み手としては記憶のない主人公が見るものはすべて自分たちが見ているような印象を受けますよね。「異世界転移ファンタジー」で主人公に記憶喪失が多いのも、世界観の語りを読ませようとする意図があるからです。

 少なくとも「異世界ファンタジー」で記憶喪失の主人公なら「なにか秘密がある」と考えるのが自然でしょう。その欠落している記憶の中に、物語の真相が含まれているケースがとても多い。日々の体験を通して記憶がじょじょに戻ってきます。最終的にすべてを思い出して事件の首謀者が誰なのかがわかるのです。

 しかしこのような安易な理由で「主人公が記憶喪失」を書かないでください。実は「主人公が記憶喪失」の小説が殊のほか多いのです。

 一説によると「小説賞・新人賞」への応募作品の二割は「主人公が記憶喪失」なのだとか。

 物語を面白くしたいがために「主人公が記憶喪失」を書こうとするのですが、実際には古典にすらならないような使い古された状況なのです。

「小説賞・新人賞」に応募するのであれば「主人公が記憶喪失」は避けましょう。それだけで一次選考を通過する確率を高められます。




記憶がないとウソをつく

「記憶がない」もうひとつのパターンが「記憶がないとウソをつく」です。

 主人公には隠さなければならない秘密がある。それを知られたら平穏な日々を送れない。だから記憶喪失のフリをするのです。

 先ほども申しましたが、「ウソをつく」パターンの場合は主人公の一人称視点が使えません。他人から見た主人公はなにか謎を抱えているように見える。そこに「嘘をつく」理由が隠されています。

 主人公の一人称視点が「小説賞・新人賞」の一次選考を通過するかどうかの重要な鍵を握っています。

 ですが「記憶がないとウソをつく」物語の場合、二人称視点、三人称視点が許されているのです。というより、そうしないと面白みや意外性がありませんからね。

 たとえば「魔王」を記憶喪失にして主人公とするなら。じょじょに記憶が戻ってくると自分を苦しめ傷つけることになります。だから面白い物語になりそうだ、と思うのです。

 しかし「魔王」が「記憶喪失のフリをして」主人公にした場合は、主人公の真の目的がなんなのかを読み手は冒頭から知ってしまいます。これでは緊迫感も出ないし意外性も出ません。

 ですがよく考えてください。「記憶喪失のフリをしている魔王」が主人公の場合、結局「魔王」を倒す「勇者」が現れますよね。であれば「勇者」の一人称視点にして「記憶喪失のフリをしている魔王」について語ればよいのです。なにも「記憶喪失のフリをしている魔王」を主人公にする必然性がありません。

 そもそも主人公がウソをついて、それがウソなのか本当なのかを読み手に告げなかったらどうなると思いますか。

 裏切られたと思うのです。

 小説で主人公に隠しごとがあってはなりません。

「記憶喪失のフリをしている」主人公の一人称視点の場合、ウソをついているとバレたくない。ウソを書いたらあとあと非難される。だったら書かなければいいじゃないか。

 処世術としてはそれも「あり」です。ウソをつきたくない人は、本当なら素直に認め、素直に認めないほうがよいのなら黙っていればよい。そうすればウソはついていませんからね。ですが主人公の一人称視点で書く場合「ウソをついた」という事実を文章で書かなければ、読み手への裏切り行為です。こんな作品はどんなに筆致が巧みでも一次選考は通過しません。それだけ「読み手への裏切り行為」は厳禁なのです。

「記憶喪失のフリをしている」主人公にしたければ、視点を主人公に持たせないでください。必ず他人の視点で書いて、主人公の本心が覗けない仕組みにするべきです。

 アニメのタツノコプロダクション『宇宙の騎士テッカマンブレード』では、まさに「記憶喪失のフリをしている」主人公Dボゥイがテッカマンブレードに変身して地球侵略を企むラダムを倒していく物語です。スーパーヒーローものですから、本来なら主人公の一人称視点で描きたいところ。ですが「記憶喪失のフリをしている」ので主人公の一人称視点にはできません。幸いアニメなので三人称視点で押し切れました。実はこの作品、主人公の素性が明らかになった途端に「主人公の一人称視点」へと切り替わっています。まぁそれから物語が進んで、最終局面を迎えると本当の「記憶喪失」になってしまうんですけどね。「記憶喪失のフリをしている」で始まって「記憶喪失」になって終わるという因果関係が本作品の魅力のひとつでしょう。




記憶の中に真相がある

 多くの「記憶喪失」ものは、欠けた記憶の中に「真相」が含まれています。

 つまり「真相」を暴きたければ「記憶」を取り戻さなければならない。「記憶」を取り戻したければ「真相」に近づかなければならない。

 このふたつが絡み合っているからこそ、「記憶と真相」の物語は面白いのです。

 もし「真相」なんてものはなく、単に世界観や舞台の設定をしやすくするため主人公を「記憶喪失」にするのでは、まったく意味がありません。「記憶喪失」にするのなら、欠けている「記憶」の中に物語の核心に迫る「真相」が必ずなければならないのです。

「記憶喪失のフリをしている」場合、なにか隠さなければならない重要な理由があります。隠さなければ普通に暮らせないから隠すのです。でも隠した「記憶」の中に物語を左右する重大事が必ずあります。

「王様の耳はロバの耳」と言えばラクになれるのに、権力が怖くて誰も本当のことが言えませんでした。たとえ本当のことでもウソをつかなければならない場面もあるのです。

「記憶喪失」を取り扱う場合、欠けた「記憶」に「真相」へつながるヒントを書くようにしてください。そこに「真相」があるから、読み手は手垢まみれの「記憶喪失」ものを楽しく読めるのです。

 単なる物語の都合上「記憶喪失」ならいろいろ説明できるとラクになるのでは。そういう「記憶喪失」だけはやめましょう。





最後に

 今回は「物語56.記憶と真相」について述べました。

「小説賞・新人賞」の応募作の二割は「記憶喪失」ものだと言われています。

 設定として陳腐なのです。しかもたいていの「記憶喪失」は物語世界を説明するのに都合がよいから用いられています。

 そうではなく「欠けた記憶」の中に物語の「真相」を含めましょう。それを知ってしまったがために「記憶を失った」のです。

 それなら物語が進むにつれ、主人公が「記憶」を取り戻していっても不自然になりません。目的もなく「記憶喪失」を扱うから陳腐になるのです。



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