第42話 信じるもの

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 これまでのウチの人生はとても「優しいもの」だったと思う。

 まず家庭にはなんの不満もなかった。

 ごくごく普通の一般家庭で、ごくごく普通の生活を送ってきた。

 家族みんなが仲良しで喧嘩らしい喧嘩をしたこともない。

 家族以外の人間関係も良好だった。

 子供の頃、学生時代、現在の職場に至るまで、ウチの周りにいる人たちは、みんな、いい人ばかりだ。

 そりゃあ、少しくらいは苦手な人もいたりするけど、そういう人とはなるべく関わらないようにすれば済む話だ。

 そんな風に生きてきたウチは、他人の嫌な部分を見る機会が少なかった。と思う。

 また、ウチはこれまでの人生において、つまづいた記憶というものがない。

 立ち直れなくなるような失恋の経験もなければ、勉強や部活で挫折を味わったこともない。受験や就活すら苦労はしなかった。

 何もかもが順調で、良くも悪くも平坦な道のりだったと言える半生は、平凡に生きることを信条とするウチにとっては十分に満ち足りたものだった。

 とにかく、

 ウチの周りには「優しいもの」が多すぎた。

 いや、「優しくないものが少なすぎた」と言うべきかもしれない…。

 それはさながら「優しくないもの」という菌がない部屋で育てられたようなもので…

 無菌室で育てられれば、その分、菌に対する免疫力が落ちてしまうこともあるだろう。

 ウチには「優しくないもの」と向き合うための免疫力が足りなかったのかもしれない。

 だから「浩一の死」に立ち向かうことができずに現実逃避をしてしまったのかもしれない―――

 …そんな風に思うことがある。

 ウチはもう二度と同じてつは踏みたくなかった。

 だからウチは浩一に似ている青年、コウくんに、こう言ってもらった。


 もう、僕に関わるのは止めてくれないかな―――


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 あの言葉はウチにとって、間違いなく「優しくないもの」だった。

 溢れてきた涙で視界が滲み、やがて一筋、頬を伝った。

 でもその涙は負の感情だけで流れたものではなかった。

 そこには確かに「嬉しい」「優しい」「幸せ」といった感情もあったのだ。

 あのときの、様々な気持ちが入り混じった感情をどう表現すればいいのかは分からない。

 あえて言うなら、「吹っ切れた」とか「すっきりした」が一番しっくりきそうかな…。

 自分への戒めのために言ってもらったあの言葉は、ウチの中では、本当に、浩一からの激励の言葉となっていた。

 それがウチの中の紛れもない真実。

 思い込みが激しいと馬鹿にされようが、妄想が過ぎると罵られようが関係ない。

 誰になんと言われようとも覆す気はない。

「信じる者は救われる」って言葉はよく耳にするけど、

 ウチは思うんだ。

「信じる物に救われる」んだって―――。

 それが何かは人それぞれでいいと思う。

 例えば、趣味や、夢中になっていること。

 例えば、大切な誰かの存在。

 例えば、大好きな歌の歌詞。

 もっと単純なものだって構わない。

 子供の頃から大事にしているぬいぐるみ。

 ボロボロになっても捨てられない思い出の写真。

 初めて当たりを引いて、でも勿体なくて、ずっと交換できずにいるアイスの棒。

 どんなにちっぽけで価値のないものでも、他人には理解できない詰まらないものだったとしても関係ない。

 信じられるものがあれば、きっとそれだけで心によりどころができる。気持ちにゆとりを持つことができる。

 今までウチにはそういうものはなかったけど、浩一とコウくんのおかげで手に入れることができた。

 だからウチは、二人からもらった言葉をしっかりと肝に銘じて、いつまでも大切に信じていこうと決めたのだ。

 コウくんは元気にしているだろうか。

 フードコートでニアミスをして以来、彼を見かけたことはない。

 黛ちゃんとは上手くやっているかな。

 もう妹さんには紹介したのかな。

 願わくば、三人が仲むつまじく笑い合っていればいい。

 あだ名しか知らない青年に対して、あたしは時々そんなことを思う。

 あだ名。

 あだ名かぁ…。

 ウチも一回くらいは浩一をあだ名で呼んでみてもよかったかも―――

 ふとそんなことを思い、天国の浩一に心の中で呼びかけてみた。


 ヒロくん…


 ―――ぶっ。

 ヒロくん…だって。ウケる。

 やっぱり浩一ひろかずのことは浩一ひろかずって呼ぶのが一番だ。うん。

 ぱちん。

 もう一度携帯を開くと、さっきまで満タンだったはずの充電が一つ減っていた。

 ウチは二年前から同じガラケーを使っている。

 ずっとつけている餃子のストラップはボロボロだけど、今でも大のお気に入りだ。

 最近確かに充電が減るのが少しずつ早くなってきている。

 これからも加速していく一方だろう。

 でもそれは仕方のないこと。

 以前のような不自然な減り方ではないのだから。

 ウチの携帯の充電が不自然な減り方をすることはもうない。

 いずれ機種変をしたとしても。

 思い切ってまたスマホに戻してみたとしても。

 契約会社を変えたとしても。


 何をしたって、

 もう―――きっと、二度とない。


 空には満点の星空が広がっていた。

「できれば、また次もガラケーがいいな…」

 キラキラと輝く名前も知らない星座を見上げながら、そう、独りごちた。


              由香子編・完

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