[創作論]流木に見いだす

 イメージする。

 その一言を見て、あなたが思うのは何だろうか?

 私は、ふわふわとしたシャボン玉のようなものだ。何もないところからぷくりと膨らみ、ある日突然、弾けてしまうようなもの。

 はたまた、粘土かもしれない。ここになにがあって、ここはこう見えて、ここが隠れて、ここを盛って、といった。

 結局のところは、いずれも頭の中に出てきた思考であって、どういった出力をよくしてきたかで、具体像が変化しているだけなのだが。


 ではぼんやりと出てきたイメージ。これを作品として出力するとき、どんな感じ寄せ集めるだろうか?

 私はそこらに転がっているシャボン玉を拾い上げて籠に。必要そうなものが揃ったら、それらを粘土で真似て加工するような感覚がある。

 人によっては拾っては投げる。同じものを拾っては投げる。ワンパターンではあるものの、それはそれで味のあるものを出力する、なんてこともあるだろう。


 しかしどんなイメージも、自身で加工しなければならない。ふと思い付いたネタも、それだけを表しても意味はない。せめて、意味を込めなければ作品とは認められない。

 ところがイメージを取り込み、取り込み続けた結果、抱えきれないほどの塊になってしまうことも少なくはない。だからあえて捨てるイメージも出てくるだろうし、当初とは全くことなるイメージにねじ曲げてしまうことだってある。


 そこで問題になるのが、全体像だ。

 色々と加工を繰り返した結果、集め始めた当初とは違うものが出来上がっている。よくあることだ。現実的に難しいとか、やむを得ない事情も含めて、歪んでしまう。そうなると、想像の飛沫が弾けてしまうことだってありうる。

 これを防ぐ方法はない。できても、八割。全体の綿密な設計図を仕上げたとしても、それ通りに作れないことの方が圧倒的に多いためだ。

 繋げては切って、塗っては消して、進んでは戻って。

 最終的には、作りたいものを作り続けるしか、100%に近づく方法はない。流木から形を見いだすにしても、粘土をひっつけるにしても、だ。

 さて、私の満足するものはいつできるのだろうか?

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