第52話 もう一人の自分

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 ポシェットの中にビニール紐が入っていた。

 当然だ。

 さっきまでと何も変わっていない。

 なのに、

 どうしてだろう。

 急に「怖い」と思った。

「死」というものが。

 そして、それを自ら望み、平気で実行に移そうとしていたことが。

 とてつもなく、怖かった―――。

 涙が浮かんだ。

 景色がぐにゃりと歪み、視界が不明瞭なものとなると、同時にわたしの中で様々な記憶がフラッシュバックする。

 わたしがこれまで体験してきた出来事が走馬燈のように浮かんでは消えていった。

 その多くは学校での辛い思い出と、孤独なだけの毎日だった。

 だけど、

 それでも、

 僅かに良い思い出もあるということに、わたしは気づいた。


 例えば、小学生の頃―――。

 まだクラスで浮いた存在になる前は男子に混ざってドッジボールをしていた。

 校庭に向かうとき、校舎に戻るとき、途中にある中庭の花壇に咲いた花を見るのが好きだった。


 例えば、ほんの一年前までの充実していた高校生活―――。

 勉強に明け暮れながらも、常に会話のネタになるような出来事を探していた。

 友達との会話の仕方を忘れていたわたしにとって、それはとても難しくて、でも、同時に楽しいことでもあった。


 人生初の恋人ができた。

 電車内で話をするだけの関係では一般的には恋人とは呼べないかもしれない。

 けれど、周りの迷惑にならないように小声で会話をするのがわたしは好きだった。

 二人だけの秘密を共有しているような感じがして、より親密になれた気がした。


 それらはもう失われてしまった。

 そしておそらく、今から元の状態に戻すことはとても難しい。

 でも確かにあったことなのだ。

 そんな簡単なことを、わたしは忘れていた。

 自分の人生には、良いことや、幸せなことなど、何一つなかったと思っていた。

 これから先もそうなのだと絶望していたから、生きる意味を見出せなくなっていた。

 でも、

 そんなことはなかったんだ。

 わたしの人生に幸せがなかったなんて、大間違いだ。

 ついさっきだって、あったじゃないか。

 猫ちゃんとたわむれながら、「こんに幸せを感じたのは」って思ったじゃないか。

 思い返せば、そんな何気ない、素敵な瞬間はいくらでもあった。

 お母さんとスマホを買いに行ったとき、二人で出かけるのなんて久しぶりで少し気恥ずかしかった。

 でもお母さんはとても嬉しそうだったし、わたしもちょっとだけ親孝行ができた気がした。

 思ったんだ。

 たまにはこういうのもいいなって。

 きっと、そういう何気ない幸せに気づくことができたから、わたしは「死」というものが怖くなった。

 そんな簡単な―――だけど、とても大切なことを、まさか猫ちゃんに教えられるなんて…。

 わたしの中で何かが吹っ切れた。

 まるで自分が別の誰かになったように清々しい気分だ。

 ううん。ちょっと違うな。

 別人になったんじゃなくて、本来の自分に戻ったような感じ。

 まだ悩みなどなかった、あの頃の自分に。

「あの猫はわたしの恩猫だね…」

 今なら、上原さんや山野さん、他のクラスメイトたちとも向き合える気がした。

 次に教室に行ったとき、ちゃんと話をしてみよう。

 それでどうなるかは分からない。

 事態が悪化する可能性だって十分ある。

 でも例えそうなったとしても、このまま何もしないでいるよりは、よっぽどマシな気がする。

 さっきまでの『死ぬつもりのわたし』は、もう、いなくなっていた。

 二度と現れることはないだろう。

 現れてもらっては困る。

 ただ、


“彼女”がわたしの一部であったことは決して忘れてはいけない。


 零れ落ちたしずくが頬を伝った。

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