4 六条美沙という名前


 ***



 取り憑かれた場所について、思い当たることはないかと尋ねられた碓井は表情を無くして固まった。それは、思い当たることがあるということを表しているに他ならない。巴と来留芽は互いに視線を交わして、この件はもう少し調査の手を広げなくてはならないかもしれないという認識を共有した。


「碓井さん。ここでは何ですから場所を変えましょう。身に覚えがあるなら詳しく話してもらえますか」

「はい、もちろんです。今日は時間があるので……」


 巴の言葉で再起動を果たした碓井はまだ少し強ばった顔をしていたが場所を変えることには賛成した。そして、来留芽達は近くのカフェに入る。客は少ないので話を聞かれることはないだろう。店には悪いが人払いをさせてもらったので新たに客がやって来ることもないはずだ。


 頼んだ飲み物が来たところで話を促す。ただ、心の準備をする時間は欲しかったかもしれない。彼も、こちらも。


「――幽霊が取り憑いたとすると、思い当たるのは一つしかありません」


 彼がしてくれた話は想像以上に重い物を含んでおり、しかも来留芽達が聞いて良かったのかと聞きたくなるようなものだった。

 しかし、どのみち、話してもらわねばならないことではあった。


 それは、こんな話だった


 先月、碓井の部下である井谷宗佑という男が自殺未遂を起こした。碓井はそれ以前から彼とは関係があった。


「井谷は入社したばかりで……仕事にもようやく慣れてきたというときでした。俺は気まぐれに彼を誘って飲みに行ったのです。確か、五月の初めですね」


 碓井はその日を思い出そうとするように空中に視線を迷わせた。


「その酒の席で井谷の話を聞いたんです。あいつは大学から付き合っている彼女がいて、互いに社会人になってからは遠距離恋愛することになったそうです。連絡は結構頻繁に取っていたらしいです。今はRISEアプリなんかもありますし」


 RISEはメッセンジャーアプリの一つである。生活向上、情報伝達向上、人間関係向上などの“向上RISE”を看板に掲げている。


「デートとかは行けないけれどこれからもずっと続く関係を結べるようになるんじゃないかと照れくさそうに笑っていました。その時はまだ良かったんだと思います」


 つまり、結婚を意識していたということだ。赤の他人の恋愛話を聞いても大して心が動かないものだが……どうも嫌な予感がする。


「俺と井谷が飲みに行った数日後だったらしいです。彼女さんから妙なRISEメッセージが来たそうです。そしてそれは二人の関係を終わらせようという内容のものに変化していったのだと話していました」


 『ねぇ、もし私がいなくなったとしたら』

 『宗佑は悲しんでくれる?』


 最初に届いたのはこのような言葉だったという。恋人に向けるには些か暗い話題だと言えるのではないだろうか。恋の駆け引き? そうかもしれない。しかしこの時井谷は直感的に何かおかしいと思ったそうだ。だから彼は“悲しいよ!”とか“僕には君が必要だ”というような返信と一緒に彼女を案ずる言葉も書いたという。


「二度目に軽く飲みに行ったとき、井谷は直接話せないことが不安でならないと言っていました。どうしても仕事は忙しく、彼女の元へ行けなくてストレスも溜め込んでいましたね。勤務地も離れていたそうですし。……そして、それから少し経った時です。彼女から謝罪の言葉が何度も届くようになったと言っていました。慌てて会いにいったようですが、アパートはもぬけの殻で……彼女の両親でさえも居場所が分からなくなってしまっていたそうです」


 何かの事件に巻き込まれたのだろうか。それとも、何か嫌な出来事があって逃げたのかもしれない。


「彼女の行方は割と早くに分かったそうです。――最悪の形で」


 最悪の形と言った碓井は一度来留芽達に視線を合わせた。そして、苦し気に顔を歪めると片手で目を覆い、うつむいた。


「自殺していたんですよ。恐らく、崖からの投身自殺でしょう。井谷は変わり果てた彼女の体を見たようです。そして、あいつもストレスが高じて自殺未遂を起こしました。それが、先月の初め頃のことでした」


 井谷はその時に自殺スポットへと足を運んでいたのだという。彼の異変を察知し、自殺を食い止めたのは碓井だった。


 来留芽は時系列を頭の中で整理する。おそらく碓井の所に幽霊が現れた時点で四十九日は経っている。悪霊化するのに十分な時間が経ってしまっていたのだ。


「俺が、幽霊に取り憑かれたとすると、井谷関係しかあり得ません。ええ……本当に……」


 ――どうして思い当たらなかったんだろう

 碓井は悔いるような、苦しげな声を漏らした。だが、無理もないと来留芽は思う。普通の人が突然怪異に遭遇して平静でいられるはずがないのだ。たいていは驚き、怖れ、逃避する。考えないようにしてしまうのだ。


「碓井さん。ひょっとしたら井谷さんは幽霊となった女性と会う必要が出てくるかもしれません」

「井谷が、ですか。正直に言うとあまり刺激したくないのですが……いえ、聞いた方が良さそうですね。ちょうど良いタイミングです」


 伏せていた顔を上げて碓井は複雑な表情を浮かべた。タイミングの良さを喜び、怪異の主が何となく分かった事による安堵が浮かぶ一方で、部下に負担をかけてしまう可能性を恐れる気持ちも浮かんでいた。


「碓井さん。一つだけ教えてもらいたいことがあります。――井谷さんの彼女の名前は分かりますか?」

「ああ、知っています。井谷の彼女は……確か、六条ろくじょう美沙みさという名前でした」



 ***



 夜。碓井家に細が到着したのは草木も眠る丑三つ時……ではなく、それよりもだいぶ早い午後八時のことだった。玄関灯の下に立ち、一応インターホンを押した。一応と言ったのは、細は式神を使って玄関を開けることが出来るからである。しかし、余程切羽詰まっていない限りそれはやらないことにしている。自粛しないと犯罪を行いたい放題になってしまうからだ。教師たる者、そこはきっちりと己を律しなくてはならない。


「はい、碓井家ですが、どなたですか~? あれ、細か。勝手に入らなかったんだ」


 扉を開けた樹がわざとらしいまでに驚いたような顔をして見せた。分かっているだろうに、この男は大げさな態度を取る。細はこのことに対してはいくらでも出来るぞ、と思いながら溜息を吐いてやった。


「人様の家で出来る勝手など無いだろうが。それで、今はどんな感じだ?」

「う~ん……何て言えば良いのかな。和気藹々わきあいあい?」


 そう言いながら樹は訳が分からないという顔をした。これは素の表情だと細には分かった。何かおかしなことになっていそうだと不安を感じながらも、樹曰く和気藹々としているという仏間へと向かっていく。家の中ではその部屋だけが明るくしているようだった。

 しかし、仏間である。楽しい気分にはなりようがないはずだった。

 幽霊の目撃があった場所なのに騒いでいては出るものも出てこないのではないだろうか。

 そんな不安は見事に粉砕された。


『おっ、お前さんが最後の客人か。アイの坊よ』

「うん、そうだよ~」


 一つのテーブルを囲んで三つの人影があったのだ。細と樹の二人を除いて三つだ。薫以外の二人のうち一人はおじいさん、もう一人は女性の幽霊だった。


「お邪魔しています。私は……「ストップ~」……むご」


 気にせずに挨拶して名乗ろうとしたら細は樹に口をふさがれた。一体どういうことだと樹に向けて顔を険しくしてみせる。


「今説明するから。あのね~、忠告があってね、幽霊が現れたときは本名を言うのは避けるようにだって」


 樹が顔を近づけてそう囁いてきた。今回はやけに慎重な行動をする、と疑問に思ったが、理解したことを示すように頷いて見せた。


「言霊の関係か? 一応対策はしてあったけれど……」

「それでも、万が一のことがないとは限らないからって」

「それなら、俺も本名は言わないでおくことにしようか。呼称はどうしたら良いんだ?」


 呼び名がないと困ることがあるのではないだろうか。そんな当たり前の思考から細は尋ねたのだが、それを聞いた樹と薫は獲物が罠に掛かったことを喜ぶようにニヤァと笑った。

 それを正面から見てしまい、細は思った。

 ――少し早まったかもしれない。

 とりあえず座りなさい、とおじいさんに促されて細と樹は空いているところに座る。


「呼称はね~、アルファベットを使うことになりました~。僕はI」

「俺はK」

「なるほど。それなら……俺はSか。すみません、お待たせしました。私のことはエスと呼んでください」


 アルファベットだから分かりやすい。だが、少し妙な気持ちになるのも確かであった。樹が「どエスのSだね~」などと言ったからだろうか。


『それじゃあ、ワシ等の自己紹介でもしようか。ワシは碓井うすいかけるという。ワシのメッセージがきちんと届いていたようで何よりだ』

『……ワタシ、ハ、ロクジョウ、ミサ、デ……ス』


 女性の言葉は聞き取りにくかったが、この状態では仕方が無いと思えた。女性は今悪霊化している人と同じようにその形が崩れているのだ。普通に受け答え出来ているということに驚かされる。彼女のことは一旦置いておくことにする。急に襲いかかってくる様子もなさそうだからだ。それよりも、聞き流してはいけない言葉をおじいさんが言っていなかっただろうか。


「メッセージ、ですか?」


 細は首を傾げた。樹や薫も同様にきょとんとしている。つまり、こちらの三人とも事情がよく理解できていないということだ。メッセージとやらはひょっとしたら怪我をして入院をしているというおばあさんの方で分かるのかもしれない。


『ん? 聞いていないのか? ちゃんとあいつに言ったんだがなぁ……やっぱり夢だと思われたのか……』

「すみません、私達はおばあさんの方には回っていないんです。少し、情報をもらってきます」

『いや、その必要はない。ワシはただ……霊能者がやって来ることを期待してあいつに頼んだだけだからな』

「いえ、一応確認はしてきます」


 自分のスマートフォンを持って細は廊下へ出て念のため結界を張った。これは体に沿うように展開するもので、干渉してきた相手を誤魔化すという機能も付いている。こういった機能を考え、実用化するのは細の趣味である。今つけた機能も半分冗談で作ったものだった。何がいつどんなときに役立つかは分からないものだ。

 ふと、細は幽霊を交えて座っている仏間を振り向く。テーブルの上にはコップが四つに缶ビールが一つある。恐らくおじいさんの幽霊が要求したのだろう。幽霊の味覚はどのようなものだっただろうかという疑問が脳裏をよぎったが、ちょうど電話の向こうに反応があったので深く考える前に消えてしまった。


「……ああ、来留芽か? こんな時間に悪いな。今日は碓井さんのところへ聞きに行っただろう? それについて少し聞きたいことがあって……」

 《細兄、こちらも連絡は取ろうと思っていたところ。でも樹兄も薫兄も出てくれなくて》

「え? それはおかしいな……あとで問い詰めておく。それで、聞きたいのは……」


 病院でのことを来留芽は細かく話してくれた。あちらの方も意外と多くの情報を得ているようだ。それらの情報を得たことで、細は碓井家という空間における、どこかぼたんを掛け違えているような違和感を強くした。特におたきさんとおじいさんのやりとりだ。


 《六条美沙さんがいるなら話は早いかもしれない。少し前に碓井さんから連絡があって……明日、明日の夜まで持たせて。それと、樹兄に伝言。おばあさんに対して夢渡りが必要になるかも。そっちの様子がおかしいのなら万が一の可能性があるから》


 来留芽の話を聞いて細は碓井家の空間自体がおかしくなっているという結論を出した。それは電話の向こうにいる少女も同様のようで、若干声に焦りが表れていた。


「ああ、分かった」

 《細兄だけが頼りだから。頑張って》


 来留芽の応援の声を耳に残しておく。これだけで頑張れる気がする。気がする、のだが……。


「やっぱり重圧だ」


 そう言いながらふらりと壁に背を預けると天を仰ぎ、腕を目の上に乗せて少しの間だけ現実逃避する。

 溜息は暗闇に溶けていった。


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