幻影之章

1 針先のやじろべえ

 

『ハァ……ハァ……ッ、くそ、呪詛か。一体どれだけ練ったんだあの小娘!!』


 かろうじて、そう、かろうじて命だけはあるといったような瀕死の状態で彼は逃れていた。だが、受けた呪詛は彼を蝕み続けて生命線である神力を削っており、まったく余裕など持てない。忌々しい、と舌打ちをしては呪を祓い、力を蓄える手段を考える。呪詛が神力を削りきってしまう前に補充して猶予を得ないと力を蓄えてきた彼にしても消滅してしまう。


『界を渡るか……いや、このまま人を喰った方が早いか』


 寝静まる住宅街を抜けて彼は眠らない繁華街へやって来た。今の時代、街の方では明かりが消えることはなく、したがって皆が寝静まるということもない。また、薄暗い界隈には標的としやすい人間が多かったりする。どうしようもない欲望を溜め込んだ者、つらい気持ちを吐き出せずにいる者、澱んだ空気に逃れてきた者達などは手っ取り早く力となってくれるのだ。


『まずは簡単なやつから……』


 この時ばかりはしかと心を落ち着かせて狙いを定める。失敗して少しでも力を消耗するのはよろしくない。

 狙うのは、見た目だけは平然としている飲んだくれだ。彼等は心の中に気持ちを閉じ込めることに慣れている。そのため、今までに溜め込んだ恨み辛みも相当なものになる。人間がその身の内に溜め込んだ気持ちは研ぎ澄まされてとても強い力になるため、それを奪い取ることができれば彼もそれなりに回復するのだ。

 それに、彼は他の箱を開くのも得意だった。ふと頼りない光が照らす一角に目を止めるとビルの屋上から一気に飛び降り、狙った人間の意識に語りかける。


『――あぁ、生きるのは苦しいなぁ。楽をしたくはないかい?』

「簡単に楽できれば文句はないわ……」


 見た目を装っただけで確かに酔っていたその女性はぼんやりとした思考の中で思わず返事をしてしまった。そのせいで相手の術中に落ちてしまったことに気付くことなく。


『楽をしようとしない君はきっといつも気を張っているのだろうね。それは、とても疲れそうだ』

「そうね、疲れたわ……」

『そんな君は癒しが欲しいのではないかい?』

「ええ、欲しいわね……辛いことを忘れられるような時間が欲しいわ」


 重ねられる問いに重ねられる杯。女性の思考はどんどんぼんやりとしていき、疲れが表に現れる。じりじりと箱の蓋が開けられていた。

 そうして少しでも隙が見えたと思えば、悪い奴はそこにつけこむものだ。


『あぁ、可哀想に。誰も君の苦しみに気付かない――僕以外にはね』

「わたし、わたし……っ」

『おいで。君の心を溶かす夢へと僕が誘うよ――さぁ、安心して身を委ねると良い』


 誘った部屋の一室でその心をこじ開けて、つくも神は女性の中にあった力を引き出した。その瞬間に今まで感じたことのない衝撃が彼女を襲い、その意識は闇に落ちる。

 パタン、と扉が閉まる音がした。それが何の音なのか、理解する前に彼女の記憶は持ち去られてしまっていた。


『おや、おや。これは思ったよりも純度の高い絶望だ』


 水陰の色をした宝石の形をしたそれを見て彼は嗤った。そこには期待以上の力が詰まっていたからだ。霊力とは違う、人間だけが持つ不可思議な力。彼はそれをグラス一杯の琥珀色に溶かして飲み込んでしまった。こくりと喉が動き、力がつくも神の中で広がる。


『まぁ、少しは足しになったか。だが、万全にはほど遠い。いずれは……そう、あの小娘の毒さえも僕の力として下してやる』


 薄闇の中で狂気を孕んだ瞳を光らせて彼は嗤う。そして蓮華原の夜を歩き力を蓄えていった。老若男女隔てなく、心に箱を作っている者達を狙う。時には霊能者までも。

 まだこれは、ほんの序章に過ぎない。堕ちた神の行動がどれだけ影響していくのかは誰も知らず、気付いていないのではどうすることもできなかった。



 ***



 新聞の一面に載っていたのは蓮華原市の天生目東高校のガラスが割られていたというものだった。幸い、そのときは全校生徒が体育館に集まっていたため怪我人はなかったという。ただ、不思議なことにガラスが割られていたのは校舎三階の廊下側のもの。ガラスの飛び散り方を見るに、外から割られたのだろうと推測される。しかしながら石などガラスを割れるものは見つからず、どのように割ったのかは不明であるという。事件との関連性は不明だが奇妙なことに学校に関することにおいてのみ生徒達からの証言は芳しくない。


「……これは」


 ふと朝食の手を止めてその男は呟いた。そしてそのまま、食べかけの朝食を置いて仕事着に着替えると早足で外へ向かった。行き先は書類やら何やらで埋まりそうな一室。


「あ、室長早いですね」

「早くはない。というか、何でここはこんなに静かなんだ?」

「えーっと、それは……」


 そこは、裏警察捜査室だった。

 室長こと三笠が訝しげな顔をして周囲を見回すと、対応に出てきていた東野は特大の汗を垂らす。別に悪いことをしていたわけではないのだが、一つ言えば三つも四つも怒りの言葉が返ってきそうな気がして上手く言葉にできない。


「夜勤のはいるんですよ。いるんですけど……」


 その視線が向かった先を三笠も追いかける。すると、書類の隙間に撃沈している死に体を見た。

 三笠は無言で近寄るとそれを見下ろす。死体ではない。死に体だ。死なれちゃこき使えなくなるわけだから困る。

 夜のうちに何が起こったのか分からないが、普段と比べるとかなり疲れ切っているようだった。


「矢島がこうなっているのは珍しいな」

「あー、その、ちょっと巻き込まれたらしいっす」

「巻き込まれた? 何に……いや」


 三笠は問い詰めようとしてすん、と鼻を動かす。矢島からははっきりと酒の臭いがしていた。比較的真面目な彼は勤務中の飲酒はあまりしない。ということは、やむを得ず飲む羽目になったのだろうか。


「どうやら、『妖食街』で馬鹿騒ぎがあったとか」

「あ~、“あわい”か。あそこはどうしてもなぁ……馬鹿騒ぎってことは飲み比べか食べ比べだろう。この感じからして飲み比べに巻き込まれたか」

「そうみたいです」


 あわいの妖食街では食にうるさいあやかしがよく衝突している。その解決としてよく行われているのが飲み比べや食べ比べだった。これの面倒なことはほぼ関係のない通りすがりを巻き込む点だ。


「だが、裏警察の制服を着た矢島を巻き込むか普通? というか、単独で行ったんだろう。最終手段の異能はどうした、異能は」


 単独での行動を許可されている理由は、彼が“周囲のものを無差別に眠らせる”力を持っているからだった。無差別なので術を使うときには味方も巻き込まれてしまう。そのため、彼には専ら一人での行動が許可されているのだ。もちろん、許可した理由はその能力だけではなく、彼自身が慎重で常識的であるからというものもある。


「それはこっちも不思議に思っていたんですけど、ご覧の通りなので……避けられない何かがあったのでは?」


 何も聞いていない東野は困り切った顔でそう聞き返すしかない。


「だろうな。起きれるようになったらしっかり話を聞こうか。それより、今日は重要な話がある」

「分かりました! 非番の奴も呼び寄せます」

「ああ、頼む。式神だけでも良いから話を聞ける耳を寄越せと言っておけ」


 三笠が普通に頷くと、東野は驚いたような顔を浮かべる。彼にとって非番の奴もという下りは冗談だったのだ。それがどうだ。普通に頼まれてしまった。


「本気なんですね」

「まぁな。ここにいる者には先に説明しておこうか?」

「いえ、室長にとっては二度手間になりますから。それに、他の奴らもすぐに来ると思うので」


 遠慮する気持ちよりも好奇心の方が勝っていたが、二度手間を嫌った東野。彼はそう言うと自分のデスクに戻って猛然と連絡を取り始めるのだった。

 それを横目に三笠も自分のデスクに荷物を置いて座る。例に漏れず仕事が山となって積まれているのを見て溜め息を吐いた。しばらくの間それを減らそうとしてから、彼は顔を上げる。


「さて、東野。連絡はちゃんとついたか?」

「はい! あと三十分もすれば皆辿り着くはずです」

「そうか、それまでは待機……というか仕事だな」

「うへぇ」


 嫌々ながらも仕事をしていると、少し開いた窓の隙間から式神や動物が入ってきた。それらは東野の連絡によって遣わされた耳だ。


「来たか――行くぞ」


 この部屋には声が漏れないように術をかけてある場所があった。裏警察はそういった仕掛けのある場所は多いが、ここは室長三笠の本気の術をかけてあるため安心感は段違いであると言えるだろう。


「矢島は動けそうか?」

「う……はい」


 途中でまだ伏せている矢島に声をかける。ピクリとも動かなかった先程と比べればましな状態にまで回復していたらしい。頭を押さえ呻きつつ立ち上がると幽鬼のような顔と足取りで後をついてくる。


「さて、と」


 三笠は集まったもの達を見回す。この中で人間は彼と東野、矢島に賀茂だけだった。


「賀茂、お前いつの間に戻っていたんだ? 便所っつってたよな。早くねぇ?」

「なーに言っているんですか東野センパイ。今日は珍しく室長が面白レーダーに引っかかったんですよ。急いで駆けつける他はないでしょう!」

「便所までの五十メートルをか」

「何と五秒! 世界記録更新! ですよ。ドヤァ」

「非公式すぎて威張れないぞ、それ」


 というか陸上トラックと施設内では条件が違いすぎる。


「……待てよ。逆にすごいのか、もしかして」

『別にすごかァねェだろ。身体能力を引き上げるのは基本だ。なァ、三笠?』


 月見里と書いてやまなしと読む苗字の男が鉢植えに突き刺した枝という見た目の“耳”を通して発言する。ちなみに鉢植えには下手くそなひらがなで“やまなし”と書いてあったりする。

 しかし、言葉を話せるということは、それはつまり口でもあるのでは、と思わなくもなかったが、耳で通じるのだから耳と言っている。


「そもそもどうでもいいな」


 溜め息を吐きながら三笠は冷めた目を向ける。


「東野センパイ、室長が酷いんです!」

「本人に向けて言えよな……というか本人がいる空間で言うことか?」


 そのとき、何かが気に障ったのか、三笠の手が伸びてきて二人の頭をがしりと押さえた。そのままゆっくりと込められていく力に東野は恐怖しか覚えない。三笠の握力は果たして何キロだっただろうか……。


「東野、賀茂」

「へぇぁい!」

「はい!」

「黙れ」

「「はい!」」


 東野と賀茂の会話はうるさいとのこと。進行に差し障ると言っていたが、もともと進んでさえいなかったような? と首を傾げる東野。それが聞こえたかのように三笠がギロリと睨んできたので彼は首を縮めて視線を逸らした。


「いい加減、始めるぞ」


 ピリッと肌に刺さりそうな気迫をもって三笠は仲間達を見回した。口許を両手で押さえている東野と賀茂を除いた他の耳達は真剣な様子を見せる。


「今日、ここに集まってもらったのは妙な動きがあったからだ。朝刊のこの記事を見てくれ」


 反応したのは矢島と東野、耳の一部だけだった。賀茂と他の耳達は気付いていたようで、ただ頷くのみだ。


「天生目東高校……そこには“出雲の余り者”がいましたね。彼が動いたのは確定ですか?」

「ああ。あいつはこちら側だが、個人の思惑なしに協力しているわけじゃない」


 個人の思惑、という言葉にピクリと反応したのはこの場にいる全員だった。反協会勢力はむしろ個人の思惑しか集まっていないのかもしれない。それを取りまとめようとしている三笠はたぶん一番胃薬と友達になっている。


『やっぱり、先走っちまったかァ』

「おそらくな。そして、成果は……」

「なし、と。まぁ、表に出てしまっていますからね……。確か、出雲路余一の目的は出雲家当主の座でしたか。ですが、彼自身の力はそこまで圧倒的な強さがない」

『なら、力を得ようとしたに違いないわね』


 青っぽい蛇がチロチロと舌を出し入れしながらそう言った。


「そう。それで、問題は……」

『奴が力にしようとしたもんが野に放たれてるってことかァ』

「ああ。ただ、それは急がないと協会に回収されてしまう。それに、協会以外も狙っているだろう」

『三笠、アンタそれで何でほっとした顔してんのよ』

「いいや、そんな緩んだ顔はできないし、していないだろ?」

『「……」』


 単に、遮られずに話せたことに安堵した気持ちが漏れてしまっただけだったりする。


『で、何をすりゃ良いんだ?』

「……コホン、急ぐのは捕獲だな。月見里は察しているんじゃないか?」

『ああ、巳稀と共有してるからなァ。例のタマテバコだろ』

「さすがに知っているか」

『あれはたぶん、方々から狙われるぜェ。何せ、飲み込んでいるのは狂気と妄執だけじゃねェんだ』

『何を持っているのかしら?』

『――妖輿図さァ』

「マジっすか!?」


 妖輿図

 それは、この世が現世と妖界に別れたとき、互いに対応する地をまとめて地図にしたものだった。その地図は妖輿図と呼ばれ、それを守れるだけの有力な家の当主達にそれぞれ分割されて渡った。これがあれば任意の妖界エリアに行けるだけでなく、その地図にある場所の余分な妖力を流用できるのだ。

 そのため、力が落ちている霊能者にとっては喉から手が出るほど欲しい霊力増幅術具となっている。

 そして、この妖輿図は協会幹部の証明にもなる。それが、三笠達が手に入れようとしている理由でもあった。


『ここだけの話だがなァ、出雲のじいさんは近い内に当主争いが起こることを察していたみたいなんだよなァ。で、変な奴に渡らないように雲居商事を通して隠し場所を求めたわけだ』

「そういえば、あそこから裏警察に依頼があったな……それがタマテバコとかいうものだったのか」

『ああ。常世商会が仲介した。由来は知らねぇけど、宝石箱らしいぜ。だが、あれもつくも神だったわけでェ……扱いをミスった雲居は奴の暴走を許しちまったのさァ』


 ケケケケケと植木鉢に適当に刺した枝が愉快でたまらないといったような笑い声を漏らす。性格が悪いことだ、と顔をしかめる者もいたが窘めない以上、同じことである。


「まぁ、そういう事情があって放っておくわけにはいかない。我々の今一番の目標は協会その他の組織に先んじてタマテバコを確保することだ。それと、一応、確認しておく」


 そこで言葉を切ると、三笠は周囲にいる仲間達を見回した。誰も生半な覚悟でこの場所にいるわけではない。だが、今一度それを問う。


「これから、自分達が余計な波風を立てるという自覚はあるな?」

『もちろん、あるわよ』

「殺し、殺される覚悟はあるな?」

『ああ、あるぜェ』

「だが、そう簡単に死んでくれるなよ?」

『『任せとけ』』


 やる気に満ちた、頼もしい応えが返ってくる。そこにあるのは果たして後には引けないという思いか、後には引かないという思いか。


「なら、ここから勢いをつけて行くぞ――協会崩しだ」


 椅子にしがみつくクソジジイとクソババアどもを引きずり落とす。

 三笠は胃薬を握りしめ、強く決意するのだった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る