327.執筆篇:どんでん返しは物語の華

 今回は「どんでん返し」についてです。

 とくに起承転結の「転」に求められる要素になります。

 どんなに追い込まれても主人公の機転で「ひっくり返してしまう」と読み手は痛快さを味わえるのです。





どんでん返しは物語の華


 小説はさまざまな情報を読み手に与えて、一定の方向へと誘導します。

 しかしそれだけではなんのひねりもない「ただの小説」でしかないのです。

 どこでひねりを入れるのが効果的か。

 それは「土壇場でのどんでん返し」です。




どんでん返しとは

 本コラムで頻繁に取り上げている『シンデレラ』では、魔女が登場してシンデレラを淑女に変身させます。

 それまで家庭内ヒエラルキーの底辺にいた彼女の立場が大きく変わったのです。

 また舞踏会で王子様とダンスに興じている際鳴る鐘の音が鳴りますよね。

 この二つは「どんでん返し」と呼んでいいでしょう。

「どんでん返し」とは、これまでの物語の流れを大きく変える出来事を起こすことを指します。

「シンデレラが淑女になって舞踏会に出られるようになる」というのは、これまでの彼女の境遇からは考えられないことですよね。

 そして舞踏会で念願の王子様とダンスができたのに、それを引き裂く鐘の音が鳴り響いてくる。

 これまでとはがらりと状況が変わってしまうことで「どんでん返し」は存在意義を発揮します。


『かぐや姫』では美女と名高いかぐや姫に名家の男性たちから求婚が殺到するのですが、無理難題を突きつけた挙句、最終的に月の世界へと旅立っていくのです。

 これも「どんでん返し」と言えます。


 対して『桃太郎』には「どんでん返し」がありません。

 桃から生まれて鬼を退治しに行って帰ってくるまで波乱がいっさいないのです。

 無理やり「どんでん返し」があると考えるのなら「鬼退治に行く」とおじいさん・おばあさんに告げたところでしょうか。それまで「鬼」のことなんてまったく出ていませんからね。


 このように「起承転結」で話を進めているとき「転」に「どんでん返し」を設けると意外性を出すことができます。

 場合によっては「結」に「どんでん返し」を仕掛ける物語もあります。

『浦島太郎』ですね。

 亀を助けて「起」、竜宮城に連れられて「承」、乙姫から歓待を受け「転」、地上に帰ったら玉手箱を開けて鶴になって「結」しまいます。

「どんでん返し」は間違いなく「結」にあるのがわかるでしょう。


「どんでん返し」はそれまでの物語の流れを一変させます。

 窮地に陥っても「どんでん返し」を起こして大逆転勝利、というのもよくある話です。

 逆にこれまで順調に事を運びながら「どんでん返し」を起こされて敗北に叩き落されることもあります。


 マンガの大場つぐみ氏&小畑健氏『DEATH NOTE』は、世界一の名探偵Lに追い詰められた夜神月が自ら囚われの身となることで、結果的にLを葬ることができました。

 これがひとつ目の「どんでん返し」です。

 そしてニア&メロに外堀を埋められて、頼みの綱だった魅上照までもがニアの策に陥ったことで月は土壇場で「どんでん返し」を喰らいます。


 アニメ『コードギアス反逆のルルーシュ』は一話の中で必ず「どんでん返し」を設けていたのです。

 だから毎回の放送を観るだけで「今日はそう来たか!」と痛快な印象を受けます。

 次回はどんな「どんでん返し」があるのかなと期待が高まるのです。




どんでん返しがないと

「どんでん返し」がない物語はとても平板ですんなりと読めます。

 しかしあまりにも喉ごしが良すぎて後味が残らないのです。

 先ほど話した『桃太郎』なんてどこにも「どんでん返し」がありません。

 子どもたちも「それでそれで!」と興味を持ってくれるのですが、鬼退治して金銀財宝を持ち帰ったところで興味を失います。

「どんでん返し」がなくて意外性を感じないからですね。


 やはり物語にはひとつは際立った味わいが欲しいところ。

 私が小説を読むときにその作品を記憶すべきだと判断しているのが「どんでん返し」なのです。

 どういう状況シチュエーションで「どんでん返し」が起こって物語が変化していくのか。

 それを意識していれば、物語が単調かどうかがわかります。

 三度も四度も「どんでん返し」されるとさすがに「これは支離滅裂だわ」と思ってしまうものです。

 だから「どんでん返し」は一投稿で一度、多くても二度にとどめるべきでしょう。

 そうすれば物語はひと波乱あったのち「結末」を迎えることになります。

 ぴりっとしたスパイスの利いた、印象に残る味わいが生まれるのです。




どんでん返しには伏線が必要

 ここまで読んできて「小説にどんでん返しを起こせばいいんだな」と早とちりしないでください。

 たしかに「どんでん返し」は必要なのですが、なんの前触れもなく起こしてしまうと読み手は混乱を来します。

「どんでん返し」には「伏線」が必要です。


『シンデレラ』での二つの「どんでん返し」のうち、「シンデレラを淑女に変える」のは「シンデレラが下女のようにこき使われている」という「伏線」があるから違和感がないのです。

「午前0時の鐘の音が鳴り始めて慌てて舞踏会場を後にする」のは「魔女が午前0時の鐘の音が鳴り終わったら魔法は解ける」という「伏線」を張ってあります。

 だからシンデレラは王子様を振り返ることなく舞踏会場を足早に後にするのです。


『かぐや姫』でかぐや姫が月の世界に旅立つのは、物語の冒頭で「光る竹から産まれた」という「伏線」があるからに他なりません。


 対して「どんでん返し」のない『桃太郎』であれば、なんの「伏線」もなく「鬼退治に行く」と言い出します。

 物語ではそれまで「鬼」という単語自体出てきません。

「鬼退治に行く」ための「伏線」がないのですから「唐突感」しか覚えないのです。




推理小説はどんでん返しが生命線

 どんな小説や物語にも「どんでん返し」があることが望ましい。

 中でも推理小説・ミステリー小説には「どんでん返し」がなければなりません。

 たとえば冒頭で死体が見つかり、身元確認して誰だかわかり、身辺調査をすることで疑わしい人物がリストアップされます。

 推理小説では鉄板の流れですよね。

 そのときリストアップされた疑わしい人物が実際に凶行に出たのだと読み手に思わせ、「どんでん返し」もなくその人物が自白して逮捕される。

 これで推理小説好きな人は満足するでしょうか。

 おそらく記憶にはまったく残らないだけでなく、真犯人が当初から目をつけていた人物であり、なんの「どんでん返し」もなく真犯人を追い詰める場面に出食わした段階でその小説は閉じられます。


 推理小説ファンは「どんでん返し」が大好物です。

 しかも一作品の中で何度でも「どんでん返し」を起こしてほしいと思っています。

 誰が真犯人なのかがわからなくなるほど振りまわし続ける小説ほど「読み応えがある」などと言ってのけるのです。

 だから小説の冒頭で謎が示されて、その謎が解き明かされそうなときに「どんでん返し」が起こって状況が変化し、さらなる謎が生まれてくる。

 そして最後まで残っていた謎が「佳境クライマックス」ですべて明らかにされるのです。

 この様式美こそが推理小説・ミステリー小説だと言えます。





最後に

 今回は「どんでん返しは物語の華」について述べてみました。

「どんでん返し」のない小説は平板で味けないものです。

 ほとんどの物語には「どんでん返し」があります。

「どんでん返し」で状況が一変し、新たな謎が生まれるのです。

 この謎が先を読み進める原動力となります。

 たかが「どんでん返し」ですが、小説を味わい深くするためにはなくてはならないものなのです。




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