1311.物語篇:物語55.生徒と教師
今回は「生徒と教師」についてです。
人間にとっては肉親以外で初めて接点を持つのが教師つまり先生です。
そんな教師と先生の関係が物語を生みます。
物語55.生徒と教師
「学園」ものを書く場合、生徒同士の人間関係が主眼になりがちです。
しかし「生徒」だけが困難に対処するのはやはりおかしい。
本来なら手本を見せるために「教師」が困難へ立ち向かうものです。
「生徒」だけに目が行きがちですが、「教師」にもスポットライトを当ててみましょう。
教師は師匠
「教師」は「剣と魔法のファンタジー」で言えば「師匠」です。多くの「弟子」を抱え、教え導かなければなりません。そのために「教師」は手本を見せなければならないのです。理想論だけを説いても、実践が伴わない「師匠」の言うことを「弟子」が見習うのでしょうか。
弟子は皆、愛想を尽かすと思います。
『論語』の主人公である盧の孔丘は、三千人の「弟子」をとっていたとされています。なぜ三千人もの「弟子」が彼についていったのでしょうか。
ひとえに彼が信奉する周王朝建国の功臣・周公旦の政治を現代で再興しようと考えていたからです。そしてその道は「三皇五帝」のひとり黄帝にまでさかのぼります。
理想の政治を掲げた孔丘は盧に登用されるまで、諸国を渡り歩いているのです。一説には五年・十年という単位で士官先を探し求めていました。
それでも孔丘には幾人もの「弟子」が付き添っていたのです。孔丘が理想の政治を掲げ、自らを律し、「弟子」たちにも理想の政治を要求しました。
「師匠」が理想の政治を体現しようとしているのに、「弟子」がそれに学ばないなんてことはありません。と言いたいところですが、孔丘率いる儒家には、どんな組織にも存在する「不心得者」が幾人もいました。
しかし孔丘はそんな「不心得者」も教え導こうとしたのです。自らの教育に自信を持っていました。それでも「はみ出し者」は出てくるものです。そういった「はみ出し者」はなぜ儒家でいられたのでしょうか。ひじょうになまぐさい話ですが、孔丘たちが生きていくためです。「はみ出し者」の多くは富を有していました。孔丘たちはそれを食いつぶしながら、長年士官先を見つける旅に出ていたのです。だから金持ちやその子弟であれば、多少の「不心得者」「はみ出し者」も儒家に引き込まなければなりませんでした。
孔丘が長年の放浪のうえたどり着いて仕官できた盧の国に腰を落ち着けてからは、諸国へ弟子たちを次々と仕官させています。何年も放浪するほどの人物の推薦がなぜ通ったのか。小国の盧の外交を担っていた孔丘が、大国の斉から領土を口先だけで奪い返したからです。大国といえども論破するだけの気概と教養を有していたことで、孔丘の教えは周公旦や黄帝の道であると諸国に知れわたりました。
孔丘の教えは確かに立派でした。しかし弟子はそれほど有能ではなかったようです。いちばん見込んでいた顔回を病で失ってから、儒学の弟子は武闘派が幅を利かせるようになります。子夏や子貢といった『論語』に登場する人物も、各国へ仕官して儒家の得意とする話術ではなく腕力に頼った政治をしているのです。ある国ではクーデターが起こり、孔丘の弟子は主君を守るために命を落としたとされています。孔丘はそれを伝え聞いて慟哭したのです。
生徒は弟子
世界的にカルト教団は弟子に恵まれないもののようです。
そしてその大半は師匠に問題があります。
師匠の理想が高すぎて、弟子たちがついてこれないのです。だから「不心得者」「はみ出し者」も出てきます。
イエス・キリストを中心とするイエス教団は、十三人目の弟子で裏切り者のユダによって瓦解するのです。(これは俗説です)。
アーサー王も庶子モルドレッド卿を教え導けず裏切られています。ちなみにアーサー王はキリスト教徒です。キリスト教は裏切りの宗教なのでしょうか。
孔丘は優秀な弟子も多かったのですが、武闘派の弟子のほうが多かったようです。儒家に入れば国の重職に就けるという「登竜門」として扱われていた節があります。だから野心家が多かったですし、問題を起こす弟子も多かったのです。これぞと見込んだ弟子は相次いで世を去っています。まさに「憎まれっ子世に憚る」を地で行っていたのです。
孔丘が最も目をかけていた顔回は、周公旦の生活を守るために粗食で過ごしていました。彼は栄養失調となり流行り病で死んだとされているのです。
師匠の教えを忠実に守ったがゆえに破滅してしまった例でしょう。
そもそも周公旦は曲がりなりにも王室の系譜です。いくら粗食をしたと言っても、それは当時の国王たちに比べればの話で、一般家庭からすればじゅうぶん贅沢。それをただ歴史書の記述から「粗食」だけを真似るのは本来ズレています。だから顔回は栄養失調となり流行り病にかかって死んだのです。
弟子は師匠に倣うもの。そういう意味ではキリストもアーサー王も孔丘も、よい師匠ではなかったのです。人を惹きつける魅力はあっても、教え導くだけの知恵が及ばない。
まぁ教え導けるのなら、カルト教団なんかせずに教育者にでもなっていますからね。
カルト教団を作ったくらいのレベルなら、現代日本にもゴロゴロいます。彼らが本当の意味で「教師」たりえているのかどうか。単に政界に打って出て政権を執りたいとか、宗教でお金儲けしたいといった不純な動機なのでしょうけど。
生徒は教祖の姿を見て育つ。カルト教団の信者がいかにヒドいかは、ここで語らずとも皆様には経験がありますよね。
生徒に教えるだけが教師の役割ではない
普通なら「教師は生徒に教える仕事」と言いたいところですが、そのまま物語にしてもいまいち面白くない。
それはそうですよ。学校教育でさんざん体験していますから。
小説では「教師」は「生徒」を指導しなくてもよいのです。
それこそ教師と高校生との恋愛物語だってかまわない。少なくとも教師をオトした生徒はけっこうな数いますよね。
マンガの高橋留美子氏『めぞん一刻』の管理人・音無響子だって教師だった音無惣一郎と結婚しているんですから。
ただどうしても最近の風潮からか、成人向けのネタにされやすい。生徒が大学生でなければ「淫行」の罪に問われますからね。
「生徒」を抑圧する敵対者として「教師」が登場する物語もかなりあるのです。
物語の世界では、近年「教師」が「生徒」を指導せず、自分のやりたいように行動するケースが目立ちます。
「異世界転移ファンタジー」で学校以外の時間は異世界で勇者として暮らす教師だっているのです。たとえば雑賀礼史氏『召喚教師リアルバウトハイスクール』の南雲慶一郎は、地上最強の格闘家でありながら都立大門高校英語教師として働き、実は異世界に召喚されて勇者をやっています。
ライトノベルの読み手層である中高生からすれば、「生徒」が主人公の作品は読みやすい。ですが普段触れる機会の多い「教師」が主人公でも面白がって読めます。さすがに「教師」の悲哀を描いた作品はウケませんが、「教師」が勇者をしているケースは意外と多いのが実情です。
マンガの堀井雄二氏&三条陸氏&稲田浩司氏『DRAGON QUEST −ダイの大冒険−』の勇者アバンも、魔術師ポップや主人公ダイの教師として立ち振る舞っています。
「中高生」が勇者な物語に飽きたら、ぜひ「教師」が勇者の物語を書いてみてください。さまざまな気づきが得られますよ。そもそも「勇者とはなにか」を考えるにはうってつけの人物が「教師」なのです。
最後に
今回は「物語55.生徒と教師」について述べました。
普段教わる側と教える側に位置しますが、小説ではそんな既存の枠にとらわれないでください。生徒のほうが優秀な「生徒と教師」の物語があってもよいのです。
逆に普段は冴えない「教師」が実は世界を救う勇者だったでもかまいません。そのほうか面白くなるパターンが多いですからね。
いかに意外性を出すか。本来なら主人公にならないような人物で「小説賞・新人賞」を獲った作品はかなりあります。だからこそ毎回奇抜な主人公が応募されるのです。一般的ではないため、ウケる構成がわからずに苦労する方も大勢います。
どういった人物を主人公にしたら面白くなりそうか。その手始めが「教師」というだけです。だって「中高生」以外で身近な職業は両親か教師くらいなものですから。
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