981.筆洗篇:視点の切り替え方【回答】

 今回は「視点の切り替え方」についてです。

 小説には、ここ二十年ほど変わらない「共通ルール」があります。

 それに則った作品を書きましょう。

 現在、小説は過渡期を迎えています。これからの「共通ルール」は、今まで非常識と思われたものが常識となっていくでしょう。

 ですが渡り終えるのは今ではありません。今はまだ二十年ほど変わらない「共通ルール」が求められています。

「視点の切り替え方」もまだ変わっていないのです。





視点の切り替え方【回答】


 小説とくにライトノベルは、ただひとりの主人公から見たもの聞いたもの感じたものを書く一人称視点が主です。

 しかし、どう工夫して書いても主人公だけの一人称視点だけではうまく物語を表現できないと感じる場面は訪れます。

 すると場面シーン内で主人公から視点が外れて、他人の視点で書いてしまいがちです。しかしこれは禁則。文章上の大きな誤りです。

 では「視点を替えたくなった」ときはどうすればよいのでしょうか。




場面シーン内で視点を替えてはならない

 まず「視点切り替え」の原則です。

 それは「場面シーン内で視点を自由に替えてはならない」ことです。

 ひとつの場面シーンでは、ひとつの視点に固定してください。

 勇者の視点で書いている途中に、魔王の視点が入ってはならないのです。

 これをやってしまうと、読み手は違和感を抱きます。

 そして「この小説はいったい誰が主人公なのだろう」と思い始めるのです。

 だから場面シーン内で視点を替えてはなりません。

 しかし、小説を執筆していると、どうしても魔王の視点が欲しくなる場面もあるでしょう。

 それは「構成」が悪いのです。

 どうしても魔王の視点が欲しいのなら、その場面シーンの直前に魔王が視点を持つ場面シーンを設けましょう。

 先の場面シーンで言及してあれば、今の場面シーンで言及する必要はなくなります。

 ここに視点の切り替え方のコツが詰まっているのです。




視点は場面シーンにつきひとつ

 魔王の視点が欲しいのなら、その場面シーンの直前に魔王が視点を持つ場面シーンを設ける。

 詰まるところ「ひとつの場面シーンでは視点はひとつ」に固定するのです。

 ひとつの場面シーンに複数の視点があってはなりません。

 テレビをザッピングする感覚で視点をホイホイ動かしてしまうと、読み手は支離滅裂な小説を読まされてしまいます。

 そんな支離滅裂な小説は、違和感を与えて大量の落伍者を生み出すのです。

 ブックマークや評価がつくと思いますか。

 もしマイナス評価が可能であれば、必ずマイナス評価されるのです。

「ひとつの場面シーンでは視点はひとつ」

 場面シーン内で視点保有者はひとりに限りましょう。

 そう決めておけば、場面シーン内で視点保有者が複数登場する支離滅裂な小説にはなりません。

 これは「小説」という文化が現在有する、共通ルールのひとつです。

 昔は「神の視点」つまり「いつでもどこでも、誰の心の中もお見通し」で書いても評価されました。

 しかし現在では、ひとつの場面シーン内で「誰の心の中もお見通し」では不評を買うだけです。

 それだけ読み手が成熟してきました。




成熟した読み手が書き手に回る高度成長期

 現在の形で小説が流通するようになる前。つまり「文豪」が活躍していた頃、「神の視点」はほとんどの書き手が用いていました。その頃はまだ、読み手も「小説」という文化が目新しくて、どんな物語でもありがたがっていたからです。

 しかし時代を経るにつれ、読み手も数多くの作品を読んできました。傑作も駄作も合わせて読んできたのです。そして傑作と駄作の区別もつくようになりました。そのおかげで、読み手は「どういった作品が傑作で、どういった作品が駄作か」を見抜く力を手に入れたのです。

 その力を手に入れた読み手はどうすると思いますか。

 自分で傑作を書こうとするのです。

 なにしろ「どういった作品が傑作なのか」を知っていますからね。これで傑作が書けないはずがありません。

 つまり、時代を経るごとに「小説」は洗練されてきたのです。

 そうして現在ある「小説」の共通ルールが確立しました。

 もちろんこれからも、共通ルールの改定は行なわれるでしょう。ですが「小説」の共通ルールはここ二十年ほどほとんど変化していません。だから二十年前に出版された「小説の書き方」の類の書籍は、今でも有効なのです。

 しかし共通ルールは現在、過渡期を迎えています。「小説投稿サイト」という新たな表現の場が生まれたからです。


 新聞で連載されてそれが一冊の単行本に収録されて売られた「文豪」の時代。

 小説賞を授かって一冊の単行本として売られた「紙の書籍」の時代。

 そして現在はインターネットでいつでもどこでも誰でも掲載でき、誰もがタダで読めるようになった「小説投稿サイト」の時代です。


 これまでの「小説」の共通ルールが変わり始めているのです。

 たとえば「一文改行」スタイル、「主体が変わるごとに空行を入れる」スタイル、「行頭を一字下げずにそのまま書き出す」スタイル。

 いずれも「紙の書籍」時代では禁忌タブーとされていたものばかりです。

 いつしかこれらは「ネット小説」の共通ルールとなりました。「小説投稿サイト」のランキング上位の作品は、ほとんどが「ネット小説」の共通ルールに則っています。

 すでに時代が変革し始めているのです。

 ですが、ここ二十年ほど「小説」の共通ルールに大きな変化は見られません。

 いずれは全面的に移行するでしょうが、それは今ではない。もう少し先の話です。

 今はまだ二十年前の「紙の書籍」の共通ルールで小説を書きましょう。




場面シーンの冒頭で視点保有者を明らかにする

 場面シーンの始まりで、その場面シーンの視点を持つ主人公を明確にします。

 勇者だけが主人公で視点を持つ連載小説であっても、すべての場面シーンの最初に勇者を登場させてください。そうするだけで、読み手は「あ、この場面シーンも勇者が主人公なのか」と納得して読み進めてくれます。惑わないで安心して読めるのです。

 対立するふたりをともに主人公と設定する場合。ある場面シーンでは勇者に視点があり、またある場面シーンでは魔王に視点がある。

 場面シーンによって主人公である視点保有者が替わるのなら、各場面シーンの冒頭で視点保有者を明確にしなければなりません。もし視点保有者が明確でなければ、直前の場面シーンの視点保有者がそのまま継続しているものだと、読み手は思い込んで読みます。勇者視点の場面シーンの次に魔王視点の場面シーンへ変わったのに、冒頭で魔王が出てこないため、視点保有者が勇者だと思い込んで魔王視点の場面シーンを読んでしまうのです。

 しかしそれは誤りであるとわかれば、読み手が不信を覚えて当然でしょう。

 勇者の視点だと思い込んで読んでいたのに、なぜか魔王軍の内情を語ってしまう。読み手としては「なぜ勇者が魔王軍の動向に詳しいのだろうか」と不信を覚えます。

「この場面シーンをここまで読んできて、ようやく視点が魔王にあるとわかったよ。こんな構成がデタラメな作品なんて読んでいられるか」となるのが道理です。

 だから新たに場面シーンを始めるときは、冒頭で誰が視点を持って主人公として振る舞っているのか、読み手に逸早く知らせましょう。それが読み手の理解を促す最善の策となります。





最後に

 今回は「視点の切り替え方【回答】」について述べました。

「ひとつの場面シーンでは視点はひとつ」

 場面シーンが変わったらすぐに「誰に視点があるのか」を明確にする。

 これができていない小説は、どんなに面白くても駄作です。

 そして傑作も駄作も読み尽くした読み手が、傑作の法則を引っさげて書き手の側へと回ります。

 あなたは傑作と駄作の区別がつきますか。

 区別がつかないうちは、「小説」の共通ルールに従って執筆してください。



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