第60話 ある別れの真相

【麻友】

         1

 朝の電車で啓介くんと会えないことがあった。

 それは人身事故の影響で大幅にダイヤが乱れた金曜日のことで、啓介くん自身が事故の被害者だったとは夢にも思わなかった。

 乗る車両や時間がうまく噛み合わなかったのだと思ったわたしは、こういうときのためにもスマホを持とうと決めた。

 何故か無性に彼に会いたくなった。

 早く声を聞きたいと願った。

 未だ未経験の行為を体験したいと思った。

 手を繋いだり、腕を組んだりしてみたい。

 抱きしめ合ったり、キスをしたり…

 どっちにしても電車内では何もできない。

 スマホを手に入れたら真っ先にデートの約束をしよう。

 試験が近づいていたので、週末はいつも以上に勉強に励んだ。

 月曜日。

 今までの人生でここまで週の始まりを待ち遠しく思ったことはなかったと思う。

 久しぶり(たかだか三日ぶり)に彼に会える。

 浮き足だった気持ちで電車を待っていると電光掲示板に『列車が参ります』と表示された。

 それだけで心臓がばくばくと早鐘を打ち、緊張の波が押し寄せてくる。

 電車がホームに滑り込んで来たときには、もうどうにかなってしまいそうだった。

 なんだか妙に恥ずかしくて、わたしはうつむき加減で車内に乗り込んだ。

 顔を上げないまま、いつも彼がいる場所へと向かった。

 一呼吸置いてから顔を上げる。

 彼はいつもの場所で文庫本を読んでいて、わたしと目が合うと本を閉じ、笑顔で迎えてくれる―――はずだった。


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 会えない日が続いた。

 彼に嫌われるようなことでもしたのだろうか。

 怪我や病気などしているのだろうか。

 わたしの不安などお構いなしに試験期間に入り、それもすぐに終わった。

 金曜日に答案用紙が返却され、土曜日にお母さんと一緒にスマホを買いに行った。

 新品のスマホをスカートのポケットに忍ばせて迎えた月曜日の朝。

「あの、すいません。黛…麻友、さん?」

 いつも啓介くんがいる場所に知らない男子学生がいて、声をかけてきた。

 怪訝に思いながらも、その人が啓介くんと同じ制服を着ていたので、彼からわたしのことを聞いているのだろうと思った。

「そう、ですけど…」

「俺、啓介の友達の柴田しばたって言います」

「えっと、なんのご用でしょうか…?」

 彼は一瞬、逡巡しゅんじゅんしたようだった。

「…伝言があります。…啓介から」

「伝言…?」

「はい。でも電車内ここで話すのは、ちょっと…」

「えっ…」

「申しわけないですけど…今日、学校サボれませんか? 次の駅で降りましょう」

 はっきり言って滅茶苦茶な提案だ。

 例え相手が恋人の友達だとしても、普通だったら絶対に取り合わない。

 それにこの時点では本当に友達なのかどうかすら確証はないのだ。

 それでもわたしは彼に従うことにした。

 たぶんこの人は悪い人じゃない。

 だから、きっと大丈夫…。

 甘い考えだとは思う。

 何か事件に巻き込まれる可能性だって十分あるのだから。

 事件を起こす側の人間がもちろん一番悪いけど、巻き込まれる方にも責任の一端がある場合だってある。とわたしは思う。

 これはそういう状況だ。

 それを承知でついて行くのだから、何があっても自己責任。

 もし何かされるような状況になったら、大声を出して、全力で逃げる努力くらいはしよう…。


         3

 まさかスマホで初めてかける電話が学校へのものになるとは思わなかった。しかも体調不良のふりをしてサボるためだなんて…。

 学費のことなどを考えると両親に対しての罪悪感を感じるけど、今回だけは大目に見てもらおう…。

 電車を降りた後、柴田くんと一緒に反対側のホームに回り、停車していた電車に乗り込んだ。

 その間、わたしたちに会話はなかった。

 啓介くんからの伝言とは一体どのようなものだろう…。

 気になって話しかけてみても、

「後でちゃんと話しますから、今は俺を信じてついてきて下さい」と言われただけだった。

 わたしの最寄り駅を通り過ぎる。

「電車代は俺が払います」

「別にそこまでしてもらわなくても…」

「いえ、払います。払わせてください」

「はぁ…」

 だんだん聞いたことのない駅名が車内アナウンスから聞こえてくるようになる。

 目的地がどこなのかは、なんとなく察しがついていた。

 でもその駅まで後どれくらいなのかが分からない。

 さすがに少し不安だった。

 そうしてしばらくの間、電車に揺られていると、やがてその駅名がアナウンスされた。

「次で降ります」

 やはりと言うべきか、当然と言うべきか、その駅は啓介くんの最寄りの駅だった。

 その後バスに乗り、(バス代も柴田くんが出してくれた)大きな病院の前の停留所で降りた。

 啓介くんがどういう状況なのかは分からなくとも、彼の身に何か良くないことが起きたことだけは間違いなさそうだった―――。


         4

 ベッドに啓介くんが寝かされていて、かけられた真っ白な羽毛布団がわずかに上下している。

 彼は意識不明の重体だった。

 一見、穏やかな表情で眠っているようにしか見えないのに、かなり予断を許さない状態らしい。

 そんな状態の本人を前にして伝えられた伝言の内容は、至ってシンプルなものだった。


 別れよう。


 聞いた瞬間、涙が溢れた。

 そこが病室であることを忘れて泣きじゃくった。

 わたしの中にある様々な感情が次々と涙になって流れ落ちていく。

 たぶん、そうすることで、わたしは無意識のうちに心の均衡きんこうを保とうとしていた。

 どれくらい泣いていただろう…。

「もう…大丈夫、です」

 わたしが落ち着くまで病室の外で待っていると言ってくれた柴田くんに声をかけた。

「ありがとう。…ここに連れてきてくれて。啓介くんの気持ちを、ちゃんと、伝えてくれて…」

「別にお礼を言われるほどのことはしてないです」

「ううん。そんなこと、ない」

 もし、電車内で「別れよう」という言葉だけを伝えられていたら、わたしは絶対に誤解していた。

 愛想を尽かされたのだと。

 恋人らしいことを何一つできなかったことが原因だと思ったかもしれない…。

 例え事情を説明されても、それだけでは半信半疑だっただろう。

 この病室で、啓介くんを目の当たりにして聞いたから、なんの疑いもなく話を聞くことができた。

 なんの疑いもなく聞くことができたから、「別れよう」という、ネガティブな言葉に込められたに気づくことができた。

 そのたった五文字の言葉には、啓介くんの想いがすべて集約されていた。

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