第37話 正体

【瑞希】

         1

 由香子のご両親に聞いた、当時の医者の見解では、あまりに大きなショックを受けた由香子の脳と心が、記憶の一部を忘れることで正常を保とうとしたのだろう、とのことだった。

 健忘症けんぼうしょう―――いわゆる、記憶喪失の一種で、事故に遭った当事者には往々にして起こり得る症状である。

 由香子は当事者ではなかったけれど、目の前で幼馴染みが死んだのだから、そのショックは計り知れない。

 そしておそらく、彼女の中には「浩一に迎えを頼んだ自分のせい」という自責の念があったに違いない。

 その罪悪感でどれほど重い十字架を背負うことになるのか、考えただけでも胸が張り裂ける思いがする。

 事故直後の由香子がどういう状態だったのか、あたしは知らない。

 あたしは事故の翌日に浩一の死を知った。

 さすがにショックが大きくて、誰かに構っていられるような余裕はなかったのだ。

 由香子に会ったのは、確か二、三日経ってからだったと思う。

 どのような顔をしていいのか分からず戸惑うあたしをよそに、由香子はいつも通りの態度を崩さなかった。

 あたしは最初、無理をして気丈に振る舞っているのだと思った。

 でも違った。

 そのときには既に、彼女の中では事故などなかったことになっていたのだ。

 色々と話が噛み合わないことがあった挙げ句に、あたしは由香子が記憶障害に陥っている可能性を疑った。

 その考えに至らなければ、「ふざけているのか」と怒り狂ったかもしれない…。


         ※

 一言に記憶喪失と言っても、原因や度合い、健忘の期間など、様々な種類、パターンが存在する。

 あたしが個人的に聞き取りをした限りでは、由香子が失った記憶は事故の瞬間とその前後のことだけだった。

 すぐに医者に見せるようにと、ご両親に勧めた。

 診断結果はおそらく、心因性による部分的な逆行性健忘症ぎゃっこうせいけんぼうしょうといったところだろう。

 逆行性健忘症は、その原因となった出来事と共にそれ以前の記憶が大きく欠落してしまう場合もある。

 由香子はそうならなかっただけ不幸中の幸いだった。

 ただ、浩一の死を受け入れられなかった由香子は、当然、通夜や葬式に参列できるような状態ではなかった。

 彼の死を受け入れられるように、あたしと由香子のご両親は何度も話して聞かせようとした。

 でもその度に由香子は、まるで人形のような虚ろな目をして黙りこくったり、嫌々をするように耳を塞ぎながら「聞きたくない聞きたくない」と呟いたり、髪を掻きむしりながら支離滅裂な言葉を喚いたりした。

 彼女は普段は全く問題なく生活しているのに“その事実”を伝えようとしたときだけ、心を閉ざすようになってしまったのだ。

 もはや、あたしたちには手の打ちようがなく、時間の経過による回復を願うばかりだった。

 ところが、由香子の症状は回復の兆しを見せるどころか、より複雑化してしまう。

 浩一の幻を見るようになったのだ。

 あたしは日に日に感じていた。

 始めのうちはあやふやで、まさしく『幻』だった浩一が由香子の中で徐々に―――だけど確実に、その存在を濃くしていくのを。

 言いようのない不安と、いるはずのない浩一に対する恐怖のような感情があたしの中で渦巻いていた。

 でもどうすることもできなかった。

 浩一の死に関する話題はこの頃になっても拒絶されていたし、何より、由香子のことはそっとしておいてほしいというのが、ご両親の意向だったからだ。

 そして由香子は「架空の浩一」を完全なイマジナリーフレンドとして確立させてしまったのである。


 


 由香子が言っていた「浩一のお相手」というのが、どういう存在に当たるのかはよく分からない。

 あえて明確化するとしたら、さしずめ「IFのIF」といったところだろうか―――

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます