[日記]だったら、すみません

 最近、あらゆるコンテンツにおいて、こんな謝辞のようなフレーズを見かけないだろうか?


 違っていたら、すみません。


 意味は分かる。それまで、あるいはこれから展開される文章の内容が、事実と異なっていたら、申し訳ございません、ということだ。似たものとして、違ってたらごめん、とか、同じようなフレーズだ。

 気になるのが、どうしてここまで目にするようになったか、だ。


 考えられることは、情報の氾濫による、正確とされる情報が、本当に正しいものか疑うようになったこと。そして誤りであったときの転ばぬ先の杖なのだろうと思われる。


 まずは一つ目、正しいものか疑うことである。

 インターネットの発達により、正確な情報というものは価値を高めた。なぜなら参入者の数に比例して、虚偽の情報を流すことが容易になり、粗悪品よりも正しい情報が価値を得ることになるためである。

 つまり、こんな情報がありました、とピックアップして伝えたはいいものの、これは正確なものであるかは不明である、ということも、遠回しに伝えているのではないだろうか?

 もしこれが間違っていて広まってしまったら、という不安を、発信者があるとき自覚し、無意識のうちにフレーズとして織り込んでしまうのではないだろうか?


 一方で、大惨事にならぬ先の杖について。

 仮にこういうフレーズを使わずに情報を発信したとしよう。その情報は、あたかも真実であるかのようにネットワークを漂い、誰かが目にすることになる。

 それを取り上げて、こういう人がいる、あるいは自分もそうだ、現場もそうだ、と連鎖的に同じ情報が伝播し、人々のなかに残ってしまうことになるだろう。

 それこそ、特定の思想に固執しやすい、とかそういうやつだ。あるいは、思想が違うからと噛みつくとか。

 しかし情報というのは、個人というフィルターを通して出力されるものである。意見や思い込みが必ずと言っていいほど、含まれているものだ。つまり、発信者が情報の中からひっかかった部分を切り抜き、そこを拡大解釈したり、意見を飛躍した解釈を行ってしまう。

 すると情報は、情報ではなく個人の主張へと変貌してしまう。だからこそソースは一次のものを参照するのが望ましい、というわけだ。

 話を戻して、このフレーズについて。

 あくまで私がこうして情報を発信するが、これは私の認識したものであって、情報には誤りがあるかもしれないから、ご了承ください。

 そう伝えたいがために付け加えているのではないだろうか?

 誰でも発信できる以上、臆することは別に問題ではない。だが、この保険をかけた情報を、あたかも誤りのないものとして取り上げるのは、情報の傍受者としては、不適切なのではないだろうか?


 と、難しい話はこれくらいにしておこう。

 もうすぐGWですねぇ。何かご予定はありますか?

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