第70話 なぜか、リア神との距離が難しいんだが


 プールというリア充達の楽園から生還した俺は、三日ほど筋肉痛に苦しめられた。


 これは……まぁ仕方のない。


 普段から運動をせずになまけていたからね……。

 この痛みも今までのツケが回ってきたと思えば、諦めがつく。


 それより問題なのが……、今回のプールにより俺の運動不足、そして運動神経のなさが露呈してしまったことである。

 だからあの日以来——



「翔和くん。今日も運動をしましょう。適度な運動は、健康的な生活に不可欠です」



 聞き慣れた抑揚のない平坦な声が俺の耳を通過する。

 運動嫌いにとって、そのまま聞き流したいこの内容……。


 そう、あの日をきっかけに凛のお節介魂に火がついてしまったのだ。


 頭には“熱血鬼コーチ”と書かれた鉢巻を巻き、さらには運動を促す前に体操服姿へと着替えてからという徹底ぶりである。


 まぁ凛は、形から入るタイプなんだろう。


 手には『運動偏差値30から60への躍進』と書かれた本が握られているし……まさに気合十分といった様子だ。


 これにより……。


 ——運動。

 ——勉強。

 ——食事。


 生活の大半をリア神に支援されている状態になってしまった。

 介護状態と言われてしまっても仕方ない状況だろう。


 新しく俺の生活に加わってしまった『運動』という項目。

 凛の鉢巻には“熱血鬼コーチ”と書かれているが……実際はそこまで熱血ってわけでも、『10キロ走れ!』みたいな強要をするわけでもない。

 寧ろ、俺の状態などを考えた上での的確な指導をしてくれている。

 休養も十分に取れるし、水が欲しいなと思ったタイミングで飲み物をくれるし、マッサージもしてくれるし……正直、至れり尽くせりだ。


 何ひとつ文句がない。


 けど——


 俺は凛の呼びかけを無視するように寝たふりをしながら、凛がいるとは反対の方向に寝返りを打った。


 凛の姿が見えるわけではないが、「翔和くん?」と言う声とともに背中に刺すような鋭い視線を感じる。


 背筋がぞぞっとするが、無視を決め込む。

 献身的な提案をする美少女を無視するとはいかがなものかと言われてしまうかもしれない。


 だがこれは、俺の精神衛生上……しょうがないんだ。

 不満があるわけではないが、もう限界……。



「すー……すー……」


「……その寝息は無理がありますよ? 演技していると丸わかりです。呼吸のリズムが一定ではないですし、それに……」



 凛が俺の手首を掴む。

 少しだけひやりとし、細い凛の指から体温が俺へと伝わってくる。

 掴まれた場所から徐々に熱が広がっていくようだ。



「翔和くん? 脈が速くなってますよ? ……いい加減、諦めてください」


「すー……」


「もう……仕方ないですね。けど……翔和くんがそういうことをするなら、私にも考えがありますから」



 寝たふりを続行する往生際が悪い俺……。

 そんな俺を見た凛のため息混じりの声が聞こえる。


 凛の様子を薄目を開けて見ていると、凛は寝転がる俺の目の前に膝を抱える形で座り直した。


 所謂、体操座り……。

 しかも、少し動けばハーフパンツの隙間から何か見えてしまいそうな際どい位置だ……。


 俺は、気まずさのあまりそこから目を逸らす。


 すると、くすっと笑う声が聞こえ……その声が何故か耳元で聞こえた気がした。


 微かに香る男を誘惑するような甘い匂いが、俺の嗅覚を刺激する。

 期待と不安の入り混じった奇妙な感覚のせいで、心臓がバクバクと激しい鼓動を繰り返し、なんだか息苦しい。



「翔和くん……?」



 と耳元で囁くリア神。

 吐息が耳に当たり、身体が少しびくっと震えた。



「………………」


「早く起きないと悪戯しちゃいますよ?」



“ふぅー”と耳に息が吹きかけられ、俺はその場で飛び起きる。

 ただ、慌てて起きたせいでバランスを崩しその場で尻餅をついてしまった。


 しかも壁に頭をぶつけるというオマケ付きである……。



「大丈夫ですか? その……よしよし」


「まぁ、大丈夫……。だから、撫でなくていいから……」



『俺は子供かっ!?』

 とツッコミを入れたくなるこの状況。

 凛は俺の頭をまるで子供をあやすように優しく撫でてくれる。

 撫でなくていいと拒否したのにもかかわらず、どうやら止める気はないらしい。


 流石は、慈愛に満ちた女神様だ。


 まぁ……でも頭をぶつけた要因を作った本人だけど……。



「おい、凛。さっきの行動は卑怯じゃないか……?」


「ふふっ、一体何のことでしょうか? 私には何が卑怯かわかりません。それとも……何か意識することがありましたか?」



 少しからかうような口調で惚け、そして微笑を浮かべた。

 俺は「ったく」と悪態をつき、頭をぽりぽりと掻く。



「……なんでもない。たぶん、俺の気のせいだ」


「気のせいならよかったです」



 凛の『私は何もしていませんよ』と言いたげな澄ました表情に、俺は思わず苦笑する。


 はぁ、いつも凛のペースに乗せられ、そして手のひらで踊らされているような気がするんだよなぁ……。

 いや、気がするんじゃなくて……間違いなくそうか……。


 自分の単純な思考回路にがくっと肩を落とす。



「さて、始めましょうか。昨日と同じように手伝いますので、まずは柔軟体操からしましょう」


「ちょっと待ってくれ」


 凛は、俺の言葉に首を傾げる。



「えーっとだな……。今日の運動は1人でやろうと思うんだが……」


「まだ早いと思いますよ?」


「ここ何日か教えてもらったから……たぶん、大丈夫」


「素人の浅知恵は身体を悪くします」


「俺はもう立派なプロ……」


「有り得ませんので却下です」



 俺の抵抗は儚くも散る。

 本当に一度言い出したら止まらないよね……。

 はぁ、困ったなぁ〜。



「あの、翔和くん……そんなに嫌ですか?」


「……嫌ではない。凛が柔軟体操を手伝うために背中を押してくれるのは有難い…………いや、やっぱり困るような……」


「むぅ……なんだかはっきりしないですね。何かあるなら言わないとわかりませんよ?」


「えっと……だな」



 俺がさっきから尻込みしている理由。

 それは柔軟の時にからだ……。


 だから本当はここで『胸だよ胸!! 胸が当たって気が気じゃないんだよ!』と声を大にして言いたい。

 が……当然、言えるわけない。


 これを口にすれば『意識している』と認めることになってしまう。


 だから俺は——



「あのなぁ……。凛はもう少し、自分の魅力っていうのを理解しとけ。誰にでもそんな距離感でいると、いつかは勘違いを増長させることになるからな」



 とあたかも嫌がっているような素振りを見せて、彼女に苦言を呈することしか出来ない。


 俺と凛の曖昧な距離感。

 今にも壊れてしまいそうな、いびつな薄い壁……それが凛との距離だ。


 手を伸ばせば届く。

 詰めようと思えば詰めれてしまう。


 俺をそうさせないのは、意地と戒め……ただ、それだけだ。


 そんな俺の気持ちなんて知りもしない凛は、俺に微笑む。



「安心して下さい。誰にもはしませんよ。こんなことするのは……。翔和くんだけ……です」



 凛は俺の気持ちを乱す言葉を平然と口にする。


 離しても、すぐに詰められ。

 また離しても、即座に元通り。


 まるでイタチごっこだ。


 俺は、玄関に置いてある1本の傘を見て唇を噛む。

 そして目を閉じ、大きく息をはいた。


 人は、いずれは飽きる。

 それは物と同じだ。

 そう、気持ちなんてそんなモノ……形もなければ何もない。

 存在も確認することは出来ない。



 だからこそ——いつかは消えてゆく。



 これを自分の心に刻むように、頭の中で何度も言い聞かせる。


 けど今は……。いつか飽きられるその時までは……。



「仕方ないな。もう好きにしてくれ……」



 肩を竦め嘆息する。

 凛はそんな俺を優しい眼差しで、ただ見つめていた。


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