【第192話】ヴィオラ先生はマイペース
入学の手続きを全て終えて制服を受け取ったあと、シリューたち三人は正面玄関を出て、色とりどりの花が咲く花壇の配された中庭を正門へ向かって並んで歩いていた。
「あれ? そういえば、研究責任者のマスター……にも会ってないけど?」
石畳の道の途中で、シリューは思い出したようにぴんっと指を立てた。
「マスター・バルドゥール、ですよキッド」
いつものようにシリューの右隣を歩くミリアムが、ちゃんと覚えてくださいね、と言いたげな顔で冷静に補足する。
「……研究責任者の、マスター・バルドゥールには……明日研究室で会えるわ」
シリューの左隣で僅かに俯くハーティアの言葉は、何故か微妙に歯切れの悪いものだった。
「え? 今日じゃないのか?」
シリューは思わず聞き直した。
魔導師のバルドゥール・ビショフは、人造魔石の解析を行うビショフ研究室の責任者で、今回シリューが受けた依頼の中でも、護衛と保護の対象となる最重要人物だ。
学院長のタンストールに続いて、肝心の研究責任者にも会えないとは、妙な幸先の悪さを感じたのだ。
「マスター・ビショフは、所用で出掛けているわ。それで……今日はもう戻らないのよ……」
ハーティアはまるで自分の不手際を詫びるかのように、眉をひそめて首を振った。
「そっか……ま、出掛けてるんじゃしょうがないさ。お前のせいじゃないんだから、そんな顔するなよ」
「え、ええ、そうね……でも……」
そうは言っても、シリューをこの件に引き込んだのは他の誰でもない。
それが分かっているからこそ、ハーティアは責任を感じているのだ。
「今日はお前が案内してくれて、いろいろ助かったよ。それにまあ、結構楽しかったし」
シリューは目を細め、涼しげに笑った。
「え……?」
その笑顔をハーティアが見るのは初めてではない。
“死にたくない!“
心の奥底で叫んだあの時。
オルデラオクトナリアを退け、目の前で振り向いた今日と同じ涼しげな笑顔。
不意に思い出したハーティアは、悟られないよう慌てて顔を背ける。
「な、何をどう解釈すれば、楽しいなんて発想になるのかしら? ばっ、馬鹿なのキッドっっ」
「へえええ、そおんなに楽しかったんですかあ? ハーティアと一緒でえ。へえええ、そうなんだあああ」
背筋の凍るような気配と声にシリューが振り向くと、光のない目を向けるミリアムが、真っ黒いオーラを漂わせて氷の微笑みを浮かべていた。
「や、ま、待てミリ、ジェーンっ。なんか、途轍もない勘違いしてるぞ絶対!!」
「ふうん、勘違いですかあ? わ・た・し・が? それともキッドが? どっちですかねええ」
大きく口を歪めたミリアムの笑顔、それはもはや、獲物を睨む毒蛇。
「あ、いや……お前? あれ、俺? えっ、え?」
訳が分からず焦るシリューと、闇堕ちのミリアムを救ったのは、意外にもハーティアの一言だった。
「貴方たち、仲が良いのは分かるけれど、こんな目立つ場所で痴話喧嘩はよしなさい」
「違うわっ!!」
「ち、ちがいますっ」
真っ赤な顔をして慌てふためく二人に、トドメを刺したのはもちろんヒスイだ。
「二人はラブラブなの、です」
「違うからっ!!!」
「ち……ちがい、ます……」
人目も憚らず大声で否定したシリューに対して、ミリアムの声は消え入りそうなほど小さく、抑揚がなかった。
「ティア〜!」
気まずい空気を打ち破る声が響いたのはちょうどその時だった。
「ああ、先生……」
振り返ったハーティアが先生と呼んだ女性は、左手に書類を抱えたまま、右手を小さく振りながら駆け寄ってくる。
後ろで一筋に纏めた三つ編みの金髪が、彼女の走る動きに合わせて左右に揺れる。
ゆっくりと。
ぱたぱたと走る彼女だったが、一向にシリューたちとの距離が詰まらない。
「おっそっ!」
「我慢しなさいキッド。ヴィオラ先生はあれで全速力なのよ」
思わずツッコミを口にしたシリューを嗜めるように、ハーティアが平然とした無表情でぽつりと零した。
「全速って……走ってたのか、あれ……」
足の出し方から腕の振りまで、全てを叩き直したくなる、現役陸上部のシリューだった。
「ああ良かったあ〜、伝えておく事があったのよ〜ティアぁ」
ようやく追いついてきたヴィオラは、ハーティアの顔を見て碧の瞳を眩しそうに細めた。
「いや喋るのおっ、むぐっ……」
「黙ってキッドっ」
何か言いかけたシリューの口を、ミリアムが咄嗟に手で塞ぎ、ジトっとした半開きの目でねめつける。
「ナイスよ、ジェーン」
「はい。もう読めてます」
ハーティアとミリアムは、囁くような声を交わす。
ヴィオラの纏めた髪の両側から、尖った耳がのぞいていた。
「キッドって、エルフには遠慮なくツッコむアホの子ですから」
うんうん、とハーティアもその意見に激しく同意する。
「なんの、お話し~。ちょっと、いいかしらぁ」
「あ、すみません。何か御用でしょうか先生?」
ハーティアは、ヴィオラに向き直って尋ねた。
「そうそう、明日の午後ぉ、授業が終わったら~、新人さんのぉ、二人を~研究室に、連れてきてほしいのぉ……いいかしらぁ」
「はい。マスター・バルドゥールにもそう言われていますから」
「まあぁ、そうだったの~。わざわざ伝えなくも良かったかしらぁ。ごめんなさいねぇ、呼び止めたりして~」
「いえ。ちょうどその二人も一緒です」
そう言ってハーティアは少し振り返り、指を揃えて伸ばし、手のひら全体でシリューを指し示した。
「ええ? あらあらぁ。人がいたのねぇ、気付かなかったわ~」
「いやそこは気付けよっっ」
シリューはミリアムの手を払いのけて、思いっ切りツッコんだ。
さすがに、これは仕方ないな、とミリアムは思った。
「紹介してもらえるかしらぁ~」
「マイペースかっ! ある意味凄いわっ!」
このままでは不味い。ヴィオラの一挙手一投足の全てがツッコみの対象になりそうだ。
シリューは自分の気質に初めて、そして少しだけ面倒くささを覚えた。
「こちらの男性がウィリアム・ヘンリー・ボニー。こちらの女性がマーサ・ジェーン・カナリー」
ハーティアは続けて手のひらをヴィオラに向ける。
「キッド、ジェーン。こちらはヴィオラ・エナンデル先生。実証魔学の講師で、ビショフ研究室の研究助手よ」
「初めましてぇ~。ヴィオラですぅ、これからよろしくね~」
目を閉じるくらいに細めた笑顔で、ヴィオラが右手をゆっくりと差し出す。
何から何まで遅い……。
若干イラつきながらも、シリューは自分からぐいっと手を伸ばし、ヴィオラの手を掴んだ。
「こちらこそよろしくお願いします。ウィリアム・ヘンリーです。キッドと呼んでください」
女性と握手する事に抵抗があったせいか、多少の違和感を感じて、シリューはさっと手を離した。
「私、ジェーンです。よろしくお願いします」
「はぁい、明日からよろしくねぇ~。いろいろ大変だと思うけどぉ、分からない事はぁ、何でも聞いてね~」
「はい、ありがとうございます」
「じゃあティアもぉ、また明日~」
「はい、失礼します」
握手と挨拶を終えたヴィオラは、踵を返してゆっくりと校舎へ歩き出した。
「なあ、あれ。走るのも歩くのも、ほぼ一緒じゃん……」
ヴィオラの後姿を眺めて、シリューが溜息をつく。
「そう、ね……」
「のんびりな人ですねぇ……」
「常にあのペースだから、授業の進みもゆっくりなのだけれど……不思議と遅れる事はないの」
ハーティアは腕を組んで、首を傾げる。
「あんなでも、要点は纏めるって事なのかな?」
「でもあの人、何しに来たんでしょう? 伝言なら明日でもいいですよね?」
シリューは、ヴィオラにミリアムと同種の匂いを感じていたが、口には出さなかった。
「ヴィオラ先生の優先順位は……よく分からないわ……」
シリューは、不思議な生き物を見るような目でヴィオラを見送った後、変な疑問を抱いたまま二人と一緒に校門を抜けた。
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