[創作論]我は眺めて、進めるもの

 彼は目覚め、立ち上がる。

 彼女は怒り、わめき叫び。

 主は溌剌と闊歩する。

 敵は陰鬱にしかける。

 宿敵は舞い出ては退場する。

 実力は堅実にはらいのける。


 登場人物。それは自分であってはならないと私は考えている。自分の考えたキャラクターだとしても、彼らには個性キャラクターをもって、歩んで欲しいと思うからである。

 もちろん、こういう場面の時はどうするだろう、と憑依する・されることはある。しかしあくまでそれは彼らのとれる選択肢を見つめるため。名声が欲しいのか、金が欲しいのか、はたまた、生き残りたいのか。

 あくまでも彼らに選択は委ねたい。

 都合のよいイベントが嫌いなわけではない。そこに作者の存在が見え隠れすることが嫌なのだ。

 例えば、わたしたちが普段生活しているなかで、神様の存在が見え隠れすることがあるだろうか? ことあるごとに全てを産み出した神様を信じていなければ、「それはそういうものである」と一蹴してしまうことだろう。


 なぜ偶然にも生き残ったのか。

 なぜ合格できたのか。

 なぜ挫けないのか。

 なぜ強すぎるのか。


 物語のなかに登場する作者かみさまが可愛い我が子に連き添っているのは、読んでいても書いていても居心地が悪い。

 せめてでも、作者かみさまではない存在が都合を用意してくれと思う。


 たまたま通りがかった貴族が傭兵に指示して助けた。

 たまたま選択式の問題が合っていた。

 たまたま死守したい者がいる。

 たまたま勉強していたことが敵の弱点だった。


 もちろん偶然が重なりすぎて作者かみさまが浮かび出てくることもある。それはどう隠すかの技量にはちがいない。

 物語によく言われているご都合主義とは、上記のようなことなのではないかと、ふと考えた。もっとも、書いている当人は気づかないことも多々あることなのだろう。


◆◆◆◆


 あと、あれですね。物語には教訓がないといけないとかも。私らが一生を終えるとき、教訓を作らないといけないんですかね?


 もちろん、私のこの思想もひとつの押し付けです。あくまで物語を築いているのは彼らであると。

 物語は面白おかしければそれでいい、という人も多いのではないでしょうか。シンプルにそれで済ませればいいんですが、じゃあ面白いって何? となるんです。

 そうなると、私は彼らが彼らの道を描いたもの、と答えることになります。結局は好みの問題です。

 なろう系がどうこう言うこともありますが、それはそういう思想の下作られた物語だと考えれば、攻撃なんてするもんではないと思い至ります。

 でも、やっぱり読まれたいし反応は欲しいよなぁ。

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