第七章 王都に眠る影
【第166話】ここにも……
いつからだったのか。
明日なんかこなければいいと思った。
明日になれば、また一日終わりの日へと近づく。
なすすべもなく、ただ命の終わりを指折り数えるだけの日々。
明日に希望はない。
明日に未来はない。
だから明日なんていらない。
終わりを知った今日もいらない。
何も知らなかった昨日が欲しい。
希望を抱いていた昨日が欲しい。
未来を信じていた昨日が欲しい。
すべてが輝いていた昨日だけが欲しい。
けれど時間は無情に流れてゆく。
どんなに望んでも、どんなに願っても、残酷な明日へと止まらずに流れてゆく。
嘆きだけが待つ明日へ。
終末に一歩進む明日へ。
そしてただ、その日を迎える。
大河に架かる橋を渡れば、その先は見渡す限りの穀倉地帯。
収穫時期を迎えた麦の穂が色づき、黄金の絨毯が遥か彼方へと広がっている。
風に波打つ金の地平線の向こうには碧の山々がそびえ、空の蒼との境界を鮮やかに標す。
ただ土を踏み固めただけだった街道が、やがて整備された石畳の舗装へと変わり、行き交う馬車は商人たちの乗る小奇麗なものばかりではなく、これから収穫作業に向かう農夫を乗せた、屋根のない簡素なものも混じりはじめる。
「もうすぐ王都よ、ほら」
ハーティアが馬上から指を差した先には、山々の裾野に僅かながら建物の屋根と、王城の尖塔らしきものがゆらゆらと陽炎に揺れている。
「ヒスイ、ここからは念のために姿消しを使ったほうがいい」
「はい、です。ご主人様」
シリューの肩に座っていたヒスイが、きらきらと星を振りまいて飛び立ち、景色に溶けるように消えた。PPIスコープに映るヒスイの輝点は、ゆらゆらとミリアムの胸で止まった。
「私、アルフォロメイの王都って初めてです。シリューさんは?」
まるで遠足を翌日に控えた子供のように、うきうきと言葉を弾ませるミリアムを眺めて、シリューはふっと頬を緩ませる。
「俺は自分の国からいきなりエラールの森に飛ばされたからな。こっち側の国はどこも初めてだよ」
ただ新しい街に心がはやるのはシリューも同じだった。
「どんなところでしょう、楽しみですねぇ」
陽炎の先に思いを馳せ、ミリアムの瞳が輝く。
「無駄に期待しすぎるのもどうかと思うけれど……そうね、面白いところではあるかしら、色々な意味で」
ひらりとスカートを翻し馬から降りると、ハーティアはミリアムの隣に並んだ。
アルフォロメイ王都は三大王国であるエルレインやビクトリアスはもとより、その他の連合国からも人々が集うこの世界で最大の都市であり、交易、文化、教育の中心地といえる。
都市の南側には大地を分断するように大河が流れ、北から東に続く丘陵の稜線が天然の城壁を形成し、その奥に続く盆地と山岳地帯からの防衛にも優れた地形を成していた。
「遊ぶところも多いから、時間を作って案内してあげるわ」
「ホントですか!? 嬉しいですっ」
短い旅の間にすっかり打ち解けた感のある二人の会話を聞きながら、シリューはちらりとハーティアに目を向ける。無表情なのは相変わらずだが、どことなく雰囲気に柔らかさが見えるのは、気のせいではないだろう。
「何をじろじろ見ているの、いやらしいわシリュー・アスカ」
思い違いだった。
「お前に興味はないから心配するな、猫耳オレンジ」
ドラウグルワイバーンとの戦いの後、宿での態度がおかしかったのであって、これが正常な通常運転のハーティアだ。そうシリューは思って一人頷いた。
ハーティアにしても本気で言っているわけではないだろう、ならばこちらも適当にあしらっていればいい。と、そこまで考えてシリューははっと気付いた。
「え、あれ? まさか、本気で言ってるのか……?」
よくよく思い返してみれば、最初の出会いから問題だった気がする。
”……偶然とはいえ、胸触った……まて、そういえばパンツも見た……え? ちょっと……まてっ俺、サイテーだろっ”
シリューは頭を抱え込み、もう一度ハーティアの顔を見た。特に変わった様子はない、いつも通り心の見えない無表情な瞳だ。
「まだ何か言いたいのシリュー・アスカ」
「いや、別に……なんか、ごめん……」
いきなり神妙な顔で謝ったシリューに、ハーティアは怪訝な表情を浮かべ、すぐ隣で二人のやり取りを眺めていたミリアムの顔が、みるみるうちに闇色に染まってゆく。
「気持ち悪いわね、何について謝って……」
「シリュー、さん」
ハーティアの言葉を遮り、ミリアムはシリューの襟首を掴んで道の端へと押しやる。
「シリューさん……まさかホントにそんな目で?」
顔を伏せたミリアムの声は、いつもより1オクターブ低い。
「ちょ、ミリアムっ!?」
黒いオーラを漂わせ、ゆっくりと顔をあげたミリアムが蠱惑的な微笑みを浮かべる。勿論、その目は笑ってはいない。
「そうですか……あの耳ですか? それともあの控えめな胸ですか?」
「いや、ミリアム? ちょっと、何の話かわかんないんだけど?」
シリューは本気でそう言ったのだが、その言葉の何かが気に障ったのか、ミリアムの表情が益々闇に染まってゆくように見えた。
「へぇ~、じゃあ、どうすれば分かるのかなぁ」
ぎりぎりと襟元を締め上げるミリアムは、すでに喋り方まで変わっている。これは不味い、シリューの本能がそう警報を鳴らす。
「み、ミリアムっ、落ち着け、て、手を放せっ、違うからっ」
「ん~? 何が違うのかなぁ? 締め方? もっときゅってやったほうがいいのかな?」
「いや、お前、話聞く気ないだろっ」
シリューはすでにつま先立ちになっているが、ミリアムはにこにこと背筋の凍るような笑みを浮かべ、襟を掴んだ腕に少しずつ力を入れる。
「ま、待ってミリアムさんっ! ちょっとした冗談よ、シリュー・アスカを揶揄っただけ」
さすがにこれ以上放置するのは不味いと感じたハーティアが、ミリアムの肩に手をかけ軽く揺すった。
「え? 揶揄った……? はっ! ご、ごめんなさいぃぃっ」
不意に我に返ったミリアムは、大慌てでシリューの襟を放し、道の反対側へぱたぱたと走ってゆく。
「ねえ、一応聞くけれど、大丈夫? シリュー・アスカ」
道端で背を向け肩を竦めているミリアムを眺め、ハーティアがぽつりと呟いた。
「ん、まあ……」
シリューは二、三回ほど咳込んだ後、首を摩りながら歯切れ悪く答えた。
「貴方たち……」
「ん?」
「もう、結婚しなさい」
「いや、意味わからん」
シリューはそう言ったが、おそらく意味が理解できていないのは当の本人だけだろう。
「ほら、行くぞミリアム」
「は、はい……」
シリューが馬の手綱をとり歩き出すと、ミリアムは遠慮がちに隣に並んだ。
「ところで、王都では何か予定があるのかしら、シリュー・アスカ」
シリューの斜め前を歩きながら、ハーティアが振り向く。
「いや、特に予定は無いけど」
「そう……」
ハーティアは軽く頷き、ほんの少しの間考える素振りを見せて立ち止まると、緩やかな仕草でシリューに向き直りぴんっと指を立てた。
「シリュー・アスカ。貴方、魔導学院に入るべきだわ、いえ入りなさいっ」
「いや、お前ホント何言ってんの? 俺の事情知ってるよな?」
「知っているわ、勇者に……いえパティーユ王女が怖くて逃げ回っているのでしょう?」
腕を組んで斜に構えたハーティアが、訳知り顔で首を傾ける。
「何そのドヤ顔。確かに逃げてるけど、お前の言い方微妙だからな」
まるで浮気がばれた恐妻家が、怒り狂った本妻の前から遁走してきた、とでも言いたげなハーティアの言葉に、シリューは眉根を寄せて首を振る。
「いいですね、学院に入るなら、私も入りますっ♪」
ミリアムはすでに決まった話のように目を輝かせるのだが、それにはもちろん訳がある。彼女は神教会から魔導学院への推薦状を持っているのだ。
「ミリアム……俺の話聞け……」
「え? 聞いてますよ?」
確かに話は聞いているのだろうが、シリューの都合は欠片も考慮している様子がなかった。
「自由かお前ら……。前にも言ったけど、追われてるから一つ所に長居したくないし、そもそも身元を特定されるような事はしたくないんだよ」
「ええ、だから偽名でも使えばいいわ」
あっさりと、とんでもない発言がハーティアから飛び出す。
「偽名って、身元確認ザルなの?」
シリューはそう思ったが、ふと冒険者登録の事が頭を過る。あの時も、たいした身元確認などしていない。
「……いや、ザルだな……個人情報もだだ漏れだしな……」
だが、ハーティアも適当に無責任な事を口にした訳ではなかった。
「そこは、ポードレール家が保証するわ、いろいろとやり方はあるから」
「それ、絶対まずいだろ……」
「そうでもないわ、うちの食客という事にすればいいのだから」
実際ポードレール家は、何人も腕の立つ有名な剣士や魔法使いを食客として抱えていたし、父親とはほとんど口を利かないが、一人ぐらいハーティアが雇うのを反対はしないだろう。
「貴方は魔導学院で、その魔法の才能を磨いてもっと上を目指すべきだわ」
まっすぐにシリューを見つめ、まるで指導者のように理想的な言葉を口にするハーティア。だが。
「本音は?」
「無詠唱の魔法に、無尽蔵な魔力量。更に獣人を遥かに上回る身体能力。研究材料としてこれ程興味深いものはないわ」
完全に本気だという事が、ハーティアの目の輝きにあからさまに表れていた。
「お前……そこはもっと遠回しに言えよ」
「あら、遠回しに言ったつもりだけれど?」
「……ここにも変態がいた……」
シリューは誰にも聞こえない声で呟き、まるで縋るように空を仰いだ。
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