第66話 聖剣を求めて⑥ 後悔と告白~間に合わなかった女
*
「で、これはどういうことなんだ?」
オクタヴィアから聖剣の情報を得た僕は、エアリスに空輸され、広大な魔の森を後にした。
次に僕が目指すべきはヒト種族の領域、王都とかつての聖都とを隔てる大山脈、ミュー山脈にある『聖剣の祠』である。
だが、エアリスが僕を下ろした場所はミュー山脈ではなかった。
今目の前には、もうもうと湯気を立てる天然の岩風呂があった。
「オクタヴィア殿が貴様の心労を大層心配していてな、ぜひ立ち寄るようにと出立前にこの場所を教えてくれたのだ」
そこは魔族種領ヒルベルト大陸北部――ヒト種族と魔族種とを隔てる境界線『テルル山地』の山中にある秘境温泉だった。
辺り一帯には卵のような硫黄臭が立ち込め、乳白色の温泉はボコボコと泡を立てている。何か大規模な地殻変動があった場所なのか、辺りはぐるりと岩場に囲まれていて、その岩の一つ一つは長い年月をかけて風雨に削られたのだろう、角が取れて丸くなっていた。
岸壁からはチョロチョロと地下水脈から湧き出た温水が注いでおり、そこに含まれるナトリウムやカルシウムなどによって岩同士が癒着され、天然の湯船を形成してるのだ。
かなりの広さがあり、見晴らしもいい。
この方角のすぐ麓はもうヒト種族の領域――リゾーマタに続いている。
そして遥か彼方に霞がかかってうっすらと見えるのがミュー山脈連峰である。
「気持ちはわかるがな貴様、最近少し気が逸りすぎているのではないか。オクタヴィア殿の前で取り乱し、我を失いかけたことといい、大局を見極めるためにも休息を取ることは必要だぞ」
「う……そのことはもう言うな」
確かに、自分の思い通りにならないからって本気で極大魔法を使うところだった。あの時のことは自分でも短慮だったと反省しているのだ。
でも、仕方がないだろう。
この世界のどこにも聖剣がないと断言されとき、近づきかけたセーレスが一気に遠のいた気がした。
ショックで少し取り乱してしまったのだ。
エアリスはそんな僕の精神状態を心配してくれているのだろう。
「その、な、オクタヴィア殿が、貴様が休息を渋るようならこれを見せよと文を預かっている」
エアリスが差し出したのは手紙だった。
魔族種になったおかげでこちらの言語――ヒト種族も魔族種も獣人種もネイティブに理解できるようになったが、文字を見るのは初めてだった――が、どうやら問題なく読めるようだ。
表書きには魔族種の文字で『三代目龍王へ』と書かれている。
わざわざ封蝋がされたそれを開き、手紙に目を通す。
そうしてから僕はエアリスの方を見た。
彼女はそわそわと自分の腕や肩を触りながら、落ち着かない様子で僕を見ていた。
――はあ、と溜息が零れそうになるのを僕は飲み込んだ。
「わかった。ここで休息を取る」
「そ、そうか」
エアリスはホッとした表情を浮かべた。
そうして僕は、魔法世界の天然温泉に入ることになった。
* * *
私は間に合わなかった女だ、とエアリスは述懐する。
主であるディーオの危急に駆けつけることができず、彼の命を永久に失ってしまった。
そればかりか、あのお方の心がどうしようもないほど摩耗していることに気づきながら、どうすることもできなかった。
今にして思えば、自分の忠誠はきちんとあの方に届いていただろうか。
少なくともナスカ・タケルの方が、ディーオ様の興味を惹き、全てを託すに価すると判断されてしまった。
そのことが悔しくてたまらない。
何故自分ではなくあの男なのかと。
一時はナスカ・タケルを憎んだりもした。
だが今は――よくわからない。
自分の心が、わからないのだ。
――幼き頃、私はどうしようもない絶望の中にいた。
魔族種同士間の戦によって両親を失った私が、つい手を取ってしまった相手は奴隷商の魔人族だった。
僅かな食事と雨露を辛うじて凌げるだけのあばら家を得るために、私は自分の命という重すぎる対価を支払わなければならなかった。どれほど後悔してももう遅かった。
子供であろうが遊郭小屋に入れられ、舐め回すような下卑た視線に晒された。
自分が見ず知らずの客の相手をしなければならないことに心から震え上がった。
そんな時、私は見つけたのだ。
女を値踏みする下衆どもの中に、ただ真っ直ぐ私にだけ視線を送り続ける男の姿を。
男は旅装束姿だった。薄汚れた襤褸を纏い、一見すれば無宿者に見えなくもなかったが、深く被ったフードの奥から金色の瞳が鋭く私を射抜いていた。
その時――何故自分がそのような行動を取ったのかはわからない。
でも気がつけば私は格子に張り付き、男に向かって必死に手を伸ばしていた。
これだ。この男しか居ない、と私の本能が叫んでいた。
自分を助けてくれるからとか、他の男よりもマシだったからとか、そんな即物的な理由では断じてなかった。
私が命を賭して隷属しなければならないほど価値のある男は、この者を於いて他にはいないのだと、私の魂が告げていた。
そして私の望みは叶えれられた。
男が私を買い取りたいと申し出てきてくれたのだ。
奴隷商の男は仮にも商品である私を散々にこき下ろしてきた。
こんなガリガリで痩せっぽちの子供よりも、もっといい女がいる。
貴方様にはきっとそちらのほうが相応しいと。
私では安く買い叩かれかねないと踏んで、必死に値が張る奴隷を勧めていた。
男は奴隷商と話をしながらも、片時も私から目をそらさなかった。
私もまた、その金の虹彩を持つ瞳から目を離すことができなかった。
男はおもむろに懐から拳大の石を奴隷商に投げた。
後から知ったのだが、それは『黄龍石』と呼ばれる希少な原石だった。
装飾品としてはもちろん、魔法具の原料としても珍重されており、極めて市場に流通しない石として有名だった。
奴隷商は顔面を真っ青にして石と男を見比べていた。
男がその石を持っていることの意味を悟ったのだ。
その希少石はとある根源貴族の領地でしか産出されない。
そのため、加工前の原石の持ち主は必然として限られてくる。
私もいつか寝物語として母に聞かされたことがある。
長らく主が不在で、荒れ果てたとある領地の話だ。
いかな無法者であろうとも、決してそこに足を踏み入れることはない。
ましてや彼の城へ盗みに入るなど自殺行為であると。
何故なら彼の者は太古にして深淵。
最強にして根源を現す貴族の称号を持っているのだ。
魔族種龍神族。
一切の係累を持たないはぐれ者にして、生粋の変わり者。
お伽噺にすらなるほど遥かな昔、ふらりと放浪の旅に出かけて久しいと。
そんな生ける伝説の男が今、私の目の前に立っていた。
男は改めて言った。私を買い取りたいと。
そしてこうも付け加えた。
この娘には精霊の加護が宿っている、と。
奴隷商も呆けた顔をしていたと思う。
私は魔法の才能がなく、将来は戦士になるか、娼婦になるかしか道が無いと思っていたからだ。
皮肉なことにそのどちらでもなく、奴隷の立場となって初めて魔法の才能を見いだされるとは思ってもいなかった。そして男は私を『加護付き』だという。
『加護付き』とは、稀少な精霊魔法を行使できる魔法師のことを指す。
そして精霊の加護を受けた魔法使いは、必ず歴史に名を残すほどの傑物となる。
龍神族の初代エンペドクレスも、実は原初の『加護付き』ではないかと言われているほどだった。
だが、その時の私の心は踊らなかった。
一度として精霊の声など聞いたことがなかったからだ。
それにもし、そんなすごい力が宿っているのなら、何故自分は一人で生き残ったのか。どうして父と母を救うことができなかったのかと、そう思った。どの道、私にはおそすぎる吉報だった。
奴隷商は不遜にも男――、龍神族の王様に向かって私の値段を釣り上げた。
黄龍石ひとつで、この奴隷館を丸ごと買い取っても釣りがくるほどだというのに、どこまでも強欲な男だった。
龍王様は、奴隷商に向かって持っていた荷物袋を放った。
軽そうに見えて、受け取った奴隷商は押しつぶされてしまった。
開いた袋の口から、黄龍石がゴロゴロと出てきた。
文句はないな、と龍王様は初めてフードを取った。
美しくて強そうな方だと思った。
不敵につり上がった口角は威厳と凄みに満ちている。
奴隷商は龍王様の素顔を見るやいなや平伏していた。
そうして私は、龍神族の初めてにして最後の係累となった。
名前も付けてもらった。
奴隷となった瞬間からそれまでの名前は捨てなければならない。
元の名前に戻すことも可能だったが、私は新しい名前を欲した。
エアスト=リアスと、あの方は言った。
そうしてからエアリスと、愛称もつけてくださった。
小さな私の手を引きながら、美しい龍王様は自分の名を私に教えて下さった。
それが私とディーオ・エンペドクレス様との最初の出会いだった。
* * *
「うあ……ああっ……」
湯に入った途端声が漏れた。
濁った温泉はやや熱すぎるくらいだったが、しっかり肩まで浸かり、手足を伸ばすと、ジンワリと手足の先が解れ、溶けていくような感じがした。
どうやら僕は、自分で思っていたよりもずっと疲れていたらしい。
思えばしっかり湯船に入るんはいつ以来ぶりだろう。
ニート生活をしていたときは、殆ど毎日シャワーだけだった。
セーレスと暮らすようになってからはほとんどが沐浴ばかりだった。
こんなに熱いお湯に全身浸かるというのは、もう数年は行っていなかったかも。
(ブログやツイッターで、温泉に行ったことを自慢するヤツの気持ちがわかる気がするな……)
家族と旅行に行った記憶はない。
気がつけば僕は一人暮らしだった。
別段不都合は感じなかった。
ただやたらとうるさい幼馴染がいただけだ。
そう言えば幼馴染――心深のやつは何をしているかな。
多分僕は行方不明か死んだことになっているはずだ。
身の回りの整理などは市内に住んでいたおじさん夫婦がしてくれているだろう。
何の因果か異世界にやってきて、セーレスと出会って、この世界に骨を埋める覚悟をして。なのに今は元いた地球に戻りたくて仕方ないなんて――
「邪魔するぞ」
その声にハッとする。
湯気の向こうに美しい女性のシルエットが現れる。
一糸まとわぬエアリスだった。
僕は――その姿に一瞬とはいえ見惚れてしまった。
燃えるように火照った褐色の肌。
そして豊満な胸やお尻、太もも……。
まるで真逆。
セーレスとは何もかもが正反対の体つき。
でもその美しさは決してセーレスにも負けていな――
「ッ――、おい、なんのつもりだ!?」
僕は慌てて目を逸しながら言った。
内心の動揺を悟られないように――と思ったがダメだった。
声はどうしようもなく上ずり、情けないことに少し震えていた。
エアリスはそんな僕の反応もお構いなしに、チャプンと湯に足を踏み入れた。
「以前はよく、ディーオ様の湯浴みの世話をしていたのでな。これもまたエンペドクレスの係累たる私の務めよ」
湯浴みって……いや、違うか。
一瞬エロいことを込みの世話かと思ったが違う気がする。
例えどんな美女だろうが、ディーオにとっては赤ん坊と同じ。
エアリスは完全に娘扱いだったのだ。
世話とはまんま風呂の支度のことだろう。
エアリスは「少々熱いな」などと言いながら僕のすぐ側まで近づいてくる。
(うわ……浮いてる)
何がって、そりゃあエアリスの大きな胸がだ。
さっき少し舐めてみたが塩分も強い温泉だ。
浮力にが働いて見事にエアリスの胸が浮かび上がってしまっている。
「うん? どうした?」
「いや……」
「こらこら、ちゃんと肩まで浸かるのだ。十分温まったら私が背中を流してやろう」
「いや、遠慮する」
「釣れないことをいうな。まさか照れているのか? 貴様の女――アリスト=セレスと言ったか。その者とは一緒に入っていたのだろう?」
「それは、まあ……」
僕がセーレスと水浴びをしたのは最初に身体を洗ってもらったあの時だけである。一緒に抱き合って眠るようになったあと、もしかしたらそういう雰囲気になっていたかもしれないが――いや、『たられば』の話は意味がない。結局僕らはそうなる前に引き裂かれてしまったのだから。
「まあ、貴様が私の身体を見て女を感じてくれているというのは悪い気分ではないな。だが、そのおどおどした態度はいただけないぞ」
そう言うとエアリスはエアリスは僕の隣ではなく正面に回り込んでくる。
琥珀色の瞳が僕を見つめる。上気した頬と僅かに乱れた呼吸。
ゴクリと、その褐色の喉が艶かしく動いた。
「ディーオ様は、こういう時でも泰然とされていた。貴様ももっとディーオ様のような振る舞いをしてもらわなければな」
その何気ない言葉に、僕は引っかかるものを感じた。
スッと、心の熱が冷めて平坦になる。
僕はまさに泰然とした態度でエアリスを正面から見据えた。
「僕はディーオじゃないし、そういうことを期待されても困るんだけど」
「だが、貴様は紛れも無くディーオ様でもある。違うか?」
「それは屁理屈だろう。なんだ、僕はお前の愛しいディーオ様の代用品か? 大方、どんなに風呂の世話をして裸を見せつけたところで、ディーオのやつには相手にもされなかったんだろう?」
僕はわざとエアリスを挑発する。
敢えて彼女の痛いところを突く。
以前なら確実に激昂していただろう。
だというのにエアリスは「ああ、そうだ。そのとおりだな」と頷いた。
「あのお方にとって私という存在は……おこがましく聞こえるかもしれないが、娘のようなものだったのだろう。そんなことはわかっていた。だから……言えなかったのだ」
何を、とは問うまでもなくわかった。
それは自分の気持ち。想いの丈。
ありのままの気持ちを伝えることを彼女はしなかった。
何故ならその想いは決して届くことがないとわかっていたから。
むしろそんなものが届くほど、浮世を楽しんでいるやつだったら、ディーオは僕になぞ力を譲ることもなかっただろう。
「本当はな、なんとなく気づいてはいたのだ。あの方の本当のお気持ちに。その心が抱える病に。でもずっと目をそらし続けていた。あの方は――ディーオ様は」
――ずっと死にたがっていたのだ――
絞りだすように、エアリスはその言葉を初めて口にした。
永劫の生涯。
決して死ぬことのできない肉体。
彼の研究や実験の究極の目的とは自身に破滅を齎すことだった。
そんな主の姿を傍らで見続けてきたエアリス。
きっと目をそらさなければ辛いことばかりだったのだろう。
そして決して自らが彼の希望には成りえないのだともわかっていたはず。
それでもエアリスにとって、ディーオはまさに主であり、父であり、そして神だった。彼との間に横たわる時間はあまりにも遠く、長く、断絶されていた。
だから、ディーオが、自らの判断でヒト種族の子供に全てを与えたところで、口を挟む資格など自分には無いのだと――エアリスはそう絞り出すように告白した。
「私にとってディーオ様は絶対だ。だが、貴様という器に乗り換えられたことで、ようやくディーオ様という存在を近くに感じることができるようになった。今までは決して口にできなかった言葉さえ、ようやく言えそうなのだ……」
エアリスの顔は真っ赤だった。
それは湯に浸かっているばかりが理由ではない。
そして、それとは対照的に。僕の表情は冷酷で冷淡なものへと変貌していた。
遅い。遅すぎる。何もかもが。
エアリスは僕の中に都合のいいディーオの影を見ているだけだ。
彼女は自分が傷ついてでも、本物のディーオに気持ちを伝えるべきだった。
相手が僕になってハードルが下がったからといって、勝手に盛り上がってもらってはいい迷惑だった。
「――貴様はかつて言ったな。ディーオ様の深淵を、そのすべてを受け継いだと。ならば、生前のあのお方を慕っていた者の気持ちも、共に受け継いで欲しい」
熱っぽく潤んだ瞳が近づいてくる。僕はそれを厭うよう、仰け反って躱そうとする。ザバッと、エアリスが身を乗り出してくる。彼女の乳房が僕の胸板に触れ、ギュウっと潰れる。もうすぐ目の前に満月みたいな瞳が迫る。僕は静かに首を振った。
「お前は僕のことが憎かったはずだろう。殺したいほど憎かったんじゃないのか。僕はお前の愛した男を殺したんだぞ?」
「そう、そのとおりだ。私は決して貴様を許さない。だからこそ、貴様を野放しにはできない。今後ディーオ様の生き方を損なうような下衆に成り下がったときには、私が命を賭して貴様に引導を渡そう……」
ふたりの距離はゼロになりつつあった。
いつの間にか僕の首にはエアリスの腕が絡められ、逃げられないよう締め付けられている。
そうして彼女は、ずっと胸の奥に仕舞い続けていた、聖句にも等しい言葉を吐き出した。
「ディーオ・エンペドクレス様、私エアスト=リアスは――貴方様のことを心よりお慕い申し上げております」
「――そう、か」
深い溜息と共に重く呟く。
だがエアリスはそれを肯定の証と受け取ったようだ。
畏れ多くて決して本人には告げられなかった素直な気持ちを、僕にならば言うことができたと。
エアリスはもう止まれなかった。
その唇が、僕の唇に重ねられる。
ぎこちない愛撫。
接吻すらも初めてなのだろう。
それなのにも関わらず、エアリスはこみ上げてくる激情に突き動かされるまま、大胆にも自らの舌を僕の口内へと侵入させて――驚愕に目を見開いた。
「――ッ、貴様、今、何を……!?」
エアリスの全身が急速に弛緩していく。
お湯の中に落ちそうになる直前、彼女の腰に手を回して抱きとめる。
「おまえは馬鹿だ」
言いながらエアリスをお湯から上げ、近くの岩場へと横たえる。
彼女は急に動かなくなった己の身体に驚愕し、小刻みに震えていた。
震えながらも、目だけで僕を睨みつけてきた。
「おまえは――ディーオのことを過度に神格化せずに、もっと早くに一人の女として想いを告げるべきだったんだ。おまえの言うとおり、ディーオの生前の関係を精算するために黙って聞いてたが……うんざりだ」
エアリスは――かあああっと急激に顔を赤くした。
自分一人で盛り上がり、勝手に冷め、羞恥に晒され身悶えたい気分だろう。
だが彼女は指一本動かすことができず、四肢を投げ出して、僕の前に無様なマグロ姿を晒していた。
「――ッ、くそ、カラダが動かん……! 接吻の折か……、貴様、一体何をした!?」
「この辺りに漂う小動物のエーテル体を、お前の身体の芯の近くに忍び込ませたんだ。それがお前の身体の自由を阻害している。急所は外しているから精神が破綻することはないだろうし、お前ほど力の強いものならそのうち消えてしまうだろうが――それでも、しばらくはまともに動けないはずだ。まあ、獣に襲われそうになったら精霊様に守ってもらうんだな」
僕はせめて、自らのマントを彼女の身体の上に被せてやる。
彼女は僕のそんな一部始終を憎悪の瞳で見ていた。
どんなに睨まれようと関係ない。
もう彼女とはお別れだ。
「待て、貴様、ひとりで『聖剣の祠』に行くつもりか……!?」
「勘違いするな。僕は初めからひとりで行くつもりだった」
おまえは置いていくつもりだったのだとハッキリ告げられ、エアリスは血走る程に僕を睨めつける。
「貴様、本当に『ちきゅう』に行けると思っているのか!? オクタヴィア殿が言っていたのだ、貴様は今――」
「聖都を消滅させた魔族種として指名手配されてる、だろ。手紙に書いてあったよ」
「なッ――!?」
馬鹿だなホント。
あの手紙に温泉に入って養生しろとでも書いてあると思ったのかね。
オクタヴィアが世界中に放った自らの眷属――エーテル体の蛇によれば、僕を討伐するため、王都ラザフォードは近隣諸国にも応援を要請しているとか。その数は魔法師部隊だけでも千はくだらないそうだ。
「な、ならば、なおのことひとりで行動するなど、無謀にもほどがあるだろう……!」
だったらなんだと言うのだ。
まさか諦めろとでもいうのか。
いい加減腹が立ってきたぞ……。
「あのさ、お前がここまで僕に付き合ってくれたことは素直に嬉しいし、感謝もしてるけど、根本的なことを忘れてないか?」
「何だ、私が何を忘れているというのだ……!?」
「この問題はさ、最初から最後まで僕とセーレスだけの問題なんだよ」
「――ッ!?」
エアリスは見えない槌で殴られたように押し黙った。
ディーオには相手にされず、そして僕からも、「お前は部外者だ」と宣言されたからだ。
「オクタヴィアの手紙には、死にに行く前にエアリスのことはケジメをつけろって書いてあったんだよ。お前ともこれで最後だと思ったから、その意気地のないしみったれた告白も黙って聞いてたんだ」
エアリスの瞳が真ん丸に見開かれる。
あまりにも開きすぎて、瞼の両端から血が出るのではないかと思うほどだった。
「だからもうここでお別れだ。今までありがとうなエアリス――」
僕は手早く自分の衣服を身につけると、そのまま背を向けた。
向けた途端、怨嗟の声が投げかけられた。
「……、きさ、ま……ッ、貴様というヤツは……! 私の一番大切なお方を奪っておきながら、ようやく結実した私の恋心さえも踏みにじるというのか……!」
「告白が失敗したら今度は恨み節か。忙しい女だなお前も。だが残念ながらディーオに選ばれたのはお前じゃない。この僕だ」
死にたがった挙句に生きることを放棄して、僕の生に乗っかってきたのはディーオの方だ。その御蔭で僕は助かったし、感謝はしてる。でも彼は感謝して欲しかったわけでは決して無いのだ。
「ディーオが僕に望んだことはたった一つだけだ」
「――何を。あのお方は貴様に、一体何を望んだというのだ!?」
指一本動かせないエアリスは、唯一自由になる眼球に黒い炎を宿しながらそう問う。僕は自らが進むべき先――遙かなるミュー山脈を見据えて言った。
「進め――と。自らの望むもののため、たったひとりの女のために。立ち止まることなく世界とさえ戦ってみせろ。そしてその先の、見果てぬ先のさらにその先を自分に見せてみろ――、ってさ」
「な――んだと……!?」
本当に笑ってしまう。
ついこの間まで引きこもりのニートだった僕が、こんなセリフを本気で口にできるようになってしまうのだから。
「じゃあなエアリス――って、いや違うな」
僕は横たわるエアリスを振り返ると、居住まいを正す。
堂々と胸を張り、不敵な笑みを口元に浮かべた。
「ではな、我が娘エアスト=リアスよ」
「ッ、貴様、何を――」
エアリスの瞳が一瞬宙を彷徨い、僕の意図していることに気づいたのか、急速に顔を青ざめさせる。そして「やめろ、貴様の口からそれを言うな――!」と懇願してくる。でも、僕はそれを無慈悲に実行した。
「最後まで勝手な男ですまなかった。もう自分を責めるな。あとは……普通に、幸せになってくれ」
「ああ、あああ……ッ!」
嗚咽を漏らし始めたエアリスに今度こそ背を向けると、僕は歩き出す。
わかっている。エアリスはただ僕に自分を受け入れて欲しかっただけなのだ。
ディーオ本人には無理でも、ディーオの力を受け継ぎ、その面影を残す僕にただ許容されたかっただけなのだ。ウソでもそうすることで彼女は満たされたのだろう。
「でもダメだ、そんなの……」
僕は行く。聖剣を手に入れ、地球へと向かう。
だからエアリスの未練は、僕がここで断ち切っておく。
恨めばいい。憎めばいい。
思いっきり泣いて、そうしたら今度こそひとりの女として、真っ当な恋でもしてくれればいい。
そのためにわざわざディーオの真似をしてまでも彼女に別れを告げたのだから。
「色々ありがとうな、エアリス――」
本当の別れの言葉は、誰にも聞こえないよう口の中で呟く。
そして二度と振り返らず、僕は前へと歩み始めた。
続く。
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