[創作論]感情と論理と
あるAC音ゲーにある楽曲が追加され、好みだったので某動画アプリでその人関係の曲を漁っていました。なるほど、私はこういうのか好みなのかと頷きます。
なんとなく、曲を流しながら画面をスクロールしていくと、関連動画のあとにはコメントがありました。立ち返ってみれば、再生数もかなりの数です。色々なコメントが散見されました。
その中で、この曲がいいと誰かに紹介した人のコメントでしょう。紹介したら電子音を乗せているだけとかなんとか反応されたそうです。この曲を嫌いになった、ということはなかったようですが。
で、思うのですが、好きと嫌いというものは感情論です。しかし、こうだから好き嫌いと論理立てようとするのは、何故なのでしょうか?
例えば、ある曲のサビへの入りかたに痺れる何かを覚えて好きだと判断したAさんは、その曲全てを好きになるのでしょうか?
絵画を眺めて嫌いだ、と感じたBさんは、その原因を突き止められるでしょうか?
言うなれば、感情論に個人感覚の論理を求めるのは適切か、ということですかね。
感情も感覚も一個人に依存するものです。しかしそれらは、他人とは一致するはずがないものであるにも関わらず、個人の中でも一致するわけではないものです。
例えば、イラッとするのは感覚ですが、それをトリガに頭に血が上るかどうかは別のお話です。
今回の話なら、好きだという感情に、ココ! という感覚の論理を飾り付ける、ということですかね。
決して悪いことではないですし、私もしてますし、誰もが体験していることでしょう。
私の場合、分析する必要性を感じないなら好きは好き、嫌いは嫌いで留めています。
例えば曲。好みのものやゲームbgmなど、必然好きなものを流すのですが、ここに感覚の論理はありません。単に感情が昂るから、穏やかになるから。それだけです。
一方で、ゲームを作るとき。どうしたら面白さが増すだろう、と過去に遊んだ要素を思い浮かべます。そして私が面白いと感じた感情の起こった切欠である感覚の論理は何か、を思いだす。
感情に従うべきだとか、感覚の論理がいい、悪いという話ではなく、「こうだから好き」「こうだからダメだ」といった、論理から感情を引き出すのはどうなのか、ということですね。(あくまで感情の話であり、科学的法則にケチをつける発言ではない)
好きになったから、なぜなのか分析する。嫌いだけれど、不快なのはどうしてかを知る。本来、感情から感覚の論理が生まれるはずなんですよね。
冒頭の「電子音を乗せているだけ」というどなたかの発言は「電子音」という個人の感覚の論理が「苦手」を導きだしているように感じました。
好きも嫌いも知り、伸ばすには、分析という工程を必ず挟むものだと考えましたが、いかがでしょうか?
こんな雑記でも、はてなと首をかしげてくれると嬉しいです。
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