第5話 意識と鼓動

 アイーダ渓谷への旅路は至って順調なものだった。

 機嫌の悪かったグラースさんときっちり話し合い、その原因がサージュさんへの嫉妬から来るものだったと知った数日後、私達は遂に目的地へと到着した。


「上から岩が落ちて来る危険がありますので、皆さん頭上には充分注意を払って下さいね」


 グラースさんの先導で、私達は緑と水が豊かな谷底を歩いているところだった。

 渓谷はかなり大きく開けていて、谷底だというのに広々と感じる豊かな日の光が照らしている。

 山から流れて来る川の水が周辺の植物の成長を促し、更に光合成に充分な明るさを確保出来るこの土地は、水生植物の楽園と言えるだろう。


「ミスター・サージュ。目的の薬草はどの辺りに生えているか、見当はついているのですか?」

「オンブルの目撃情報からするに、こういった日光と水が豊かな川底にあるとみて間違い無い。適当な所に馬車と荷物を置いたら、早速探索に出たいんだが」

「ええ、構いません」


 この前までのサージュさんへの冷たい態度が嘘のように、いつも通りの真面目なグラースさんがそこに居た。

 すると一瞬、グラースさんと目が合った。彼に大胆な告白をされてからというもの、どうにもそわそわして落ち着かない。

 初めて彼を見た時から綺麗な人だなとは思っていたけれど、そんな男性から想いを寄せられていると告げられて冷静でいられる程、私は恋愛経験豊富ではなかった。

 まともにお付き合いしたのなんてオルコが初めてだったし、そのまま婚約して刺されてここまで来たんだもの。

 こうして言葉にすると、とんでもなく少なくて奇妙な恋愛遍歴だ。

 目が合ったグラースさんはふわりと微笑んで、隣を行くサージュさんとの会話に戻っていった。


「川底にあるという事は、水中に潜って採取せねばならないのですね?」

「ああ、せっかくこんな所まで脚を運んだんだ。本命ではないが、どうせなら採取しておきたいからな」


 私は二人の後ろから一つ疑問を投げ掛ける。


「それでは、例のポーションの効果を高める花の種はどこにあるんでしょうか?」

「この川の上の方……滝壺近くだそうだ。どちらの採取も僕が済ませるから、あんた達は魔物が寄って来たら対処を頼む。フラムはグラースにでも護ってもらうと良い」


 私達はサージュさんの言葉通り、川の上流へと歩みを進めていた。

 この川の中流に水生植物が生えており、最初にそれを採取してから滝壺へと向かうらしい。

 自然が豊かな場所だから、動物や魔物が水を飲みに来る事もあるのだろう。その時は皆の邪魔にならないように隠れていないとね。いざとなればフランマも居るんだもの。

 しばらく歩いていると、足元の小石が苔むしている一帯が見えて来た。

 川の中を転がって削れた丸石が、川の側の湿った環境によって鮮やかな緑色の苔を纏ったのだろう。この辺りは少し日陰が多いせいなのかもしれない。

 すると、その時私の足元がぬめりと滑った。


「きゃっ⁉︎」


 体勢を崩してそのまま川に飛び込んでしまいそうになったすんでのところで、私の悲鳴に気付いたグラースさんが私を支えてくれた。


「危ないところでした……。お怪我はありませんか、フラム?」

「い、いえ、大丈夫ですっ!」

「それなら良かった。私の気が至らなかったばかりに、貴女を危険に晒してしまいましたね……。ここから先はどうか私の腕に掴まっていて下さい」

「あ、ありがとうございます……」


 咄嗟に私の腰に手を回し、抱き締めるようにして助けてくれたグラースさん。

 あの整った綺麗な顔立ちが、ちょっと視線を上げた先で心配そうな目をして私を見つめていた。

 否が応でも高鳴る胸に内心苦笑しながら、彼の言葉に甘えてそっとその腕に手を伸ばす。

 言われてみれば、こういった苔って滑りやすいのよね。

 足元への注意を促すのを忘れていたグラースさんのせいなんかではなく、これは私の失態だ。私がもっと環境をよく観察して判断していれば、彼に面倒を掛ける事も無かったんだから。


 川の中流は下流よりも底が深いようで、これからここに潜るというサージュさんは念入りに身体を動かしていた。

 潜るのだから、当然彼はいつも身に纏っている黒のローブを脱いでいる。上半身は外気に曝け出されていた。

 彼の治療の際にもその身体は見ていたけれど、こうして危険が迫った状況では無い時に見るそれは、私には少し眩しかった。

 騎士団の皆よりも細めだけれど、しっかりと薄く筋肉を纏った背中を見て思う。

 あの時、ブラッドベアに裂かれた傷は綺麗に完治している。そして、以前から残っていたという古傷も。

 それら全てを纏めて治してしまったから、今のサージュさんの身体はとても滑らかな肌で健康的だった。

 こうして自分が治療した患者さんが元気に過ごしているのを見ると、彼を助けられて良かったなぁと心底感じるのだ。

 そんな事を考えながら彼を眺めていたせいか、準備運動をしていたサージュさんがこちらを振り返った。


「何だか妙に視線を感じると思ったらあんたか……。男の裸は、あんたにとっては別に珍しくもないだろう?」

「えっ、あ、まあ……治療で何度か見る機会はありますが……」


 返答が不審者すぎたかもしれない。どうしよう。

 けれどサージュさんは特に気にした様子も無く、今度は脚を前後に開いて伸びの運動を始める。


「ああ、そうだ。そこに籠があるだろう?」


 言いながら、彼は近くに置かれた籠を指差した。


「これですか?」

「僕が潜って取ってきた薬草をそこに入れるから、あんたはその都度薬草に状態維持の魔法を掛けていってもらえないか? なるべく量を確保したいのと、この後も別の薬草の採取があるから手早く済ませたいんだ」

「分かりました」


 そして準備を整えたサージュさんは、颯爽と川に飛び込んでいった。

 普段から夏には川で水浴びをするという彼は、泳ぎが得意なんだそうだ。完全なインドア系かと思っていたから、そのギャップに驚いた。

 彼が川面から顔を出したのを見て、私はまた転ばないように気を付けながら川岸に近付く。


「頼んだ」


 私に水を掛けないように薬草の水を振り払い、彼は一掴みの薬草を籠に入れた。

 細い茎からぴょろっと伸びる葉があちこちから生え、先端にはシロツメクサのような丸い花が咲いている。

 私は彼に頼まれた通り、すぐにその薬草に状態維持の魔法を掛けていく。こうする事で薬草の劣化を防げるからだ。

 その作業を何度か繰り返したところで、サージュさんは川から上がった。

 籠いっぱいに盛られた薬草は、待機していた騎士さんが馬車まで運んでいってくれるそうだ。

 なので私達はそのまま滝壺の方へ向かおうとしたのだけれど……。


「濡れたままでは風邪を引いてしまいます。サージュさん、ちょっとだけそこから動かないで下さい」


 髪もズボンもびっしょり濡れたサージュさん。

 いくら暖かい季節だからといって、こんな状態で放置していたら身体の熱を奪われてしまうだろう。

 私は炎を出す一歩手前の、高温を発生させる魔法を使った。こうすれば万が一にも炎が身体や服に触れる心配も無く、彼を乾かす事が出来るのだ。


「……どうでしょう。乾きましたか?」

「丁度良い具合だ。治癒術師というだけあって、魔力のコントロールが格段に上手いな」

「炎の魔法にはこういった使い方もあるのですね。私にも炎の適性があれば、是非真似してみたいものなのですが……」

「ああ、あんたは氷属性の使い手だからな。僕も地と水に特化しているから、こんな便利な手段を気軽に使えないのが悔やまれる。助かった」

「いえいえ。これぐらいしかお役に立てそうになかったものですから」


 サージュさんはグラースさんに預けておいたローブを受け取ると、それを着ながら上流へと歩き出す。

 私達も彼の後に続いて進んで行き、とうとう最後の目的地である滝壺へとやって来た。

 幅の広い大きな滝は絶えず膨大な水を注ぎ続け、その壮大な光景を彩るように、可愛らしいピンク色の花が崖の上に咲き乱れているのが窺えた。


「あそこに見えるのが例のお花ですか?」

「ああ。あれだけ満開なら、もう種が出来たものもあるだろう。だが、崖の上にあるとはな……。まあ、登る手段はある。また僕が行って摘んでくるから、それが済んだら川で魚でも──」


 その瞬間、滝の裏側から巨大な何かが飛び出して来た。

 水飛沫を上げながら姿を現したその巨影は、サージュさんの行く手を阻むように立ち塞がる。

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