第34話 二年前

【瑞希】

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 二年前のことは今でもはっきりと覚えている。

 その日は朝から、くすんだ灰色の雲が空を支配していた。

 テレビで気象予報士がのたまった「雨は降らない」という言葉は呆気なく覆され、町は夕方から大雨に見舞われた。

 あたしはその日も仕事だった。

 雨脚が酷くなるにつれて診療所を訪れる患者さんもいなくなっていき、先生の判断でいつもより少し早めの終業となった。

 あたしが勤めている診療所では、まず先生が最初に帰宅する。

 その後、看護師たちが片づけなどを行い、当番の看護師が最後まで残って戸締まりをすることになっている。

 この日は茶野先輩が当番だった。

 あたしは片づけを済ませて、着替えるためにロッカールームに向かった。

 ロッカーからスマホを取り出すと着信があったことを知らせる光が点滅している。

 液晶を表示させたあたしは思わず眉をひそめた。

『不在着信 20件』

『新着メール 17件』

 …なんだこれ。

 こんなに電話やメールがくることなんて普段ならあり得ない。

 確認すると、すべて由香子からだった。

 メールには『話したいことがある』のような内容しか書かれておらず、具体的な用件は分からない。

 あたしが仕事中だということは知っているはず…。にも関わらず、これだけ連絡を寄越したってことは―――

 嫌な予感がした。

 とりあえず着替えだけは済ませてから電話をかけると、数回の呼び出し音の後、音声ガイダンスに切り替わった。

『現在、電波の届かないところにいるか電源が―――』

 留守電にメッセージを残し、一応メールも送っておく。

 少し待ってみたけど返事はなかった。

 あたしは一先ひとまず帰ることにした。

 このまま診療所ここにいても仕方がないし、あたしが帰らないと当番である茶野先輩に迷惑をかけてしまうからだ。


         2

 診療所を出ると、傘を差して立ち尽くす由香子がいた―――。

 傘はほとんど役に立たなかったようで全身ずぶ濡れだった。

「ゆか…こ」

 由香子は無言で俯いている。

 茫然自失といった様子で、あたしの存在にすら気づいていないようだった。

 あたしは金縛りにあったように一歩も動けなかった。

 それ以上の言葉を紡ぐこともできなかった。

 凄まじい雨音がしているはずなのに、その音が一切聞こえない。

 目の前に降りしきる雨粒の一つ一つをはっきりと認識できるほど時間の流れが遅く感じられた。

 どれくらいそうしていたのか分からない。

 診療所から出てきた茶野先輩に、中に入るように促されなければ、いつまでも立ち尽くしていただろう…。

 あたしたちは無人となった待合室のソファーに座らされた。

 よく見ると由香子の顔には泣いたような跡があった。

 先輩がタオルを二枚用意してくれたので、一枚で自分の、もう一枚で由香子の、顔、体、髪などを拭いた。

 そうしている間に先輩は給湯室で二人分のココアを入れてくれた。

 待合室にココアの優しい香りが広がる。

 由香子もだいぶ落ち着いたらしく、あたしたちの問いかけにもちゃんと応えられるようになっていた。

「すいません…迷惑かけちゃって」と由香子が言うと、茶野先輩は「迷惑だなんて、とんでもないですよ」と、ふわり微笑んだ。

「あとは二人だけの方が何かと都合がいいでしょうから、私は先に帰るわね。四条さん、スペアキーを渡しておくから、戸締まりお願いね」

 そう言い残して先輩は帰って行った。

 突然の来訪者である由香子に親切にしてくれただけでなく、何も聞かずにいてくれた先輩の気遣いがありがたかった。

 両手で包み込むように持っていたマグカップを一口すすると先輩のような優しい味がした。

 隣で由香子も同じようにカップに口をつけていた。

 やがてココアを飲み干した由香子が意を決したように話し始めた。

 浩一に気になる女性ができたらしいこと。

 その子と何度もニアミスをしたこと。

 でも決して会うことはできなかったということ。

 とあるきっかけから、イマジナリーフレンドかもしれないと、冗談半分で疑惑を抱いたこと。

 イマジナリーフレンドのことを由香子なりに調べたこと。

 疑惑が確信に変わる出来事が起きたこと。

 そして、その事実を浩一に突きつけたこと―――。

「浩一が走ってどこかに行っちゃった後、不安になって連絡取ろうと思ったの。でも電話もメールも繋がらなくて…。それで不安になって…。ねぇ、ミズ…。ウチのしたことって、間違ってたのかな」

 泣きはらして真っ赤になった由香子の目を見ながら、あたしは言った。

「少なくとも、あたしは、そうは思わない…。むしろ勇気のある行動だったと、思う」

 弱いあたしなんかより…ずっと。

 あたしには、由香子の言う“浩一という存在”に何が起きたのかは分からない。

 でも一つだけ、はっきりしていることがある。


 由香子は重大な勘違いをしている。


 すべてを話すときが来たのだと思った。

 あたしが彼女に今まで言えずにいた真実のすべてを―――。


 今度はあたしが勇気を出す番だった。

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