【第197話】迷わない

〝お前は我になる……我はお前に……〟


 王都の旧市街に入った時に胸の激痛と共に聞こえた声。


 あれは明らかにシリュー自身の声だった。


「お前は……誰だ……」


 掠れる声で呟いたシリューの言葉は、あの声に向けたものなのか、それとも自分自身に向けたものなのか。


 シリューは寝転がったベッドから天井を見つめ、何かを掴むように手を伸ばす。


「そういえば……」


 以前エラールの森にミリアムと探索に出かけた日。シリューは突然激しい胸の痛みに襲われ、気を失った。


 その時に見た、幻とも現ともつかない不可思議な夢。


 真っ黒な雲に覆われ草も木も枯れ果てた殺伐の世界に、三柱の龍が横たわり、肉の焼ける臭いと、大地を埋め尽くすほどの夥しい死体。


 その地獄絵図の中で対峙する、水色の髪のエルフと、そして自分自身。


〝貴方を救いたかった〟


 大粒の涙を零し、引き絞る弓から放たれた光の矢が、自分の胸を貫き、夢はそこで終わった。


 すっかり忘れていた。というより、考えないようにしていたのかもしれない。


「あれは、未来の俺なのか……それとも……」


 頭の中がぐちゃぐちゃで、考えが纏まらない。


 自分の中に、得体の知れない感情が芽吹き、心を押しつぶそうとする。


「違う……俺は……魔神なんかに……ならない」


 シリューは、天井に向けた手を強く握りしめた。


 ただ、シリューには、もう一つ忘れている事実があった。



〝貴方の傍には、貴方を救う者たちがいます……〟



 それは、闇の中に灯る、小さな希望の光。






「こんな形で、いきなり告白されるとは……思ってませんでした」


 まだ乾かない風呂上りの濡れた髪を指で絡めながら、ミリアムは自分の部屋でベッドに腰掛け、椅子に座るハーティアと向き合っていた。


「……そうね、勇者や召喚に関しては予想はしていたけれど……まさか……」


 二人が衝撃を受けたのは、勇者の仲間で召喚者の一人だったからではない。


「魔神なんて、ただの伝説だと思っていたわ」


「……神教会は、魔族の目的が魔神の復活であるとの見解を示しています。もちろん公にもされてませんし、一部の人にしか知らされてませんけど……」


「貴方は、その一部の人、なわけね……」


 ミリアムは神妙な表情で頷いた。


「シリューさんは、レグノスを出る前、私に言いました。『俺はいつかきっと、お前に取り返しのつかない迷惑をかける』と……」


「……さすがはシリュー・アスカというところかしら。迷惑の規模が世界レベルだわ……」


 肩を竦めるハーティアの呟きは、ミリアムには聞こえなかった。


「で、それが、魔神になるという蓋然的がいぜんてきな結果を憂いたもの、だったわけね」


「でも、そんな事があるんでしょうか。人がっ、魔神になったなんてっ。シリューさんが……魔神に、なるなんてっ……」


 ミリアムは膝に置いた両手の拳を強く握りしめ、潤んだ瞳で床をじっとねめつける。


「記録が残っているという事は、本当の事なのでしょうね。事実、自然の力を司る四神龍のうち、白龍、赤龍、黄龍の三柱が失われたままよ」


「それは……そう、ですけど……だからって、シリューさんが……」


 ミリアムには到底受け入れられる事ではなかった。


「ご主人様は……」


 ベッド脇のテーブルに座り、それまで黙って俯いていたヒスイが、不意に顔を上げた。


「ご主人様は、を助けてくれたの。一緒においでと言ってくれたの。そして、に素敵な名前を付けてくれたの」


 ヒスイは、その小さな瞳を大きく見開いてミリアムを見つめる。


 その眼差しを受け取って、こくんっとミリアムが頷く。


「私も、シリューさんに助けてもらいました。何度も何度も……」


 両手のひらを目の前に掲げたミリアムの脳裏に浮かぶのは、生命力を使い果たし、死の淵を彷徨うシリューの姿。


「シリューさんは、こんな私のために、簡単に命を懸けてくれました」


 ヒスイから受け取った気持ちを手渡しするかのように、ミリアムはハーティアに向けて瞳の光を投げかける。


「そうね……」


 こんな所で死にたくない、生きたいとハーティアが願ったあの時。


「……私も、シリュー・アスカに助けられたわ」


 それが苦しみの代わりに、死を先延ばしにしただけだとしても、今こうして生きている事に、ハーティアは感謝もしていた。


「ご主人様は、とっても優しいの」


「……はい。シリューさんは、めっちゃ優しい、です。自分を殺したお姫様まで、助けるんですから」


「そうね……シリュー・アスカは……馬鹿みたいに、優しいわね」


 そして、シリューのその強大な力は、いつも誰かのため、誰かの命を守るためだけに行使される。


「私は……シリューさんが魔神になるなんて信じません。ううん、シリューさんを魔神になんてさせませんっ」


 ミリアムは右手を自分の胸に添えて、決意をのせた声に力をこめた。


「私も、あのお人よしの域を超えている馬鹿が魔神になるなんて信じないわ。それに、ポードレールの女は、受けた恩は必ず返すの。シリュー・アスカを魔神にはさせない。それで、貸し借りなしよ」


 無表情のまま、ハーティアは何かを放るように手のひらを振った。


「ご主人様は、魔神にはならないの。ヒスイはユルティーム・ピクシーになって、ご主人様をきっと幸せにするの」


 ヒスイはきらきらと星を振りまきながら、踊るように空中を飛んだ。


「最初から分かってる、答え合わせみたいですね」


 ハーティアとヒスイが大きく頷いたのを見て、ミリアムはゆっくりとベッドから立ち上がった。


「実は私、まだお話ししなきゃいけない事があるんです。明日の朝、ちゃんと話しますね」


 ミリアムの目に、迷いはなかった。






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