第32話 豪雨の中で

【浩一】

         1

 誰でもいいから言ってほしかった。

 何かの間違いだって。

 そしたらきっと、明日には何事もなかったように黛麻友があの場所に来るはずなんだ。

 僕が今日のことを話すと、「んー? そんなわけないじゃん。わたしはわたしだもんっ! えへん☆」なんて言うんだ。

 後でゆかの奴を叱っておかないと。

 いや、でも、ゆかも悪気があったわけじゃないんだから、むしろお笑いぐさにしてやろう。

「あんな真顔で馬鹿じゃないのか」ってさ。

 きっと顔を真っ赤にして、照れながら怒るぞ。

 そのむくれっ面に免じて許してやることにしよう。

 今こうして必死に駆けずり回っている僕だって、とんだお笑いぐさだ。

 黛麻友には「そんなにわたしのことが心配だったの? モテる女は辛いなぁ。えへん☆」などと、いつまでも、いじられ続けるだろう。

 そのときのドヤ顔を想像するだけでなかなか屈辱的な気分になる。

 けど、それもいい。

 いや、

 それいいんだ。


 このときになって僕は、今まで何気なく彼女と過ごしていた日々がこの上ない幸せなものだったことに気づいた―――。


         ※

 雨は土砂降りになっていた。

 車ならばワイパーが役に立たないほどの勢いだ。

 僕の視界もほとんど奪われている。

 ざぁざぁと降りしきる雨音に聴覚までも遮られていた。

 鞄にしまった文庫本はもう駄目だろう。

「はぁ…はぁ…」

 猛烈な雨の中を走る僕は明らかに疲弊ひへいしていた。

 濡れた服が体に張りつき、嫌な感触と重さで体力をごっそりと持っていかれる。

 とっくに着いていてもいいはずだった。

 それがどうしてまだ病院の建物すら見えてこないんだ…

「くそッ! あの病院、こんなに遠かったか!?」

 疲れと焦燥が募っていく。

 ―――。

 落ち着け。焦っちゃ駄目だ。

 冷静になってよく考えるんだ。

 もしかしたら、いつの間にか通り過ぎてしまったのか…?

 …いや、それは有り得ない。

 僕が向かっているのは県内でもトップクラスの規模を誇る大学病院だぞ。

 いくら視界が悪くてもあんな大きな病院を見過ごすわけがない。

 でも、だとしたら…なんで。

「なんでなんだよッ!」

 僕は体力的にも精神的にも限界を迎えようとしていた。

 もはや冷静な判断ができる状態ではなく、自分が今どこを走っているのかさえ分からなかった。

 それでもとにかく無我夢中で走った。

 一秒でも早く真実に辿り着くために。


 そのとき。


 急に。


 時の流れが。


 スローモーションになった。


 有り得ない状況に。


 一瞬。


 戸惑いつつも。


 そのことで逆に。


 冷静さを取り戻した。


 僕は視線だけで。


 辺りを見回す。


 僕は。


 いつの間にか。


 道路上にいた。


 足下には。


 横断歩道。


 僕の。


 すぐ右側には。


 車のヘッドライトが。


 あって。


 そのことに気づいた瞬間、

 時間が元の早さを取り戻し―――


 僕の意識はそこで途切れた。

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