1289.物語篇:物語34.本質と対面

 人は自分の「本質」となかなか向き合えないものです。

「本質」が自分の理想とかけ離れていたら、自分に失望するかもしれませんからね。

 見かけと「本質」は別のもの。

 いつかは「本質」と向き合わなければならなくなります。





物語34.本質と対面


 人は当人が気づかない「本質」を持っています。

 誰もが「勇者」だと持て囃す人物の「本質」は「臆病」かもしれません。

 だから「勇者」はいつか自分の「本質」と向き合わなければならないときがやってきます。

「本質と対面」するところから、主人公の変容が始まるのです。




見かけと本質は別もの

 いかな聖職者といえども純潔とは言い難い。

 牧師、医師、教師などの聖職者の不祥事が相次いで報道されています。

 肩書や見かけでその人の「本質」は測れません。

「異世界ファンタジー」では魔王に戦いを挑む勇者が登場します。

 勇者は人々から恐れ知らずだと思われているのです。

 当人も「自分は選ばれし存在だ」と認識しているかもしれません。

 しかし現実に魔王と対峙し、その強大な魔力を見せつけられて、動じない勇者ばかりではないのです。

 強大な魔力を見せつけられて「死」を意識し、途端に怖くなって体が震えてしまう勇者もいると思います。

 まぁ物語ですから、そんな勇者では話が進みません。なにかしら理由をつけて勇気を振り絞るのです。たとえば仲間のひとりが目の前で無惨に殺されてしまう。怒りが恐怖心を凌駕して魔王へ突撃する。よくある物語ですよね。

 逆にいつもはおどおどしているのに、戦いになると勇気が湧いてくる主人公もいるでしょう。普段は好戦的ではないのに、戦いが始まるといきいきしてくる。

 いつもは怠け者なのに、命懸けの勝負になると冷静沈着で抜け目がない。

 見かけほど信頼できないものはないのかもしれません。

 主人公も見かけとは異なる「本質」を持っているのかもしれません。

 その場合、どうやって描写すればよいのでしょうか。

 まさか戦いになった途端、好戦的な「本質」で埋め尽くすわけにもいきません。

 それでは唐突に過ぎます。これまで読んできた主人公の人となりはなんだったのかが問われます。

 命懸けの戦いで生き生きとしてくる主人公なら、日常のちょっとした事件でもワクワクとしてくるはずです。平時でも垣間見られる野次馬根性。自分から事件に首を突っ込みたがる性分。そんな「本質」の一端を書き出しで描写するべきです。

 小説投稿サイトの作品で「下手を打っているな」と感じるのは、急事が発生したときに、それまでの主人公とは「別人のよう」な「本質」が露わになる点です。それまでおどおどしていたのに、強敵が現れた途端なぜか肝が座っている。では日頃のおどおどとしていたのはなんだったのでしょうか。主人公に一貫性がありません。

 おどおどとしているのと肝が座っているのと。どちらが主人公の「本質」でしょうか。




本質が足を引っ張る

 太宰治氏『走れメロス』では、冒頭から主人公の苛烈なまでの正義感が綴られています。ただしかなりの説明口調です。今の小説で『走れメロス』の出だしを真似するのは得策ではありません。地の文で断定的に説明するのではなく、場面シーンとして読ませるべきです。

 見た目と「本質」とのギャップは、なるべく早いうちに読み手へ示しましょう。

 いきなり「本質」を書いてから、日常のギャップを読ませる手法もあります。これなら主人公を動かしながら描写できるのです。そのため人物像を早いうちから読み手へ示せます。「本質」はその人の行動に制約をもたらすのです。

 おどおどとした主人公が、いきなり現れた魔王に戦いを挑むなんて考えられませんよね。腰を抜かして動けなくなっているものです。

 聖職者が不祥事を起こすのも、「本質」に足を引っ張られるからと考えれば合点がいくかもしれません。

「本質」は人そのものを形作る核であるため、そう簡単には変わらないのです。

 だからある状況に直面すると、今の立場とは関係なく「本質」が現れてしまいます。

 魔物と戦わなければならない人物がとても弱い心しか持っていなければ、魔物を殺すことさえできないのです。そんな調子で魔王を倒せるものでしょうか。できるかもしれませんが、とても長編小説で描ききれるとは思えません。

 これは「勇者と魔王」の物語に「本質と対面」の物語を内包させてしまったから起こります。本来ならそれぞれの物語だけでも十万字はかるく埋まるのです。エピソードをいくらか端折ってようやく十万字に収まります。それなのに、ふたつの物語を描ききろうとする。最低でも二十万字は欲しいところです。そうでなければどちらも不完全燃焼で終わってしまいます。

 気になる異性が猫好きなら、「猫アレルギー」のある人は克服しようと努力するしかありません。

 聖職者として生涯を全うしたいのなら、「小児性愛」を治して「博愛主義」に転向しなければならないのです。



本質と向かい合う

 主人公はいつか自らの「本質」と向き合わなければなりません。

 多くは最終決戦前に訪れます。

 命懸けの大勝負に挑む覚悟を決めるため、「本質」と向かい合って本当の自分を見つめ直す必要があるからです。

 主人公の「本質」はこれまでの物語ですでに書かれています。

 しかし主人公が自覚するのはこの「本質」と向き合うときからです。

 魔王を倒したとして、そのあと自分はどうすればよいのだろうか。勇者としての価値がなくなったら、誰からも見向きもされないかもしれない。それでも人は大仕事をするまえに心の整理をつけなければなりません。

 さまざまな心のわだかまりやしこりをほぐさなければ、仮に大勝負を勝ち抜いてもその後の振る舞い方が見つけ出せないのです。

 だから大勝負前に「本質」と向き合わなければなりません。

 戦いが終わってから「本質」と向き合ってもなんにもならないのです。それでは単なる後付けの設定になってしまいます。

 戦う前は大勝負のことだけで頭がいっぱいになる人もいるのでしょう。しかし大仕事をやり尽くしたらその後どうするか決めていなければ、主人公が進む先は定まらないのです。

 だから最後の大勝負に挑む前に「インターミッション」としてこれまでの戦いを振り返ります。なにが自分の「本質」かを見極めるのです。

「本質」と「対面」するからこそ、主人公は自らに欠けているもの、必要としているものに気づけます。

 それがたいせつな人物が誰かを見出だす鍵を握っているかもしれません。

 戦いが終わり、王女と幼馴染みのどちらを選ぶのか。これも最終戦前に決めておくべきです。戦い終わってから考えるのでは遅すぎます。

 なによりドラマチックな展開にはならないのです。

 大一番の前に「本質」と「対面」するから、憂いなく最終決戦に挑めます。

 たとえそれが「フラグ」だったとしても、先に「本質」と「対面」し、意を決して戦いに挑むべきです。

 それがドラマでありエンターテインメントになります。





最後に

 今回は「物語34.本質と対面」について述べました。

 誰しもが持っている「本質」は、意識しなければ見過ごされてしまいます。

 そうなると弱い「本質」のままで戦わなければならず、不利は免れません。

 もし「本質」と「対面」して弱さを自覚できれば、相手にそこを突かれてもすでに覚悟は定まっているので恐れるに能わず。

 以上「剣と魔法のファンタジー」を中心に考えてみましたが、「恋愛」ものも同じです。

 自分が本当に好きなのは誰なのか。それすらわからないのに告白という一大イベントを迎えるわけにはいきません。告白直前まで決めかねているようなら、意中の異性はその場で決めたとしか思えないのです。

 必ず告白イベント前にたいせつな人を決めておきましょう。

「本質」と「対面」するからこそ、決戦に挑めるのです。



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