第3話 流転の天秤座 part【3】
「うぅ臭い。この牛舎臭うなぁ…」
日の出と共に試練は始まる。古びた木の屋根の隙間から差し込む朝日は思いの外心地よい。自分の防具である鎖帷子を脱ぎ、着心地の良いシャツに着替えた青年は、竹ぼうきで地面の塵を払い始める。身長は170前後。グレイよりも小さい背丈。牛の糞から立ち込める強烈な臭いに鼻を押さえながら掃除しているピジョンは、グレイがこの地へ誘われる数日前からここに居た。
西の国から一人の女性を追いかけ、追いついたのは良いが、行くアテも無く困っていると、いつの間にか到着したこの館で世話になっている。
「まさか、グレイ君も同じ掃除を試練と言いつけられるとはね。彼は反対側の牛舎に居るみたいだけど…大丈夫かな」
この牛舎は柵を挟んで通路、そのまた内柵を挟んで牛が飼われている。片側の牛舎に20頭近く飼育するここは、館よりも牧場と呼ぶべきだろう。そんな事を考えながら、ピジョンがちりとりに塵を集めていると、柵の外から足音が聞こえてくる。ピジョンが振り向くと、そこには真紅の髪に真紅の瞳、血で染めたような紅い唇が目立つ、覇王と呼ばれた獣国王女が心底つまらなそうに眺めていた。
「やぁラン…じゃなくてヘリオス様」
ヘリオスの頭に付いている猫耳が後ろに捩れる。どう見ても、彼女は機嫌が悪くなった。
「その呼び方、何だかモヤモヤするからやめなさいって言ったでしょう」
かつて、ヘリオスはプレイヤーとして、このゲームに挑戦している。結果はここに居る時点で察せるが、恐らく死亡。その後、彼女はβテスターとなり、獣国ゴルディオンにNPCとして再配置された。
ピジョンは、ヘリオスの現実を知る数少ない人物の一人で、記憶が無い事に気づいた時、彼女の支えになる事を決心した。
そんな彼も、本心ではヘリオスに記憶を取り戻して欲しいと思っている。
「まだ、記憶は戻らないの?」
「分からないわよ。天秤座の言う事も本当か判断がつかない」
ピジョンがヘリオスと共にライブラの所を訪れた時、彼はピジョンに向かって提案した。
「多くのNPCに記憶を持たせたと言うのに、彼女には持たせないとは…非常に不公平だ。そこで、試練を受けて見る気はないか? 君が全てクリアすれば、ユノの干渉を受けずに記憶を戻す事が出来る」
ライブラは、プレイヤーであるピジョンにそう囁き、ピジョンは二つ返事で了承した。結果が、この牛舎掃除を延々と続ける日々である。クリアの条件は教えてもらえず、毎日牛の糞と汚れた藁と向き合う。ステータスには出てないが、心の摩耗は進んでいた。それは、側で見ていたヘリオスにも顔を見るだけで分かるほど顕著だった。
「少し、休んだら? グレイが来たことだし、貴方がそこまでやる必要は…」
「待って! 大丈夫…大丈夫だから。僕は平気だよ」
「そうは見えない。宮使いにも同じ事を言って倒れていく子が多かった。貴方も彼等と同じ事を言うのね」
ヘリオスの王宮談を聞いているピジョンの顔は益々、深刻さを増していく。嫉妬とはまた違う、聞いていて辛く苦しそうな表情。
「宮使いか…本当にお姫様になっちゃったんだね。未だに信じられないよ」
「私には逆に貴方と幼馴染だったという過去の方が信じられない。どうして、貴方みたいな平和ボケして虫の一匹も殺せない優男なんかと…」
ヘリオスは途中から自分が何を言っているのか理解出来なくなり、両手で口を塞ぐ。記憶は無い。なのに、口からは勝手に彼を知ったような言葉がペラペラと出てくる。今のヘリオスにとって気味の悪い現象だった。
しかし、ピジョンにとって、時たまに出て来るその言葉が希望であり、唯一の救いだった。まだ、ヘリオスに自分の知っている彼女が残っている事の証明。やはり、ユノはデータを消してなどいない。確実に残している。記憶が恐らく封じられたヘリオスは言葉という形で外に伝えている。そう信じたい、信じなければ彼女の死を認めたことになる気がして絶対に出来なかった。
「やっぱり、君は四ツ
「カンランなんて名前知らないわよ…聞き覚えも無いし…」
そっぽを向くヘリオスだが、胸の内で高鳴る鼓動に彼女自身驚いていた。何故か、ピジョンと向かい合うと気分が変になる。声を聞くと、暑く感じる。笑顔を見ると、ぼうっとしてしまう。知らない人間で、付き合いも自分の記憶の中では短い方なのに、この気持ちは一体どこから湧き上がるものなのか。頭を抱えながら、ぐるぐるとその場で回っていると、心配そうに見つめるピジョンの姿が目に入る。恥ずかしさに身が焼かれそうな彼女は一旦落ち着きを取り戻し、冷静な覇王として威厳を保とうとする。
「ふん、さっさと試練を終わらせなさい。私が酔狂で貴方に付き合っている事を
「うん! それじゃあ頑張るよ!」
張り切って掃除を再開したピジョン。その場から立ち去る途中、ヘリオスは最初オーバーワーク気味な彼を止めに来た事を思い出す。しかし、一度発破をかけた以上、発言を取り消すのは自分の矜持が許せなかった。
「カンラン…βテスト…そしてピジョンを見ると浮かぶハトという名前。全く、私に一体何をしたのかしら、ユノとやらは」
ヘリオスが牧場の真ん中で青空を見上げて呟いていると、背後に妙な気配を感じ取る。警戒を強めてから振り返ると、そこには自身と同じく赤を基調とした人物が立っていた。ただし、ネームプレートが赤く染まったその男は、ピジョンから危険だと釘を刺されていた人物。
「貴方は…レッドラムだったかしら? 赤いネームは殺人者の証とピジョンに聞いていたけど、本当なの?」
レッドラムは背中に背負った楽器ケースを地面に置き、両腕と背筋を伸ばしながら答える。
「ん〜だとしたら? 君は私を殺すのかい?」
「返答次第で決める」
「——私は弱き者の為に人を殺した。こう言ったら君は信じるかい?」
「…貴方、面倒臭いって言われない?」
「産まれてこの方言われた事のない新鮮な言葉だ。貴重なご意見、感謝する」
ふざけた答え方をするレッドラムに呆れたヘリオスは溜め息を吐いた。
「おいおい。君の話を聞いたのだから、私の話も聞いておくれよ」
「何かしら…王女として聞ける範囲の物にしさないよ」
ヘリオスは両手を腰に当てて嫌そうに耳を傾ける。
「なぁに簡単さ。君の連れを消し去るのにちょいと協力してくれ」
笑顔でそう言ったレッドラムに対し、ヘリオスは無表情のままピジョン製の銃を取り出すと、銃口を赤い男に向けて躊躇いなく引き金を引いた。
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