1284.物語篇:物語29.覇権と没落

 今回は「覇権と没落」についてです。

 せっかく「覇権」を手に入れても、いつかは「没落」する日がやってきます。

「盛者必衰」と言いますよね。





物語29.覇権と没落


「覇者」とは古代中国で周王朝が衰退していく頃に現れた、周王に代わる軍事的・経済的なリーダーです。「春秋五覇」と呼ばれる五名がとくに「覇者」として知られています。

「春秋五覇」とは斉の桓公、晋の文公、楚の荘王、呉王闔閭、越王勾践を指すのが一般的です。

 これら覇者の中には、実力でその地位を手に入れたものの、晩年は哀れな死に方をした者もいます。




覇権を手に入れる

 覇者がその地位を手に入れるには、実力を示すしかありません。

「春秋五覇」の筆頭に挙げられる斉の桓公は、斉の跡目争いで兄のひとりの補佐役となった管仲を私情を越えて重用します。管仲の才幹はすさまじく、国力を大きく富ませ、経済的に中華全土を統率するリーダーの地位を手に入れました。司馬遷氏『史記』に記されていますが、管仲の死後ほどなくして桓公は彼が登用しないよう名指しした人物をそばに置いたがために内乱が発生し、桓公は死後数週間誰にも見つからず、ウジが湧いている姿で発見されたそうです。

 覇者は引き際がとても難しい。

 呉王闔閭は将軍の伍子胥と軍師の孫武を登用してから、軍事力が飛躍的に高まります。その圧倒的な武力によって「春秋五覇」に数えられているのです。その実力は諸国が十万の兵を率いていても、呉の三万の兵には敵わないほど。卓越した将軍と軍師の働きにより、覇王となれたのです。このとき越王勾践を降して城下の盟を誓わせています。闔閭の死は老衰でしたから引き際はよかったほうなのですが、跡を継いだ夫差が暗君でした。

 せっかく闔閭が降した勾践が臥薪嘗胆で耐え忍び、闔閭の死後夫差が跡を継ぐと賄賂を渡して封鎖を解除させます。伍子胥は反対したそうですが夫差が許可してしまったのです。このとき孫武の記述がないので、闔閭の死に際し暇乞いして国外脱出したのではないでしょうか。越に興味を示さなかった夫差は闔閭の拡大路線を継続しますが、その背後を越王勾践が突いたのです。こうして夫差を挟撃し、勾践の長年の願いであった呉打倒がなりました。

 三名を挙げましたが、いずれの覇者も軍事的・経済的なリーダーだったことがわかります。しかし経済的な覇者は斉の桓公くらいで、残りは軍事的なリーダーでした。つまり軍事に異彩を放っていれば覇者になれました。

 現在の「剣と魔法のファンタジー」では、覇者はたいてい「皇帝」として扱われます。しかし「春秋五覇」のうち二人は公爵止まりです。周王朝の政治的な影響力がそれまでも続いていました。しかし楚は正式には「中華」の国ではありません。「中華」は黄河流域の文明圏を指しますが、楚は長江流域の国です。つまり実際には「中華」の国ではありません。それでも軍事的に秀でた才能があったため、覇者として認められます。楚は「中華」の国ではないため周王朝を憚る必要もなかったので「王」を名乗っていたのです。以後「中華」の諸国も「王号」を名乗るようになります。

 覇権を手に入れるには、武力で周囲を圧倒すればよいのです。




皇帝と呼ばれる覇者

 秦の始皇帝エイ政は、戦国七雄のひとりであり、残る六国を武力によって滅ぼして独裁権を手中に収めます。そこでエイ政は歴史上の偉人であり神のような存在でもある「三皇五帝」から字を借りて「皇帝」と名乗ったのです。中国史上初の「皇帝」なので、以後は始皇帝と呼ばれています。

 つまり「剣と魔法のファンタジー」に「皇帝」がいるのは本来おかしな話なのです。

「三皇五帝」がいなければ「皇帝」がいるはずもない。つまり「剣と魔法のファンタジー」の「皇帝」は本来「覇者」か「覇王」と呼ぶべきなのです。どうしても「皇帝」の称号を使いたければ、それなりの理由付けが必要になります。

 田中芳樹氏『銀河英雄伝説』は、遠い未来が舞台のSF小説ですから、「皇帝」が出てきても違和感はないのです。映画のジョージ・ルーカス氏『STAR WARS』も同様。

 しかし「剣と魔法のファンタジー」はたいてい「異世界」が舞台ですから、「三皇五帝」がいるはずもありません。それなのに多くの「異世界ファンタジー」に「皇帝」が登場します。これをおかしいと感じられるかで「言葉」に敏感かがわかります。

 まぁ英語の「Emperor」を「皇帝」と訳すから、「皇帝」でいいんじゃないの? と言われてしまうと困るんですけどね。ドイツ語「der Kaiser」は元々ガイウス・ユリウス・カエサルの「Caesar」からとられた帝政ローマの「皇帝号」とされています。だからドイツ語で「カイザー」だから「皇帝」なんだと主張する方もいます。

 よって「皇帝」という単語が古代中国の「三皇五帝」に由来しているとしても、英語やドイツ語を和訳すれば「皇帝」だから、という理由付けもできなくはないのです。

 でも私は違和感を覚えてしまいます。

 これは書き手が「皇帝」という単語にどれだけ思い入れを持っているか。その差だと思います。

 単に「皇」か「帝」と呼べば違和感はないのです。「皇帝」の二字で呼ぶから駄目に見えてきます。「皇」か「帝」なら治める国は「皇国」「帝国」ですし、頂点に立つ者は「皇王」「帝王」と呼べるのです。

 ではなぜ多くの「異世界ファンタジー」ライトノベルに「皇帝」が出てきてしまうのでしょうか。

 単に「学がない」のかもしれません。「異世界ファンタジー」の多くが「中世ヨーロッパ風」の世界観ですから、古代中国に詳しくなくても書けてしまうのです。「中華風ファンタジー」なら「皇帝」が出てきてもよいのですけどね。

 これは私が偏屈なだけかもしれませんね。




覇者もいずれは没落する

 斉の桓公で書きましたが、覇者となりながらも没落した最期を迎える方もいるのです。

『平家物語』の一節にも「盛者必衰」とあります。どんなに栄えた者もいずれは衰えるときがやってくる。

「覇権と没落」の物語は、ただ「覇権」を握るだけでは完成しません。

 その後、宰相の補佐を受けながら名君として知れわたる。しかし頼みの綱だった宰相が亡くなってしまい、名君の仮面が剥がされるときがやってくるのです。

 そうなったら評判はガタ落ちになります。

 それでも「覇権」の名残はあるでしょう。当面の間はまだ「覇者」でいられるはずです。

 ですが、すでに頼みの綱はいません。評判はどんどん落ちていきます。

 それが続いたら、もう誰も「覇者」の言うことを聞かなくなるのです。

 こうして人々から忘れ去られて「没落」し、惨めな最期を迎える。

 それが「覇権と没落」の物語なのです。

 どんなに歴史に残る偉業を成し遂げても、最期はそんなものなど役立ちません。

 現在本放送が止まっている大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公・明智光秀氏はその最たるものかもしれません。

 当時全国統一を達成しそうな勢いを誇っていた織田信長氏を誅殺して天下を取ります。しかし三日後には羽柴秀吉氏の軍勢によって滅ぼされてしまいます。

 どんな偉業を成し遂げようとも、必ず没落する日はやってくるのです。

 明智光秀氏は織田信長氏の策動を止めたかっただけなのかもしれません。殺して「覇権」を奪おうという気がなかったのだとしたら、「三日天下」になったのもうなずけます。

 もし「覇権」を奪う目的だったのならば、まず足利将軍家を味方に引き入れ、次に天皇から勅命を受けて後ろ盾を得る。織田信長氏の部下たちの誰よりも早く動けたはずなのです。しかし実際には羽柴秀吉氏に討たれるまでほとんどなにもしていません。三日もあったのになにもしていないのです。

 であれば『麒麟がくる』も「覇権と没落」の物語なのかもしれませんね。




最後に

 今回は「物語29.覇権と没落」について述べました。

 どんなに「覇権」を握っても、いつかは「没落」していくのが世の常です。

 生き残る術はただひとつ。後継者を素早く立ててさっさと隠居するのです。

「剣聖」として今も讃えられている宮本武蔵氏も、剣術の御前試合などさっさとやめて隠居の道を選んでいます。そうして時間が出来てから書き上げたのが『五輪書』なのです。

 なにも考えずにただいつでも反応できる状態をとる。『五輪書』に書かれている「残心」の精神は、命懸けの勝負などつまらぬもの、という宮本武蔵氏の悟りが表れているのです。

 生き残ろうと考えるな。名を残そうと考えるな。死を恐れるな。なにも考えずにただ敵と対峙すればよい。

「覇権と没落」の物語で、最後に没落をさせたくなければ、さっさと隠居させてください。



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