595.明察篇:小説を書く才能
今回は「小説を書く才能」についてです。
才能は誰にでもあります。それを使いこなせていないだけなのです。
「小説賞・新人賞」で求められている原稿用紙三百枚、文字数十万字前後は確かに分量が多くて、見ただけで挫折してしまいます。
ですが一日にどのくらい書けば達成できるか。それを知ればやる気が湧いてくるはずです。
小説を書く才能
小説を書こうと思い立って、原稿用紙を前に鉛筆を持ったり、パソコンの前に座ったりしますよね。
それで「いざ書こう」となったとき、いくら時間をかけてもなにも書けずに終わることってありませんか。
数行書いてはみたものの気に入らなくて消してしまったことはありませんか。
こういう経験をすると「あぁ私には小説を書く才能がないんだ」と思ってしまいます。
ちょっと待ってください。
あなたに「小説を書く才能」があるかないかを、たかが書き出しが書けるか書けないかだけで判断するつもりですか。
誰にでも才能はある
そう言われても、実際書けないものは書けないのだから、やはり才能がないのでは。
違います。
あなたは自分の中にある「小説を書く才能」をどうやって見つけたらいいのかわからないだけ。「小説を書く才能」を見つけたとしてもどう伸ばせばいいのかわからないだけなのです。
才能は誰にでもあります。多くの人はそれに気づかず、自らの手でその才能を潰しているのです。あまりにもったいない。
才能があれば初めてのこともうまく処理できる。そう思っていませんか。
それは単に「運がよかった」だけです。才能とは関係ありません。
他人が、初めて書いた小説で「小説賞・新人賞」を受賞し、自分は「書き出し」すら書けないでいるのを比べて、「私には小説を書く才能がないんだ」と思い込むことが危険なのです。
本来なら誰にでもある「小説を書く才能」を自分で潰しています。
ある程度書けるのだけど、そこから才能が伸びてこない。だから私の才能はここまでなんだ。これも間違いです。
才能が急に伸びることなんてありません。順序を経ることで才能の活かし方がわかって、そこから着実にレベルアップしていきます。準備で能力のステップアップの階段をどれだけ用意しておけるか。それ以外で才能が開花する方法はありません。
能力が高まっていけば、他人よりも秀でた部分が現れるようになり、それが才能と呼ばれるようになるのです。
才能は能力の高まりを称えた言葉であり、「才能がない」と割り切ってしまうのは、能力を引き出そうとする努力そのものを低減させます。
努力しなくてもできる人のことを「才能がある」と言うのではありません。
努力した結果できるようになった人のことを「才能がある」と言うのです。
自分にふさわしくないところでいくら頑張っても身につくはずがありません。
正しいやり方でコツコツと努力を積み重ねる。そして能力が秀でれば「才能がある」と呼ばれるようになるのです。
しかし他人はあなたの努力を知りません。知らないからこそ「才能のありなし」で論じてしまうのです。
他人は結果でしか才能を判断しませんし、できません。
しかし努力する過程を経なければ結果はついてこないのです。
結果だけを見て、肯定的なら「才能がある」と思われますし、否定的なら「才能がない」と断ぜられます。
人の才能なんて測れるはずもありません。
どうしても読み手に才能を認めてもらいたければ、一本でもいいので長編小説を書いて投稿してください。物語が面白ければ評価もされるでしょうし、つまらなければ評価されることはないのです。
ですが、他人はあなたの努力を知りません。
あなたが発展途上のどの位置にいるのかすらわからないのです。
だから自らの才能を測ることは不可能だと言えます。
いっとき結果が悪かったからといって、そこであきらめて努力を放棄すれば、その時点で「才能はないんだ」と自ら思い込もうとしてしまうのです。
あきらめず努力を継続すれば、必ず能力は向上します。続けることで才能は伸ばせるのです。
これならできそう
「これから一カ月で三百枚の長編小説を一本書いてください」
そうお願いされたら、あなたは書けるでしょうか。
「三百枚なんて書けるはずがない」。そう思うのが普通だと思います。
「一カ月で三百枚なら、毎日十枚書けばいいんですね。それなら書けそうです」。そう答えられるのが真に才能のある人です。
「これから一年で『小説賞・新人賞』をひとつ獲ってください」
そうお願いされたら、あなたは獲れるでしょうか。
このお願いは「具体的な数字ではない」ので、ほとんどの方が「無理です」と答えるはずです。
ですが、
「これから一年で『小説賞・新人賞』の一次選考を突破してください」
なら可能かもしれません。
一次選考で見られるのは、「正しい日本語」で書かれているかどうかだと言われています。「怪しい日本語」で書かれていたら一次選考を突破できないのです。
「正しい日本語」を書くことは意外と難しい。「小説賞・新人賞」の応募作が十本あれば「正しい日本語」で書かれた作品は一、二本程度だとされています。
一次選考の通過率はだいたい応募本数の一割程度です。
三段論法でいえば「正しい日本語」かどうかが「一次選考通過の基準」だと考えられます。
「正しい日本語」を身につけたうえで、あなたの「文体」を生み出すのです。
よく手紙で「乱筆乱文失礼致しました。」と書きますよね。本当に「乱文」では相手に伝えたいことも正しく伝わりません。「乱文」とは「怪しい日本語」のことです。
つまり「正しい日本語」を身につけることは「プロの書き手」への近道でもあります。
正しい日本語は役に立つ
「小説賞・新人賞」を獲るためには「正しい日本語」が必須条件です。
それほど「正しい日本語」は「役に立つ」スキルとなります。
ではどのような文章が「正しい日本語」なのでしょうか。
実は六百本ほど連載してきた本「小説の書き方コラム」そのものが、「正しい日本語」を意識して書きました。
それをここまでお読みいただいた方には「正しい日本語」が染みついているはずです。
私の文章術は「正しい日本語」の三大原則に従っています。
一.助詞「は」「が」「を」「で」「に」「へ」「から」「より」は一文中にひとつしか使ってはならない。
ただし「は」「のは」「では」「には」はそれぞれ別の助詞として扱います。これは機能が異なるからです。
「できるだけ一文を短くする」ことを意識してください。一文が短ければ助詞を複数回用いなくなります。
二.助詞「の」は連続して二回までしか使ってはならない。三回以上になりそうなら他の助詞に変えたり言いまわしを改める。
三.文章の終わりは(意図がないかぎり)一文ごとに変える。
たとえば「昨日は十一月三日でした。私の学校では文化祭がありました。私のクラスの出し物は模擬店でした。」と文末で「〜た。」が続くと幼稚に見えませんか。
小説の地の文は基本的に「だ・である体」で書きます。
そこで「今日は雨だ。湿度が高くて不快だ。だが書店に用があるのだ。道中傘を差さなければならないので憂鬱だ。」とすべて「〜だ。」で終わってもやはり幼稚に見えるはずです。
こんな幼稚な文章は書かなければいい。「だが書店に用がある。」と一文の文末を変えるだけでも幼稚さが多少薄れます。
以上が「正しい日本語」の三大原則です。
もちろん「意図して原則に従わなかった」部分もあります。
たとえば事象を並列して述べたいときは「〜です。」「〜です。」と繰り返して「〜ます。」で受けるといったことですね。
ですが「三大原則を守る」だけで、「正しい日本語」がぐっと身近なものになります。
ぜひ三大原則を意識して小説を書いてください。
「小説賞・新人賞」の一次選考は突破できるようになるはずですよ。
最後に
今回は「小説を書く才能」について述べてみました。
誰にでも才能はあります。
難しいなと思ったら「これならできそう」と思えるまで分解してください。
「小説賞・新人賞」を獲りたいなら、まずは一次選考を突破しましょう。
一次選考で見られるのは文章力です。
「正しい日本語」の三大原則を守って小説を書いてください。
どうしても三大原則が守れそうになければ、それは「怪しい日本語」です。
言いまわしを改めて「正しい日本語」に直しましょう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます