[創作論]憑依、してますか?
わたしは誰にでもなろう。
看板の掲げられた門戸を叩き、入り口から奥へ奥へと進んでいこう。
あなたが夢見て、
世界を救うというなら、わたしもそのやり方を考えよう。復讐するというなら、わたしも共にあざ笑おう。その日暮らしを続けるというなら、わたしもその景色を楽しもう。覇王として全てを統べるというなら、わたしも心を奮わせよう。
どうかわたしを、この扉一枚を開けることで、遥か彼方に連れていってくれないか。
あなたになるために、わたしはノブを回すのだ。
わたしはあなたにはなれない。
だからわたしは扉を叩き、席につく。オーディオデバイスを選択して、深く腰かける。
あなたは夢見て、
何をするのか。誰を敵として据えるのか。どこへの向かうのか。誰を仲間として進んでいくのか。
どうかわたしに、扉をあなたの半生を見せてはくれないだろうか。
あなたを観たくて、わたしはノブを回すのだ。
◆◆◆◆
作品を読む上で、感情移入、という言葉はよく出てくる言葉ではありますが、どれだけ習慣づいていますか?
goo国語辞典によれば、
自分の感情や精神を他の人や自然、芸術作品などに投射することで、それらと自分との融合を感じる意識作用。
とのことです。
ではなぜこんな話が出てきたかと申しますと、思い返してみると、私は感情移入しやすいやつだったかな、と思い当たりまして。
ヒーローの真似をする、なんてことはよくありましたが、彼らになりきる、ということはありましたかねぇ。
漫画、小説、RPGしかり、書くときしかり、彼らが「主人公はだから怒ってるんだ」は理解できても、「自分のことのように怒る」ということはなかったんですよね。
「こいつはこんな悪行をしたボスだ! 許せん!」というシチュは分かっても「そいつがどんなむごい死に方をしても当然だ」とは思わないわけです。
つまり、言動は理解できても、それは彼らのものであって、自分のものではない。「目の前の人を救えなくて世界なんて救えるか」なんて台詞も、「信念だねぇ」止まりなのが私なのでしょう。
創作をする上で、視点というのは非常に大事な要素ではありますが、私のものに三人称が多いのは、他者への感情移入の没入度が低いから、なのでしょうか。
もちろん、一人称も書かないわけではありませんが、長くは書けませんね。どこかでなりきれない自分が出てきてしまう。
それを考えると、感情移入しやすい人は一人称の表現も豊かなんでしょうかね。気になるところです。
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