1262.物語篇:物語7.恋人と愛情

 あと2日で毎日連載1200日となります。よくここまで続きましたね。

 そろそろ持ちネタも尽きてきたので終わり頃かなと考えています。

 とりあえず毎日「物語の形」をひねり出しているので、頭が疲れます。

 あらかた出し終えるまでは連載は続くのかな?

 それでは今回「恋人と愛情」についてご覧くださいませ。





物語7.恋人と愛情


 今回は「恋愛」の物語についてです。

 私にとっては正直とても書きづらい物語パターンです。

 以前から何度となく書いていますが、私には「恋愛」感情がまったくありません。

 友人・仲間の関係はあっても「恋愛」なんて意識してこなかったからでしょうか。

 二歳の頃から養護施設に預けられていましたので、「女性」が「異種族」だという認識だからかもしれません。

 だから今回書く「恋人と愛情」については、小説の分析であったり文章読本の内容だったりが根底です。私の実体験ではないことをご了承くださいませ。




恋愛をドライに考える

 対人関係の基本は「信頼」です。

「信頼」の度合いによって「連帯」「友情」「恋情」「愛情」へと進んでいきます。

 この中で「連帯」「友情」は前回の「仲間と友情」で書きましたので、今回は「恋情」「愛情」について考えてみましょう。

 よく「男女の間に友情は存在しない」と言われます。本当にそうでしょうか。

 私は信頼のおける女性の友人が幾人かいます。ですが彼女らに感じているのは「連帯」「友情」であって「恋情」「愛情」ではないのです。

 そもそも「恋情」「愛情」がどういったものかすら知りません。

 だから仮に「恋情」「愛情」を抱いていたとしても、それが「愛」だとか「恋」だとか判断すらできないのです。

 だからこそ「恋愛」の感情をドライに見られる一面があります。




恋は自分だけのものにしたい感情

「恋」つまり「恋情」は、異性を「自分だけのものにしたい」という感情です。

 たとえば「不良が捨て猫に餌をあげている」姿を見て心を射抜かれたとします。

 すると「あんなによい一面がある人を自分だけのものにしたい」と思うのです。

 この感情こそが「恋」。

「恋」とはドライなものの見方からすれば一種の「独占欲」なのです。

「あの人を自分だけのものにしたい」と思えば始終その人が気になります。

 誰かが奪うより前で自分だけのものにしたい。絶対に誰にも渡したくない。

 そんな感情が「恋」なのです。

 アニメの富野由悠季氏『機動戦士ガンダム』の主人公アムロ・レイは、私のように「恋愛」感情が欠落した人物設定となっています。ある日サイド6で出会ったララァ・スンと直接的な心の交流、「ニュータイプ」としての精神的なつながりによって「ララァといると素直になれる」感覚を味わうのです。

 この感覚に着目したということは、富野由悠季氏自身も私のように「恋愛感情が欠落した」経験をしてきたのかもしれません。

 普通に学校へ通い、多くの人々と触れ合っていれば、少なくとも「連帯」「友情」は抱きます。しかしそれだけで満足してしまうと「恋情」「愛情」は身につかないのです。

 本来なら子どもは両親から「愛情」を注がれて育ちますので、「愛情」がなんなのかはだいたいわかっています。

「恋情」は「友情」を「愛情」へと昇華させる間の中途段階なのです。

 アムロがララァに抱いた感情は、正確には「恋情」でも「愛情」でもありません。

 ただつながっていたい「連帯」と、同じ能力を持っているため「友情」は感じていたはずです。

 最終話でアムロのセリフ「ララァにはいつでも会いにいけるから」は「恋愛」ではなく「友情」から発せられた言葉になります。

 続編の『機動戦士Ζガンダム』や『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』ではララァの存在が彼の呪縛となっているくらいです。

 それぞれベルトーチカ・イルマ、チェーン・アギと仲よくしていますが、「恋愛」というより「友情」が広まっただけの印象を受けます。つまり仲のよいふたりにもけっして心を許していないのです。

 富野由悠季氏の作品では『∀ガンダム』の主人公ロラン・セアックも「恋愛」感情が欠落しています。月の女王ディアナ・ソレルを慕っていますが、それは「王女と騎士」の構図で表されるのです。ディアナに忠誠を誓うロランには「恋愛」感情がない。だからソシエ・ハイムの気持ちにさっぱり気づかないのです。

『機動戦士Ζガンダム』の主人公カミーユ・ビダンと強化人間フォウ・ムラサメの関係は互いが惹かれ合う「恋情」だったと見てよいでしょう。しかし敵味方に分かれていますのでウイリアム・シェイクスピア氏『ロミオとジュリエット』のような話になっていますが。

 富野由悠季監督の『ガンダム』シリーズで明確に「恋愛」しているキャラは、実のところ誰ひとり存在しません。「恋愛」感情のどこか欠落している人物がモビルスーツに乗って戦っているのです。




恋愛小説は恋の物語

 多くの恋愛小説は「恋愛」の中でも「恋」に焦点を当てています。

「あの人を自分だけのものにしたい」という気持ちから始まり、自分だけのものにして終わるのです。これがハッピーエンド。自分だけのものにできなかったらバッドエンドになります。

 恋愛小説は詰まるところ「恋」つまり「あの人を自分だけのものにしたい」がどんな結末をたどるのか。ただそれだけの物語です。

 恋愛小説は「自分だけのものにした」らその後まで物語が続きません。

「愛情」は「恋情」とはまったく性質が異なるからです。

 私のドライな視点からですが「愛情」とは「自分のものを守ろう」とする「所有欲」が元になっています。

 あれだけ「あの人を自分だけのものにしたい」と「独占欲」が湧いていたのに、いざ自分だけのものになると途端に興味を失ってしまうのです。すると一度自分のものになったのだから、「誰かに奪われたくない損ねられたくない」という感情つまり「愛情」が湧いてくるのです。

 親がわが子を命懸けで守ろうとするのは「愛情」の為せる業であって、「恋情」はいっさい働いていません。

 恋愛小説は「いかにして意中の異性を自分だけのものにするか」の過程を楽しむものであって、いざ自分のものになったらどうするかにまで読み手は興味がないのです。

 しかし連載を長期間続けていく前提であれば、まずは「意中の異性を自分だけのものにする」までの過程を読ませます。そこでハッピーエンドになれば今度は「その異性を誰かに奪われたくない損ねられたくない」という感情を主体に連載を続けていくのです。もしバッドエンドであれば次なる「意中の異性」探しから物語は再開されます。つまり延々とフラレ続ける「恋愛小説」というものも、この世にはあるはずなのです。山田洋次監督『男はつらいよ』の主人公・車寅次郎はまさにこのタイプでしょう。

 運良くハッピーエンドにたどり着いたら、わが子を守る「愛情」の物語となります。

 ですが恋愛小説の読み手は「愛情」の物語には興味がないのです。

 そこでさらに連載を続けていくなら、連れ合いに三行半みくだりはんを叩きつけられて離縁となり、また新しい相手を「自分だけのものにしたい」と思わせるようにする方法がひとつ。これはひとりの主人公で物語を続けていく場合にはよく用いられます。死別して新たな「恋人」を探す旅に出る物語もよく見られるのです。

 もうひとつの方法は「世代交代」つまりわが子を主人公にして、新たな「恋」の物語を始めます。

 いつの時代も「恋愛」はつきもの。何世代も「恋」の物語を続けていけば、ほぼ永遠に連載は続けられるのです。

「愛情」の物語は気苦労の物語になります。誰かに奪われないようにする。誰かに損ねられないようにする。どちらもディフェンシブな展開ですよね。「恋情」がこちらから積極的に奪いに行くオフェンシブな展開ですから、物語の性質が真逆になってしまいます。だから恋愛小説はオフェンシブな「恋」が魅力なのです。





最後に

 今回は「物語7.恋人と愛情」について述べました。

「恋」は「独占欲」、「愛」は「所有欲」が原点です。

 だから「恋愛小説」は奪い合いの物語になります。

 最後に誰が独占するのか。

 その駆け引きが恋愛物語の魅力です。



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