【第96話】過去と今、そして……

「おまたせっ、僚ちゃん」


 それは麗らかな春の日の朝。


 掛け流し型の噴水から繋がるせせらぎ水路の、緩やかな水の流れをぼんやりと眺めながら、僚は煉瓦舗装の赤茶色と芝生広場の緑が心地よく調和した、駅前広場の杉製ベンチに腰掛けて、美亜が現れるのを待っていた。


 高校に入学したての僚の為に、美亜が企画してくれたお祝いの初デート。


 高校に入ってから、養護施設と自宅を行き来している美亜は、前日から自宅に帰り今朝の待合せに、少し遅れてやって来た。


「ごめんね、待った?」


「別に、俺もさっき来たとこ」


 勿論それは僚の嘘だった。実は、いつも養護施設で顔を合わせているにもかかわらず、改めての初デートに昨夜から気持ちがはやり、1時間も早くここに来ていたのだ。


「ねえねえ、どお?」


「え?」


 ちょこん、と首を傾げる美亜の唇には華やかな赤いルージュが引かれ、ミディアムの髪に掛けられた、軽く無造作なウェーブと相まって、いつもより大人っぽく見える。


 白いリブ加工のカットソーは、躰のラインにフィットして、こちらも、いつもは制服やトレーナーに隠されている、最近急成長してきた柔らかな双丘が、その存在を主張していた。


「僚ちゃん? 黙ってないで何か言って? 私、僚ちゃんの為に頑張ったんだよ?」


 身を屈めて僚を見つめる、美亜のスクエアネックの隙間から白い谷間が覗き、僚は慌てて視線を逸らす。


「あ、うん。すごく似合ってる、すごくかわいい」


「ホント? 惚れ直した?」


 それは美亜の拡大解釈だったが、美亜を相手にあえて否定する必要も、意地を張る必要もない。僚は素直に認めた。


「そうだな、うん、惚れ直した、美亜はやっぱりかわいい」


「いえぃっ、やったあ!」


 美亜は余程嬉しかったのか、朝の日の光にも負けない笑顔でくるりっと回った。淡いピンクのフレアスカートが、美亜の動きに合わせ危うく揺れ、太腿の付け根まで露わになる。


「ちょっ美亜っっ!」


「ん?」


 いきなり叫んだ僚に、美亜は目を見開いてぴたりと止まる。


「ちょっと……スカート短すぎじゃないか……」


「……見えた……?」


 お互いに押し黙ったまま、じっと見つめあう。


 しばらくそうした後、僚が耐えられず目を逸らしたのを見て、美亜が口を開いた。


「見たね、誤魔化せないよ」


 美亜はピンっと人差し指を立てる。


「……その、ごめん……」


 ずばりと指摘され、僚は赤くなった顔を伏せる。


「僚ちゃん」


 僚が顔を上げると、息がかかるくらいすぐ傍に美亜の顔があった。


「ねえ……」


 美亜は近頃時々見せる、蠱惑的な微笑を浮かべて僚の顔を覗き込んだ。


「どうだった? どきっとした? ムラムラした?」


「え? って、あのっ」


「ちゃんと答えて……どっちでもないって言ったら、私、泣くかも……」


 美亜はそう言って瞳を潤ませる。これはさずがに日和ってはいけない、僚はしっかり自覚した。


「……うん、どきっとした」


 美亜は黙って頷きゆっくりと背を向ける。


「……そっちかぁ……まあしょうがないか、僚ちゃんだもんねぇ」


 美亜の諦めに似た小さな呟きは、僚には聞こえなかった。


「え? 何?」


「何でもないっ、それじゃいこっか!」


 美亜は振り向いて、ぐいっと僚の手をとる。


「そんなに急がなくても、時間ならたっぷりあるだろ」


 少し呆れ顔で、僚がその手をほどく。


「あんっいじわるっ」


 美亜はぷいっと頬を膨らませ、気をつけの姿勢で僚をねめつけた。


 それから表情をくずしにっこりほほ笑むと、


「明日見僚くんっ、若者の時間はあっと言う間に過ぎていきますよ。そんな事言ってたら、置いてっちゃうんだからっ」


 と、いきなり駆け出した。


「もう、待てよ」


 僚は立ち上がろうとした。


「ほらほら、早く早くっ」


 立ち上がれない。足が固定されたように動かない。


「え? ち、ちょっと」


 その間にも美亜はどんどん遠くなる。


「僚ちゃーん、何してるのー」


 僚は焦る、だがどうやっても動く事が出来ない。


「ちょっと待って、美亜っ」


 気が付くと、いつの間にか景色が色を失い、白い靄に包まれている。


「僚ちゃんっ、ホントに置いてっちゃうよっ」


 美亜の姿が靄の中に消えてゆく。


「待って、待ってっ! 美亜っ美亜っ!!」


「……僚ちゃーん……」


 靄の向こうから聞こえる声も、もう聞き取れない程小さく遠い。


「美亜! 行くなっ、待って、行かないでくれっ!! 行かないでっ、行かないで!!!」


 目が覚めると、シリューはまだ暗い部屋のベッドの上で、右手を天井に向けていた。まるで、決して掴む事の出来ない幻を掴もうとしているように。


「……夢……」


 それは、二人が一番楽しかった頃の夢。


 あの時、僚も美亜も、自分たちのその時間が永久に続くと思っていた。


 限られた時間の中に生きているなど、思いもしなかった。


 唐突に終わりを告げるなど、考えもしなかった。


「美亜……」


 明かりのない部屋で、シリューは身を起こし、両手をじっと見つめる。


 そこにはもう、美亜の温もりは残っていない。覚えているのは、この掌の中で徐々に体温を失い、二度と握り返してくる事のない、冷たくなった美亜の手。


 いくら声を掛けても、二度と開かれる事のない瞳。


 込み上げてくる感情の波に耐えきれず、シリューはヒスイを起こさないようにベッドを抜け、バスルームへ駆け込む。


「美亜……みあっ……どうしてっ……」


 シリューは壁に背を預け蹲る。


「ずっと一緒だって、言ったのに……うっ……話したい事、いっぱいあったのに……なんで、なんでっ」


 思い出の中で、いつまでもきらきらと微笑むだけの美亜。


 もう触れる事も、声を聞く事も、その瞳に映る事もない。


 頭では理解している。だが心はそれを受け入れようとしない。


「美亜……また話がしたい、並んで歩きたい……ぐすっ……美亜、会いたい、会いたい……会いたいよ……」


 シリューは闇の中で、たったひとり、声をあげて泣いた。






 治療院にミリアムをお見舞いに行った次の日。


 シリューは一人、広場の隅にあるベンチに腰を下ろし、街の喧騒を眺めていた。


 理由があってそうしている訳ではない。ただ何となく一人になりたくて、それでも人の姿のある場所にいたくて、気付けばここに来ていた。


 何も聞かずに送り出してくれたヒスイは、後でミリアムのお見舞いに行きたい、とだけ言った。


「お見舞い、か……」


 昨夜あんな夢を見たのも、ミリアムに会いに行ったのが原因だったのかもしれない。


 安心しきった顔で眠るミリアムの手を握ったシリューは、彼女の寝顔に美亜の面影を重ねてしまった。

 重ねた、というより、不意に思い出がよみがえったという方が正しいのかもしれない。


 はじめは乱れていた息も徐々に落ち着き、握り返していた手からも力が抜けた。そのあまりの穏やかさと消えた反応に、シリューは一瞬背筋が凍る思いだった。


 あの時と同じ……。


 シリューは慌てて自分の耳をミリアムの口元に近づける。すぅっと小さな息の音が聞こえ、ゆっくりと胸も上下を繰り返している。


 何より握りしめたミリアムの手は、彼女の心を表すようにしっかりとした温もりがあった。


「……ミリアム……」


 いくら鈍いシリューでも、ミリアムが自分に好意を持ってくれているのは、夕べの会話でわかった。


 問題はシリュー自身の気持ちだ。


〝もし、ミリアムが美亜の転生した姿だとしたら……〟


 ミリアムだけではない。


 パティーユも、クリスティーナも。


 その誰かが、あるいは別の誰かが、この世界に転生した美亜だったとして、それは本当にシリューの、いや明日見僚の美亜なのだろうか。


 彼女たちにはこの世界でそれぞれ重ねてきた年月があり、家族や友人があり、そして個々の未来がある。


 彼女たちにとって、明日見僚はただ偶然出会った通りすがりの一人でしかない。


 美亜としての記憶を失っている以上、いやたとえ記憶を持っていたとしても、彼女たちは別の個人である筈だ。


 そして、今はそれを確かめる方法もない。


 未だに消える事のない美亜への想いは、シリュー自身が新な道に進むのを拒む。


 明日見僚という名前を捨てたとしても、思い出を捨てる事は出来ない。心を変える事は出来ない。


 シリューにとって、美亜は心の中に住み続ける美亜ただ一人。


 美亜と過ごした時間だけが本当で、その本当を裏切る選択肢はシリューにはない。


 たとえそれが、もう一つの本当だったとしても。


「……俺は……本当に約束を守れるのかな……」


 シリューは大きくため息を零した。


〝俺は……美亜をみつけられるのかな……?〟


 ミリアムは言った、シリューさんはとっても強い、と。


「ミリアム……俺はお前が思ってる程強くない。未だに死んだ彼女を思い出して、子供みたいに泣きわめくんだ……俺は……弱いよ……」


 何処かから、街の喧騒に混じって小鳥の囀りが聞こえてくる。


 通りには、潰れた建物の瓦礫や木片を積んだ馬車が絶え間なく行きかい、広場では、褐色に日焼けした労働者たちが官憲隊の指示の下、破壊された絞首台を矢継ぎ早に片付けている。


 昨日の戦いで、冒険者、官憲隊、騎士団と、合わせて十二名が命を落としたと、早朝の冒険者ギルドで顔を合わせたルガーから聞いた。


 あの戦いのさなか、自分の命も顧みず、子供を救うためその身を盾にしたミリアム。


「……本当に強くて優しいのは、お前だよ……」


 ミリアムの瞳に、自分はどんな姿で映っているのだろう。そんな思いが、ふとシリューの胸を過る。


「お前が見てるシリュー・アスカは、本当の俺じゃない……本当の俺は……俺は……」


 シリューはベンチの背もたれに背を預け、青い空に浮かぶ白い雲を見つめた。


 ゆっくりと、少しずつ、少しずつ、常に形を変化させながら雲は空を渡ってゆく。薄くなって消えてゆくもの、新しく生まれてくるもの。


 それは、美亜との待ち合わせ場所でみた、あの小さなせせらぎ水路を、ゆっくりと流れてゆく水にも似た……。


「……生々……流転……」


 シリューは無意識に呟いていた。


 何かが閃いた気がして、だがそれもすぐに消えてしまう。まるで手を触れた途端に壊れてしまう、ふわふわと浮かぶ虹色のシャボン玉のように。


「くそっ、悩んでたって、しょうがないか」


 いくら考えても答えは出そうにない。それならいっそのこと後回しにしてしまえばいい。


 とりあえず今はそれでいい、とシリューには思えた。

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