【第97話】心に刺さるもの
そろそろ行こうとシリューが立ちあがった時、後ろから呼び止める女性の声がした。
「シリュー君、おはよう」
振り向くと、そこに立っていたのは防具屋『赤い河』の女主人でエルフのベアトリスだった。
「ああ、えろ……ベアトリスさん、おはようございます」
「……今、明らかににエロエルフって言おうとしたわよね?」
「違うんですか?」
訝し気な表情を浮かべるベアトリスに対して、シリューはあくまでもさりげなく答えた。
「相変わらず随分な発言ね……嫌いじゃないけど。それより、今朝は1人?」
ピクシーの魔力を感じとるベアトリスは、ヒスイが一緒でない事に不思議そうな顔をした。
「ええ、ヒスイは宿で留守番です。最近はちょくちょく別行動してますよ」
「え? もうそこまで進んでるの?」
何か、気になるワードが出てきた。
「あの、そこまでって、何の話です?」
「あ、いいのいいのっ。そのうち分かるから」
以前まったく同じ会話をした気がする。その時も結局ははぐらかされた。
さりげなく笑って、ぱたぱたと手を振るベアトリスの今日の服は、青のワンピースにレースのケープ。スカート丈も膝下で、少し開いた襟元はさりげなく胸を強調してはいるが、いつもと違って清潔感が漂う。
本人曰く、ビキニアーマーは店の制服みたいな物で、さずがに出かける時は着替えるのだそうだ。
「そんな事よりシリュー君、さっきから1人でぼんやりして、どうかしたの?」
「なっ、見てたんですか?」
ベンチに座るシリューを見つけたが、その雰囲気になかなか声を掛けづらく、ベアトリスは暫く様子を見ていた。
「何か、浮かない顔してるけど、神官の彼女さんと喧嘩でもした?」
ベアトリスは顎に手の甲を添え、少し首をかたむける。
「いえ、別に……喧嘩は……してないです……」
寧ろその逆だった。お互いに気持ちが近づいていく事に、シリューは戸惑っていた。
「ふーん、否定するのは、そっちなんだ……」
妖艶な笑みを浮かべたベアトリスは、シリューに聞こえない程の小さな声で囁いた。
「え? 何です?」
「ううん、噂の『深藍の執行者』さんも、女の子には弱いんだなっ、て」
ぴんっと指を立てて、ベアトリスがいたずらっぽい流し目を送る。
「……それ、もう定着しちゃってるんですか……」
「あら? 気に入ってなかったの? なかなか素敵だと思うけど」
シリューは恨めしそうにベアトリスを見る。よく分からないが、元の世界では中二的な二つ名も、この世界ではごく普通に認識されているという事だろうか。
「でも、少し影が薄くなっちゃったかも。また新しい英雄が現れたみたいだから」
背筋に冷たいものが走るのを感じて、シリューは思わず肩を竦めた。嫌な予感がする。
「……英雄、ですか?」
「そうよ、シリュー君知らなかったの? 昨日の戦いで、怪物を葬った白い服の騎士。その風姿と戦い方から、『断罪の白き
「ぐほっ、ごほっ……」
咽た。
“ 早すぎるだろっ、誰? 誰のセンス? 誰が付けた!? 何? 『断罪の白き
「あら? どうしたの?」
「俺は、アリゾナ・コルトって聞いたんですけど……」
シリューはささやかな抵抗を試みる。
「アリゾナ・コルト? うーん、全く聞かないわねぇ……」
“ ワイアットっ、あのおっさん、シカトしやがったのか!? ”
折角名乗った偽名と目論見が、一瞬で崩壊したのをシリューは悟った。
幸い、今回は顔も名前も知られていない。他人の振りを通せば問題ないだろう。
「私も、一度見てみたいわ『断罪の白き
お願いですから、その名を繰り返さないで下さい。シリューは声なき声で呟いた。
人造魔人の一撃よりダメージが大きい。心をグサグサと抉られる思いだった。
「それより、ベアトリスさんこそこんな早くにどうしたんですか?」
これ以上のダメージに耐えられそうになかったシリューは、強制的に話題を変えた。
「早い? そんなに早い時間かしら?」
ベアトリスは一度空を見上げ、日の高さを確認する。正確な時間こそ分からなかったが、もう十時ごろの筈で、それ程早い時間ではない。
「シリュー君……何か、誤解してないかしら?」
眉をひそめて、ベアトリスが尋ねる。
「あ……言われてみれば。ベアトリスさんって、いかがわしいイメージが」
「うん、シリュー君。相変わらずいい毒の吐きっぷり。嫌いじゃないけど」
見かけは確かにエロエルフのベアトリスだが、商売はまっとうな防具屋だ。彼女は引っ越しの手続きの為、商人ギルドへ向かう途中だった。
「ベアトリスさん、街を出るんですか?」
「ええ、アルタニカに店を出そうと思ってね。この仕事を始めた頃からの夢だったの」
現在見つかっている中でも、規模も難易度も最大級の地下迷宮のあるアルタニカには、各国から一流の冒険者たちが集まる。そこは、武器や装備を取扱う職人にとっても、自分の実力を試される場でもあった。
アルタニカで認められる、それは一流の証。
「まあ、私みたいに少し名前が売れて来ただけの鼻ったれには、厳しいでしょうけれどね。でも、やってみたいの」
すっと空を見上げるベアトリスの笑顔は、いつもの妖艶なものではなく、日の光を浴びる水面のようにきらきらと輝いて見えた。
「大丈夫、ベアトリスさんなら。付き合いは短いけど、そう思いますよ」
シリューはそう言って、涼し気に笑った。
「ありがとう。出発まではまだ間があるから、一度うちに寄ってね。そう、彼女も一緒に」
しっかりと頷いたシリューと別れ、ベアトリスは商人ギルドへと向かった。
実は、大丈夫と言ったシリューの笑顔に、一瞬引き込まれそうになったのは内緒だ。
「あれは、やばいわね……」
ベアトリスは誰にも聞こえないように呟いた。
「さあて、俺も行くかな」
まだ気持ちの整理は出来ていなかったが、いつまでも此処でこうしていても始まらない。シリューは大きく伸びをした後、ヒスイの待つ『果てしなき蒼空亭』へ戻った。
「あの、失礼ですが、シリュー・アスカ様ですか?」
宿の入り口のドアを開けようとしたシリューを、後ろから発せられた声が呼び止めた。
“ 今日はよく呼び止められる日だ ”
シリューが振り返ると、そこには黒い燕尾服の男が立ち、その後ろには、絶え間なく行き来する荷馬車の音にかき消され、いつの間にか上品な馬車が停められてた。
「どちら様ですか?」
ナディアの屋敷の執事ではない。歳は三十半ばだろうか。ただその所作と漂う雰囲気は、貴族に仕える者特有の気品が感じられた。
「申し遅れました。私はカルヴァート家にお仕えする執事のアランと申します」
深々と腰を折るアランにならい、シリューも同じようにお辞儀をした。
「……カルヴァートって、誰だっけ……?」
シリューは心の中で呟いた。覚えが無い。いや、会った事はあるのだろうが、覚えていない。
「我が主、エイブラム・オスニエル・カルヴァートより、野盗団の件で感謝の品を直接、シリュー様に手渡すよう、申し付けられております」
そう言ってアランは小さな木箱を両手で掲げた。
「あ、……」
思い出した。冒険者ギルドでお礼を言いに来たこの地方の領主で、伯爵だと名乗った気がする。
そう言えばその時、お礼の品を届けるとも言っていた。
「それは、ご丁寧に。ありがとうございます。確かに、頂戴致しました」
シリューは箱を両手で受け取り、知る限りの丁寧な言葉で礼を返した。
「では、ご機嫌麗しゅうお過ごし下さいませ」
来た時と同じように慇懃に挨拶をし、アランは馬車に乗り込み去って行った。
「ホントに届けに来るとは……案外律儀な人なんだな……」
ゆっくりと遠ざかる馬車を見送り、シリューは呟いた。
だが、考えてみればこの世界で出会った貴族は皆、かなりいい人たちだったと思う。
クリスティーナ、ナディアにエマーシュ、レスター。
……それに……。
「パティもあんなだしな……」
思わず口にしたその名前に、シリューはずきりと胸が痛み、右手を心臓に当てた。
大丈夫、痛みはあるが、これは肉体的な痛みではない。
そう、これは、心の痛みだ。
「……パティ……」
ぐしゃぐしゃな酷い顔で泣いていたパティーユ。
思い出しても、不思議と恨みや憎しみは無い。ただ、どうしようもない哀しみが心に刻まれているだけだ。胸と背中に残る傷跡のように。
だが、実際に顔を合わせたら、どうなるのか。それはシリューにも分からなかった。
「怒りに我を忘れて、パティを殺す?」
そうなったとして、パティーユは何の抵抗もせず、それを受け入れるような気がする。
「パティは、死ぬ覚悟が出来てたのかな……?」
シリューは胸に当てた手をじっと見つめた。
「俺は……パティを殺したいのかな……?」
シリューは静かに首を振る。
その時になってみないと、分からない。
そもそも何故、そんな事を急に思い出したのだろう。
「まったく、呼び止められたり思い出したり、昨夜から何か忙しいな」
シリューは入口のドアに伸ばした手を止めて、くるりと背を向けた。
「ご主人様っお帰りなさいなの、です」
2階の窓から、ヒスイが嬉しそうに舞い降りて来る。
「思った通りだ」
「はい?」
「いや、こっちの事。じゃ、ミリアムのお見舞いに行こうか」
「はい、なのです」
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