【第160話】正しき選択
齢を重ねた巨木の立ち並ぶ深く深く静かな森。
生い茂る木々に遮られ、陽光の届かないはずの森の中は、それでも淡く輝く光に溢れ、そこに生きるものたちの道を照らし、温もりを与えていた。
魔物も人も立ち入る事のできないその森の奥。鬱蒼とした木々の間を抜け、季節の織り成す色鮮やかな花たちが咲き乱れる道の先に、清らかな水を湛える大きな湖があった。
ただし、目を引くのはその美しい湖畔の景色ではなく、湖の中央から高々と聳え立つ一本の樹。
生命の誕生と同時に芽吹き、幾星霜の時代を生きたその幹周りは城一つにもおよび、枝葉の広がりは街をすっぽりと覆うほどの影を落とし、その高さは雲さえ突き抜け、樹頭を地上からうかがうことはできない。
この世界に七本あると言われているうちの一本。
世界樹。
その世界樹を守るように、あるいは守られるように湖畔に建つ、無垢の白を基調にした小さな城。
けっして豪奢ではないが、気品に満ちた調度品の置かれたその城の一室に、一人のエルフが佇んでいた。
透き通るように輝く水色の髪と雪のような白い肌。
千年を生きた彼女はハイエルフと呼ばれ、この森を統治する王の娘だった。
「どうか……どうか今は耐えてください……そして、いつかきっと……わたくしの元へ、還ってきてください……」
窓辺に立つその女性は両手を胸の前で組み、世界樹に向けまるで祈るように神秘的な碧の瞳を閉じた。
よろよろと立ち上がったシリューは、西日に紅く染まった雲を見上げる。
「……何だったんだろ……」
痛みも引き落ち着いてみれば、さっき頭の中に聞こえた声も会話も、全て夢の中の出来事のように思えて現実味がない。
「一人じゃ、ない……か」
それはシリューにとって、胸の隙間を埋める魔法の言葉に思えた。
「俺は、俺以外には、ならない」
そう呟いたシリューの背後に、異質な気配が広がる。
「そうか、それが、君の選択なんだね?」
シリューが振り向くと、そこには白いフードの男が立っていた。
「メビウス……」
「やあ、気分はどうだい?」
陽気そうに尋ねたメビウスの言葉だが、たいして感情は込められていなかった。
「見てわからないか? 最悪だよ……」
シリューは、誰が見てもわかりそうな事を聞いてくるメビウスに、皮肉を込めた一言で返した。
「ああ、そうだね。顔色も良くないようだ、大丈夫かい?」
これもまた、気遣っているようには思えないほど抑揚がない。
「嘘っぽい台詞はやめろよ、あんたに心配してもらっても嬉しくない」
シリューは、メビウスに対抗するように、わざとらしく肩を竦めてみせた。
「まあ、そう言わないでくれ。これでもしっかり感情を込めたつもりなんだ」
「ああどうも。で、今日は何の用?」
おざなりに尋ねたシリューだったが、よく考えてみればメビウスとの接触に意味があった覚えがない。
「酷いなぁ、僕の行動にも立派な理由があるんだよ?」
また心を読まれた事に、シリューは不快そうに顔を歪める。
危害を加える事はないと言ったが、油断していい相手でもないのだ。
「君は、何故あの王女を助けたんだい?」
「え?」
「普通の人間は、一度殺されかけた、君の場合は実際殺されてるけど……そんな相手をけっして助けるなんてしない。憎みこそすれ、ね」
シリューは頷く。たしかにそれはメビウスの見解が正しい。
「それなのに、君はその力で復讐するどころか、彼女の命を救った……。何故だい? 何故そんな心理になった?」
「いつものように、心を読めばいいだろ?」
フードに隠れたメビウスの顔が、僅かに陰ったように見えた。
「もう試してみたよ、でも分からない。複雑に色が入り混じっているようで、どれが本当なのか全く読めない」
「そうか、それなら……残念だけど、まだあんたが知る時じゃないって事だよメビウス」
シリューは涼し気に笑った。
「君は本当に面白いね。彼女の言った通り、今回は違った結果になるのかな……」
シリューの見せた余裕は、メビウスの一言であっという間に崩れ去る。
「まて、彼女を知ってるのか!? 違った結果って、どういう事だっ!」
「彼女の事はよく知ってるよ、でも、僕がここで話す事を彼女は望んでいない。それこそ……君がまだ知る時じゃない、という事じゃないかな?」
メビウスはからかうでもなく、ごく平然とした態度でそう言った。
「ああ、ね……そう言うと思ったよ」
シリューは諦めたように肩を落とした。
「それじゃあ、いずれまた」
「待てよっ、あんたは何を知ってるっ。教えてくれメビウス! 俺はっ、俺は……魔神に、なるのか……」
徐々に存在が希薄になってゆくメビウスが、シリューの声に応えるようにふと顔をあげた。
「それは、前に一度話したはずだ、選ぶのは君自身だと……」
少し間をおいてメビウスは続ける。
「僕が君たちを直接導く事は禁止されている……だけど、そうだね。君は正しい選択をした……僕は、そう思うよ」
「え?」
直後、メビウスの存在は完全に消失した。
「いつもいつも、いきなり現れやがって……」
だが、メビウスの最後の言葉には、ほんの僅かに感情が込められていたように思えた。
「正しい選択……か」
メビウスはそう言ったが、それがシリューにとって正しい選択だったのか、それとも世界にとって正しい選択だったのか、そして、魔神になるのを回避する選択だったのか。
「パティ……くっ」
ずきり、と胸に痛みが走り、シリューは耐えられず片膝をつく。
或いは、答えを先延ばしにしただけなのかもしれない。若しくは、単にメビウスにとって都合の良い選択だったともいえる。
メビウスの目的が分からない以上、その言葉も信用できるものではない。
「俺は……」
いつか、この痛みを伴うことなく、パティーユと向き合える時がくるのか。
「貴方を救う者たちがいます……か」
頭の中に響いた彼女の声は、確信と自信に満ち溢れていた。そして、それはおそらく……。
だが、意識がぼやけて、いつものように上手く考えが纏まらない。
「……まあいいか、とにかく街に帰ろう」
ふらつきながら立ち上がったシリューは、薄闇に染まった東の地平線に目を向ける。
微かに街の明かりが見えるが、気分的なものだろうか、今は随分遠いように思える。
「うわっ」
【翔駆】を使おうとしたが、足場が現れず、シリューはそのまま地面に突っ伏してしまった。
「な、なんだ?」
起き上がろうと両手をついて支える身体が、鉛のように重くそのままの姿勢で動けなくなる。
「あ、れ?」
全身を襲う、泥沼のような倦怠感。
「動け、ない……うそだ、ろ……」
シリューは土の上にうつ伏せに力尽き、意識は深い闇へと落ちていった。
どこまでも続く真っ白な世界。人であれば、いや人よりも長い寿命を持つエルフでさえも、一時間も耐えられないであろうその時空にそれらは存在した。
「今の言葉は、規約違反ではないか?」
メビウスが振り向くと、そこには同じ白のフードを着た少女が立っていた。
光を振りまく銀の長い髪に、温もりをもたない銀の瞳。
「違反常習の君に言われるとはね……」
メビウスはそっとフードを外した。
短めに整った髪と僅かに幼さの残る瞳は十代の少年のようで、向き合う少女とまったく同じ銀の色に輝いている。
「久しぶりだね、前に会ったのはベテルギウスが超新星爆発を起こした時? それとも、がか座ベータ星(ベータ・ピクトリス星)が生まれた時だったかな?」
少女は目を閉じて首を振った。
「まるで人のような言い方だな。それに、随分とあの人間に入れ込んでいるようだが」
「まあ、そうだね。興味はあるよ、非常にね」
話してはいるが、お互いに口は動いていない。
「ほう、上手くいきそうか?」
「どうかな、上手くいって欲しいとは思ってるよ」
少女の瞳が僅かに光る。
「君は……相変わらずだな」
「そうかい? いや、そうか。未だ残っているのかな、そんな感傷が」
メビウスは表情を変えずに首を捻る。
「まあ、それもよかろう。では私はゆく、経過報告を忘れるなメビウス」
少女がフードを被り背を向けた。
「ああ、じゃあまたね、
少女のメビウスが消えてゆくのを、少年のメビウスは片手を挙げて見送った。
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