275.表現篇:日本語は省く言語
今回は「日本語」について説明しています。
日本語は省く言語
私たちは小説を書きます。そして小説を読みます。
しかし私たちは日本語で文章が書けません。
私が書いているのも、厳密に言うと「日本語」ではないのです。
日本語は懐が深い
日本語は懐が深い。
他の言語からありとあらゆるものを受け入れてきました。
文体もそのひとつです。
当初は中国古典から拝借していましたが、室町時代あたりからオランダ語が入り、幕末から英語が入ってきます。
それによって日本語はさまざまな文体を吸収して成長してきたのです。
――――――――
私が先輩の家を訪ねると私は彼女が不在だと告げられ、私は先輩が帰ってくるまで先輩の家の前で待つことにした。
――――――――
実はこの文章、日本語ではありません。
漢字もひらがなも使っているのにです。
なぜだかわかりますか。
以下は日本語に書き改めた文章です。
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先輩の家を訪ねた。先輩が不在だと告げられる。帰ってくるまで家の前で待つことにした。
――――――――
かなりシンプルになりましたね。
複文構造はそもそも日本語ではない
元々日本語には「複文構造」というものがありませんでした。
言語としてとてもシンプルだったのです。
文の中に文を含める書き方は、中国語と英語の翻訳による影響が大きいと思います。
中国古典『論語』冒頭一文は「子曰く、学びて時に之を習う、亦説ならざる乎」です。
これは「先生が、学んだことを時機を逸せず披露するだけが『説』ではないよ、とおっしゃっいました」という意味です。
一般に「学んだことを、時に応じて反復し、理解を深める、これもまた楽しいことではないか」と読みます。
しかし中国古典の中で「説」に「悦」の意を含めるのはおそらく『論語』のこの一節のみです。
ちなみに当時の中国には「説」と呼ばれる職業の人がいました。彼らは政治コンサルタントのようなもので、諸国を渡り歩いては自らの政治思想を為政者に説いてまわり、ときに重職に起用されて政治を担っていたのです。
「説」は「悦」の借字ではなく職業名を指していると解釈するのが自然でしょう。
古くからの日本語にすると「先生はおっしゃっいました。学んだことを時を逸せずに広げてみせる。それだけが『説』ではないよ。」です。
でも続く文は「朋有り遠方より来きたる、亦た楽しからず乎」ですよね。
実はこれも誤訳です。「説」と同様当時「楽」という職業の人が実際にいました。
また「朋」は二枚貝の「宝貝」のことです。
中国古典が書かれた頃は、高貴な人を葬るとき死者の口に宝貝の片方をくわえさせて埋葬していました。そして廟堂で宝貝のもう片方を供え、音楽を奏でて祖先の霊を呼び寄せていたのです。このときに音楽を奏でる儀式をしていたのが「楽」と呼ばれる人たちでした。
だから正しくは「宝貝を供えてあの世から祖先の霊を呼び寄せる。それだけが『楽』ではないよ。」という意味です。
脇道に逸れました。
英文で「I think, He loved you.」があるとします。
直訳すると「私は彼があなたを好きだったと思う。」になるのです。まさに複文。
日本語にはこんなおかしな文章はそもそも存在しません。
古くからの日本語にすると「彼があなたを好きだったようだ。」です。
複文ではなくなりましたね。
複文以外にも消えたものがあります。
日本語に主語はない
厳密に言うと「日本語に主語はない」のです。
主語は外国語を訳すときに必要だから生まれました。
たとえば英語。英文はたいていの場合「主語」が必要です。
文頭に出てくる「I」「You」「He」「She」「Adam」「Eve」などが主語になります。
英語で主語が要らないのは短い命令文「Hurry up!」や感嘆文「Ouch!」を書くときくらいでしょうか。
英語の授業では「My name is Shohei Otani.」と習いましたが、これは「拙者の名は大谷翔平でござる。」のようなひじょうに古めかしい表現です。
現在の一般的な英語では「I’m Shohei Otani.」で通じます。
どちらにしても主語「My name」「I」がありますよね。
ですが日本語には基本的に主語というものがありません。
先ほど示した、
――――――――
先輩の家を訪ねる。先輩が不在だと告げられた。帰ってくるまで家の前で待つことにした。
――――――――
の中に主語はいっさい出てきません。なぜだと思いますか。
書き手・語り手の主観によって書かれている文章であることが明らかだからです。
あえて「私が」「私は」を付ける必要なんてありません。
文の主体が切り替わるときに「隆は」のように主体が最小限になるように省くのが日本語なのです。
彼は元々中国語
二文目「先輩が不在だと告げられた。」については「彼女が〜」と書きたくなります。
実は「彼」「彼女」も外国語を訳すときに作られた単語なのです。
中国古典において他のものを「彼」と書くのを転用して「彼」「彼女」という代名詞は作られました。
代名詞という存在自体が日本語には元々ありませんでした。
当初は中国語とわかるように「彼の人」「彼の地」「彼方」など「か」と読ませて用いていたのです。
中国古典『孫子』に「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」とあります。
実は『孫子』十三篇のうち、他のものを「彼」と書いているのはこの一文のみです。
他は「人」か「敵」の字を用いています。
ですが「彼」「彼女」は現在では一般的な日本語として定着しました。
まったく禁止するわけにもいきません。
「先輩」を二連発するのが本来の日本語です。
しかしすでに英語のように二回目以降を「彼女」に置き換えることもできるようになりました。
――――――――
先輩の家を訪ねる。彼女が不在だと告げられた。帰ってくるまで家の前で待つことにした。
――――――――
これで「先輩」という単語がひとつになってよりシンプルになりました。
文脈でわかるのなら省く
三文目は「書き手・語り手の主観」による「私」も「帰ってくる」の主語である「先輩が(彼女が)」も用いていません。
でもなにを言おうとしているかは明白ですよね。
このように、文脈でわかるのなら徹底的に省くのが日本語です。
また冠詞の「この」「その」「あの」なども本来の日本語にはありません。
これも中国語の影響で、「此」「其」「彼」などを訳すときに使われだした語です。
省けるものは徹底的に省くのが「日本語」なのです。
説明を描写に
「私はその知らせにとても驚いた。」はどう見ても英語の直訳ですよね。
まず当然のごとく「私は」は要りません。冠詞の「その」も要りません。
「知らせにとても驚いた。」は冒頭の文としてはわかりにくいのですが、二文目以降なら日本語の文章としてまったく問題ありません。
しかし一人称視点の小説は基本的に「主人公の主観」で地の文を書きます。
「知らせにとても驚いた。」などと書いてしまっては、ただの「説明」にしかならないのです。
自分の身に起こったことを「説明」してしまう。いただけませんね。
――――――――
携帯電話が鳴った。メールの着信のようだ。読んでみるととても驚いた。
――――――――
一文目「携帯電話が鳴った。」は「説明」、二文目「メールの着信のようだ」は「描写」に近い「説明」です。
しかし三文目がいただけません。
主人公が自分の身に起こっていることを「とても驚いた。」と書いたのではなんの情景も湧きません。
――――――――
携帯電話が鳴った。メールの着信のようだ。
〈あなたは今自宅に帰りましたね。買った食材からすると今晩はカレーライスかな。〉
読んでいると次第に背筋が冷えてくる。家中の窓の戸締まりを確認し、カーテンをすべて閉じてベッドの中で震えるしかなかった。
――――――――
三文目はメールの内容を「説明」しているのです。
これを読んだから「驚いた」わけですから、書かなければどういう理由で驚いたのか読み手には伝わりません。
今回はストーカー事案にしてみました。
四文目は「温感」が入っているので「主人公の主観」と見て「描写」になります。
五文目は「主人公の行動」の「説明」です。
やはり「描写」が一文入るだけで「とても驚いた。」と書くよりも具体的になりますよね。
接続詞は極力省く
文頭に「だが」「でも」「しかし」「だから」「そして」などの接続詞を頻繁に書く方がいます。
しかし接続詞ひとつで「その一文を読まなくても内容がバレてしまう」のです。
「だが」「でも」「しかし」はこれまでとは逆のことを言いますよというサインで、「だから」「そして」はこれまでのことを踏まえて言いますよというサインになります。
本コラムのように「説明」の「文章」を書く場合にはとても有効なのです。
「小説」では、その接続詞を見ただけで残りを読まなくても展開がバレてしまいます。
ネタバレしているのにわざわざ先を読もうとする人は奇特な方だけです。
どうしても必要なものだけ残してすべて削除してください。
そう言われると「なら接続助詞にすればいいんだな」と思う人がいます。
先がバレるという点では接続助詞も接続詞と同様です。
副詞・オノマトペも極力省く
「少し」「ちょっと」「やはり」などの副詞や「ドキドキ」「ドカン」「カンカン」などのオノマトペ(擬声語)も極力省きましょう。
「少し」「ちょっと」なら「一分待ってみた」「二、三秒立ち止まる」のように具体的な数字を出したほうがいいのです。
オノマトペは「胸が激しく脈打っている」「大砲の炸裂音が轟く」のように表現に直して「描写」するようにしてください。
副詞もオノマトペも手短に説明するときには役立ちますが、小説で「描写」をする際には手抜きもいいところです。
最後に
今回は「日本語は省く言語」というお題で述べてみました。
日本語は「省略の美学」です。
削れる単語はなんでも削ります。
それによって一文も短くなるのです。
だからといって具体的な表現を省いてはなりません。
「一分待って」を「少し待って」に変えたとします。
読み手は「少し」ってどれくらいの時間だろうと思いますよね。
急いでいる方は時間が気になるはずです。
それを「少し」で表現してしまってはいつまで待てばいいのか目安がありません。
逆に取るに足りない人物を詳細に「描写」する必要はないのです。
読み手が「取るに足りない人物」を「重要な人物」だと錯覚してしまいます。
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