1280.物語篇:物語25.戦争と平和

 なんの因果か、終戦記念日にちょうどピタリの物語を持ってきました。

 世界大戦から反抗期まで。あらゆるものに抗う物語です。

「貴族と革命」とは異なり、戦後は平和になりました、で終わります。下剋上する必要がないのです。

 では「戦争」について考えてみましょう。





物語25.戦争と平和


「終戦記念日」というのもあり、ちょっと重い物語について考えてみます。

 ここでいう「戦争」とは「抗う」ことであり、「平和」とは「受け入れる」ことです。

 一般的には国家間の「戦争」ものが多くなります。でも身近な「抵抗」と「受容」はいくらでも思いつけるはずです。




外圧に抗う

「戦争と平和」の物語で主人公は、これまでなにかに抑圧されていました。

 しかしそれが嫌になって「反抗」するのです。

 子どもが少し大人に成長するには「反抗期」を越えなければなりません。

 普通の家庭に育っていれば、誰もが必ず経験する「反抗期」。

 実は私、養護施設育ちのためかさしたる「反抗期」を経ていないんですよね。だから思考がお子様なのかもしれませんが。

 牙と爪を抜かれた虎は、大きな猫にしかならないのです。

 物語が始まった当初はごく平凡な日常を過ごしています。しかしそこに外部から抑圧されるのです。するとその状態をよしとせず「反抗」が起こります。

 そんな「反抗」には「跳ね返り」から「戦争」まで規模に差が生じるのです。

 物語の中には最初から「戦争」状態な場合も多くあります。

 宗田理氏『ぼくらの七日間戦争』は青葉中学1年2組の男子生徒8名が「反抗」から姿をくらまし、荒川河川敷の廃工場に立てこもって女子生徒たちと体罰で大怪我を負った少年と協力して、校則で「抑圧」する教師や勉強を「押し付ける」親に反旗を翻す「青春」物語です。

 まさに少年少女らによる「戦争」と言ってよいでしょう。

 たとえば『シンデレラ』は継母や義姉妹から下女扱いされていた女性が、「こんな下働きばかりしていないで自分も舞踏会に行きたいなぁ」と思ったところからスタートしているのです。

 現状に「抗う」ところを読ませてから魔女が登場します。

 寓話ですからもちろん魔女の登場は「ご都合主義」です。小説では使えません。もし小説に仕立てるなら、魔女の存在を冒頭からちらつかせる必要があります。

「この世界には魔女が存在するんだ」と冒頭で読み手に認識してもらわなければ、いつ魔女を登場させても「ご都合主義」とみなされるのです。

 主人公たちに襲いかかる「外圧」は「躾」「体罰」「抑圧」などの個人的なものでもかまいません。それらに「反抗」するさまを読み手に提示し、どのような場面が繰り広げられるかを読ませるのが「戦争と平和」の物語なのです。

 これが国家レベルになると「戦争」に発展するのです。

「戦争」とは領土拡張や利益獲得のための野心的な行ないとされています。

 しかし自主防衛的な「戦争」もあるのです。

 たとえば太平洋戦争は日本が石油の輸入をアメリカに止められたから起こったとされています。

 そんなところから始まった太平洋戦争は、帝国陸軍が「植民地解放」に旗頭を変えました。そして東南アジア諸国を主戦場としていくのです。当初帝国海軍が主張していた「戦争の大義」は「石油の確保」にありました。それが軍部の覇権争いで巧みにすり替えられたのです。




闘争

「反抗」は状況が改善されるか制圧されるまで続きます。

 この「反抗」している期間を「闘争」と呼ぶのです。

「闘争」の過程こそ「戦争と平和」の物語が最も魅力的に描きたい場面となります。

 単に「反抗しました」から「平和を取り戻しました」へ推移するのでは、まったく面白みがないのです。

「どうやって外圧と争うのか」「どんな方法で抗うのか」「反抗の決意が揺らいだり固まったり」

 そういう心の移り変わりが描かれてこそ「戦争と平和」の物語は読み手に強く訴えかける力を持ちます。

 親から勉強を押し付けられたら。どうやってしないで済まそうかと頭をひねる。

 学校から教育指導で抑圧されたら、どうやって教師たちに歯向かうのか。

『ぼくらの七日間戦争』では「青春」ものですが「反抗」するのに戦車まで登場しています。それこそ「戦争」と言いえてしまうほどです。

「思春期の反抗」を本物の「戦争」に見立てた宗田理氏は「戦争と平和」の物語をよく理解していました。

 思えば水野良氏『ロードス島戦記』の主人公パーンも、村人たちから反対されてもゴブリンたちを倒しに出向いているのです。田中芳樹氏『銀河英雄伝説』も主人公ラインハルト・フォン・ローエングラムが銀河を手に入れるまで、愛しき姉君を取り戻すまで「闘争」をやめていません。

 タイトルがそのままズバリ『戦争と平和』であるレフ・トルストイ氏の作品は、ナポレオン戦争でのロシア遠征を通じてロシア貴族の興亡を中心にし、新しい時代への目覚めを綴った青春群像小説です。その「闘争」の過程を丁寧に描き、ボルコンスキー公爵家、ベウーホフ伯爵家、ロストフ伯爵家の興亡、主人公ピョートル・キリーロヴィチ・ベウーホフとヒロインのナターシャの恋などを描いています。

『戦争と平和』はとても難解で長大で読破しづらい作品の代表格です。しかし「戦争と平和」の物語の手本としては、これ以上ないほどの質を誇っています。

 それはナポレオンによるロシア遠征への国家や貴族の「闘争」と、主人公の個人的な恋愛をうまく絡めて描いているからです。




平和の到来

「戦争と平和」で戦乱のまま終了する物語はまずありません。

 話の流れから始められた「戦争」もこれまでも続いてきた「戦争」も、必ず「平和」が到来して物語を終えます。

 レフ・トルストイ氏『戦争と平和』も、ナポレオン戦争に始まり、ナポレオン軍のロシア放棄による平和の到来で完結しています。もちろんその後日談も語られているのです。

 一般的に「平和」になればハッピーエンドになります。もう人が死ななくなるのですから、厳しい冬を越えたような温かさを感じさせるのです。

 もちろんバッドエンドな「平和」の到来があってもかまいません。『戦争と平和』ではロシアを放棄したナポレオンからすれば「好ましくない」終わり方だったはずです。

 失うものの多かった「戦争」は、たとえ「平和」が訪れても素直に喜べません。たいせつな人や物を失った、残された人たちは「平和」に喜びながらも喪失感が強くなります。

 しかし「終戦」すれば「平和」になるのが小説です。

 独裁国家が勝利して、主人公たちが処刑される作品なんて見たこともありません。

 ……とここまで書いてきて、そんな小説を書いても面白いかな、なんて思ってしまうのが小説書きの悪いところです。

 太平洋戦争で言えば、原子力爆弾を投下された広島、長崎は終戦したからといって「平和」とは程遠かったでしょう。瓦礫すら残らぬほどの熱量と爆風と残留放射線が「黒い雨」を呼び、爆心地の近隣で間接的な被爆者を生み出しました。「黒い雨」は現在訴訟中ですので詳しく書けませんが、私としては「被爆者認定」をしてもよいと思っています。

「戦争」が終わり、「平和」が到来する。

 しかしそれが必ずしも誰もが楽観視できるような「平和」とはかぎらないのです。

 喜ぶ人の陰で泣いている方もいらっしゃるはず。「弱い者たち」に訪れる「平和」とはどんなものなのか。信じて待ち続けた日々が報われなかったとしたら。

「平和」になっても、全員が喜べるわけではないのです。

 その点をもっと突き詰めて、「戦争と平和」の物語に向き合ってみてください。

 必ずやあなたの構成力、筆力は高まるはずですよ。





最後に

 今回は「物語25.戦争と平和」について述べました。

 新しく戦争が起こる場合も、すでに戦争中の場合も、等しく「戦争」として扱います。

 そのうえで「終戦」して「平和」が到来するのです。

 独裁国家が勝利して「終戦」するなんて小説ではまず見当たりません。「ペンは剣よりも強し」と言いますが、この言葉自体が独裁国家への反骨精神の表れです。

 物語として後味が悪いかもしれませんが、独裁国家が勝ったり、たいせつな人を失ったりしたときの主人公の感情は「劇的」だと思います。

 腕試しにこんな作品を書いてみるのもよいのではないでしょうか。



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