十四 嗣子認定

 吉田神社での住み込み修行は、厳しくもあったが、宇治丸と広にとって充実した時だった。なにせ、今まで学んできた吉田神道の総本家である。三十七歳になった神祇管領長上・吉田兼右も、若き日の山口下向では在富に世話になった恩義と、宇治丸にとっては義理の母方叔父にあたるという縁故もあって、熱心に二人に吉田神道の伝授を施した。そして、時に父・在富も訪れ、陰陽道の指南をつけた。

 また、年頃に育つにつれて、二人は異性として意識しあい、恋い慕う仲となっていった。


 しかし、嗣子しし、すなわち跡取り息子としての認定はなかなか得られなかった。木根子はあくまでも素性の明らかな京生まれ京育ちの公家の子を求め、親戚、姻戚、知古を巡り巡って養子の宛を必死に探した。が、裕福な上・中級公卿は格下で専門職の勘解由小路家に大事な子を遣ることをよしとせず、下級公家や地下家じげけは養子に遣るような子をたくさん育てる余裕などなかった。賀茂氏嫡流は在種とその父在康が没して勘解由小路家だけとなっており、遠縁で奈良を拠点とする賀茂氏分流・幸徳井家もまた、貧困のため余分な子などいなかった。天文法華の乱を生き残ったもう一人の娘・日枝子が継室として嫁いだ先・安倍氏土御門家に至っては、ライバル関係である上に、都の乱を逃れて所領の若狭国(福井県西部)の山あいの片田舎・名田庄なたしょうに長らく引きこもっており、京の朝廷に出仕することもなかった。

 二人が吉田神社に預け入れられてから一年半ほどが経った天文二十二年(一五五三)九月、在富の正室・木根子は独断で山科言継に、その三男で数え七歳になる鶴松丸を養子に取ることを要請した。この子の母は在富の末娘・阿多子であり、在富にとって外孫、宇治丸にとっては甥にあたる。言継邸に世話になっていた時には、二人によくなついていた子だ。

 さすがの言継にとっても、この要請は無茶振りであった。

「鶴松丸はまだ幼すぎて、跡取りには到底無茶な話、足手まといにさせてしまうだけでござりましょう……それに、実のお子・宇治丸殿もおいでにござります」

 言継は鄭重に断りを入れた。我が子鶴松丸の身もさることながら、宇治丸の身の上をおもんぱかってはもっともなことであった。

 なお、この子は後に、たちばな氏末裔唯一の堂上公家であったすすき家の養子として跡を嗣ぎ、薄諸光(一五四七~一五八五)となったが、豊臣秀吉の怒りを買って自害させられた。

 ここに至って、木根子もついに根負けして、宇治丸を嗣子として勘解由小路家に迎え入れることを認めた。宇治丸も広も、持ち前の利発さを遺憾なく発揮して、砂が水を吸うようにもりもりと勉学・修行に励み、立派な陰陽師と巫女に育っていた。専門的家学を持つ下級公家にとっては、家の体面よりも実力が重視される。もはやこの二人をおいて他に跡取りはいない、体面に拘り続けては家の存亡にかかわる――と認めざるを得なかった。


 年が明けた天文二十三年(一五五四)正月、宇治丸は数え十六歳にして正式に勘解由小路家の嗣子と認められ、元服の儀を執り行った。烏帽子親は山科言継。そしていみな在昌あきまさと名付けられた。賀茂在昌朝臣かものあきまさあそん勘解由小路在昌かでのこうじあきまさの公的誕生である。

 そしてふた月の後、弥生の晴れ空の満開に華やぐ桜の元、在昌と広は祝言を挙げ、夫婦の仲となった。

「広――これからも、末永く、よろしく!」

「ええ、こちらこそ。末永くよろしくお願いします――在昌殿!」


・在富の妻が天文二十二年(一五五三)九月に山科言継の三男を養子にと要請したことは記録にあり。

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