1189.技術篇:書き手ひとりで良し悪しを判断しない

 今回は「作品の良し悪し」についてです。

 書き手本人に「作品の良し悪し」はなかなか判断できません。

 誰か読んでくれて正しく指摘してくれる方と仲よくなる方法もあります。





書き手ひとりで良し悪しを判断しない


 書いてはみたものの、どうにもうまく書けていない気がする。

 書き続けていれば必ず出食わす問題です。

 ひとりで考えてみて、「やっぱりやめた」と言ってよいものでしょうか。




書き手には書いた作品のよさはわからない

 書き手の皆様にお伝えしたいのは「書いた本人には良し悪しはわからない」ことです。

 物語のすべてが頭の中で映像化されてしまっているため、文章で書き足りないのか書きすぎなのか意味不明なのかを、書き手ひとりでは判断できません。

 小説は「他人が読んで正しく伝わるか」の観点からでなければ正当に評価できないのです。

 書き手は「あらすじ」段階でどれだけ「出来事」を用意し、どの順番に「展開」していくのかを操るくらい。それが読み手を惹きつけるかどうかは、読み手の受け取り方次第なのです。

 自分で「失敗作かも」と思っていても、小説投稿サイトへとりあえず掲載してみたらスマッシュヒットした。よくある話です。

「これは自信作だ」と気をよくして掲載しても、まったく反応がないばかりか、ブーイングの嵐になる。こちらのほうがよくありますよね。だから「この小説投稿サイトの連中はまったくわかってない。なぜこの傑作が評価されないんだよ!」と反応してしまうんですよね。

 ですが「書き手には作品の良し悪しは判断できない」とわかっていれば、自分の思い込みにすぎないのではないか、と気づけるかもしれません。

 これは「自作に自信のある」場合。逆に「自作に自信のない」場合も、書き手は作品を正当に評価できないのです。

「こんなつまらない作品じゃ、小説投稿サイトの人たちも読んでくれないだろうな。読んでも評価してくれないだろうな」と思っていた作品を、ちょっとしたきっかけで投稿してみたら人気急騰なんてこともあります。

 書き手目線で小説を見ているかぎり、作品の「本当の良し悪し」は判断できません。

 頭を空っぽにして読み手目線で読み直し、ようやく気づけるかどうか。記憶力のよい方は、読み直している最中に記憶が呼び起こされて補完してしまうんですよね。

 だから「バカになれ」ではありません。

「なにも知らない人が読んだら、どのように見えるのかな」の視点がたいせつです。

 記憶力のよい方はどうしても思い出してしまいます。そういう方は「友達や仲間に読んでもらって」意見を聞いてください。小説に詳しくなくて結構です。かえって詳しくない方のほうが先入観がないので「正しく伝わるか」を判断しやすいでしょう。

 家族が妥当ですね。読んでもらいやすいですし、かなり悪かったとしても遠慮せずに指摘してくれますから。

 小説サークルに加わるのもよいでしょう。こちらは遠慮されてしまいますが、小説書きとしてどこがよくてどこが弱いのかを的確に教えてもらえます。

 しかし最近、小説サークルの募集を見たことがありません。小説の書き方を書いたような雑誌もありませんしね。

 おそらくカルチャースクールの小説教室などがその役割を果たしているのでしょう。

 あとはコミックマーケット(コミケ)のような同好の士が集う場所で出会いがあるかもしれません。でも内向きの方が、同好の士とはいえ見ず知らずの人にサークルへ入れてほしいなんて頼めないと思います。そういう場合は、個人サークルとして参加し、周囲のサークルにあなたの書いた小説本を配ってまわりましょう。サークル配布用として連絡先を添付しておけば、興味を持ったサークルから声がかかるかもしれません。まぁ他力本願にはなりますが。サークル配布用の本を別途作るよりも、「Twitterアカウント」「Facebookアカウント」などをゴム印でスタンプするほうが手っ取り早いしお金もかからないのでオススメです。一般の来場者へ頒布する本にアカウントを載せたくない方もゴム印スタンプがよいと思います。




小説投稿サイトで良し悪しを測る

 今本コラムをお読みになっている小説投稿サイトに掲載して、評価をもらう方法もあります。というより、今ではこちらのほうが主流になりましたね。

 もちろんよい作品を書かなければ読み手は増えませんし、評価も付きません。

 悪い作品を読みたがる方はいませんし、悪罵していく物好きもいない。

 つまり「よい」ものならより反響がもらえ、「悪い」ものならまったく反応がないのです。

 だから小説投稿サイトに掲載したのに反響がほとんどない場合、「悪い」と思って間違いないでしょう。

「よい」場合はとにかく評価が高まりますし、コメントもたくさん付きます。

 そうなると「悪い」作品はどこが悪かったのかがわからないままに終わるのです。これでは改善のしようもありません。

 なので小説投稿サイトで作品の「良し悪し」を決めてもらおうと思ったら、「悪い」と判断できるときにどこが悪かったのか自分で分析できなければ才能を伸ばせないのです。

 これがなかなか難儀します。

 解決方法がないわけではありません。

「講評します」と手を挙げているアカウントに講評を依頼するのです。

 私はかなりの精読派で、現在多数の依頼を抱えているので添削しつつだとどうしても「講評」に時間がかかっています。その点は心よりお詫び致します。

「講評」依頼でも「添削」したい点があるとどうしても手を止めてしまうのが悪いクセです。

 ひとつずつ丁寧に片づけていますので、添削・講評依頼の方は今しばらくお待ちくださいませ。

 私もこれほど引き合いがあるとは思っていませんでした。

 本コラムの閲覧数の多さも関係があるとは思います。そこは想定外にうれしい点ではあるのですが。




講評する側にまわってみる

 実は「作品の良し悪し」が自分でわかるようになる、とっておきの方法があります。

 あなたが「講評」する側にまわるのです。

「隣の芝生は青く見える」と言います。「他山の石以て玉を攻むべし」とも言います。

 他人のことは目につきやすく、指摘しやすいのです。それに比べたら自分のことを客観的に捉えるのはとても難しい。かなりの修練が必要です。

「講評」できるだけ作品を深く読み込まなければなりませんし、的はずれな評価を口にはできません。

 つまり「講評」する側にまわることで、「小説」のあり方を改めて見つめ直せるのです。

 自分で書くときに意識する点を文章で指摘するのですから、自作の執筆でも意識せざるをえません。

「添削・講評」依頼を募集したのも、動機は私自身のスキルが高まるからです。

 他人の文章を指摘し、自身の文章を改める。「人の振り見て我が振り直せ」です。

 蒸気機関車がトンネルに入り、客車に煙が入り込む。トンネルを抜けると向かいの席の女性が白粉おしろいで顔をパタパタと叩く。

 なぜその女性は自分の顔を見ずに汚れていると気づいたのでしょうか。

 あなたの顔がすすけていたからです。

 このように自分のことにはなかなか気づけません。

 他人をものさしにすると、見えてくるものが確かにあるのです。

「読みやすい作品」はなぜ読みやすいのか。「読みづらい作品」はなぜ読みづらいのか。

 書き手の訴えたいことが伝わってくるか。息抜きポイントがあるかどうか。

 こういった文章や構成の問題点はどうしても目につきやすいのです。

 だから指摘できますし、一度指摘すると自分で作品を書くときに取り入れやすい。

「講評」して評価してまわるだけでも、あなたの文章の練度が必ず上がりますよ。





最後に

 今回は「書き手ひとりで良し悪しを判断しない」について述べました。

 書いている本人は、作品の出来や文章の巧拙を判断できないものです。

 だから読んでくれる人を見つけて評価してもらいましょう。

 今は小説投稿サイトの時代ですから、掲載すればなにがしらかの反応があるかもしれません。あまりにも下手すぎるとまったく見向きもされないので、それはそれでツラいのですが。

 どうしても評価してもらえなかったら、自分から他人の作品を「講評」「レビュー」してみましょう。自分でも気づけなかった悪いところを、他人を通して反省できますよ。



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