第六話 ぬくもりがみちる



 きっかけは、みちるの何気ない一言からだった。


「そういえば、人をダメにしちゃう系のソファっていつ頃届くの?」

「え?」

「パソコンで毎日調べてたでしょう? 履歴、それで埋まってたし」


 言いつつ、ずずっとみちるは味噌汁をすすった。少し味付けが濃かったかな、なんて明日への反省点をしっかりと頭の隅に刻み込んでおく。

 食べることは生きること、食事が体を作る、なんて言葉をみちるは何かで読んだことがあるのだけれど、ひかりの体を作るのがみちるの料理だというのなら、できるだけ妥協はしたくなかった。

 ひかりはお箸で目玉焼きの黄身を割り、カリカリに焼いたベーコンをそれに浸して口に運んでいた。もくもく、もくもく。薄い唇が動き、こくりと呑み込む。

 それからずずっと、みちると同じように味噌汁をすする。

 その目が、いつもより少しだけ大きく見開かれたのをみちるは見逃さない。

 恐る恐る尋ねてみる。


「ちょっと味が濃かった、よね?」

「そうかしら。あたしはこれくらいが好きだけど。いつものは塩分を気にしすぎて逆に薄すぎね。おじいちゃんじゃないんだから」

「言ってよ!」


 思わずみちるは叫んでいた。

 いつも美味しそうに飲んでくれていたから、あれくらいの薄味がひかりの好みなんだと勝手に思い込んでいた。


「でも、あれはあれで美味しいし。何よりみちるがあたしのこと気にしてくれてるんだって思うとね、嬉しくてそれだけで満足しちゃったりするの。って、あんた、なんて顔してるのよ」

「ひかりさんはズルい」


 じいっと睨みながら、みちるは唇を尖らせている。


「何が?」

「無自覚なところが。そういうの、わたし以外に言ったらダメだよ」

「あんた以外に、誰があたしに味噌汁なんて作ってくれるのよ」

「……むう。じゃあ、とりあえず、明日からこれくらいの濃さにするね」

「ええ。そうしてくれると嬉しいわ」


 せっかくの機会なので、みちるは他にも要望を聞いておくことにした。

 目玉焼きは半熟か完熟か。

 片面焼きか両面焼きか。

 お米は柔らかい方がいいのか、ちょっと硬めがいいのか。エトセトラ。

 明日の天気とか、売り出し中の俳優のスキャンダルの話をするみたいに、ご飯を口に運びながら二人は少しずつお互いの好みを話して知っていった。

 そんなことがみちるは嬉しくて。

 ひかりはちょっと楽しくて。

 いつものなんでもない朝食の風景が輝いたまま、あっという間に終わってしまった。


「ごちそうさま」

「お粗末さまでした」


 ふうと、熱いお茶をすすって手を合わせた後。

 いつものように重ねた食器を台所へ運び、さて、とみちるがシャツの袖をまくったところで、スポンジに伸びる三つ目の手があった。

 もちろん、いきなりみちるに腕が生えてきたわけもなく。


「たまには洗い物くらい、あたしがするわよ」


 隣に立った、ひかりがにんまりと笑っている。


「ええ、いいよ。せっかくの休日なんだし、いつもみたいにゴロゴロしてなよ。仕事で疲れてるでしょう? あとで掃除機かけるから、その時に少しくらい体をのけてくれたら、それだけで大助かりだし」

「あんた、人を仕事以外全然できない亭主みたいに思ってたのね。あと、だらけてる時に体を動かす、その〝少しくらい〟が結構億劫なのよ。あたしが洗い物している間に、ちゃちゃっと掃除機かけちゃいなさい」

「ううん。でも」

「いいから、いいから」

「そう? じゃあ、お言葉に甘えようかな」

「そうそう。子供が遠慮なんてするものじゃないわ」


 鼻歌なんかを歌いながらひかりが洗い物をやってくれたおかげで、みちるは掃除機をかけ終えることができた。

 そのままトイレ掃除と、お風呂掃除もいつもより念入りに行っておく。

 それもひかりが手伝ってくれたので、午前の早い時間には、一日の予定の多くが終わってしまう。

 せっかくの休日だけど、天気はあいにくの雨。

 雨脚はそこまで強くないので、午後には止むだろう。

 買い物はその時でいい。

 足りなくなっていたものはなかったかと、みちるはスマホのメモ機能を開きながらトイレットペーパーなどの買い置きをチェックしていく。洗剤はそろそろ買っておいた方がいいかもしれない。お米はどうだったか。

 一方のひかりは、休日の気の抜けた格好のまま、一仕事を終えた充実感に浸ってごろんとソファに寝転んだ。

 長い手足を器用に折りたたみ、きっちりソファの半分だけを使っている。

 こんなにも広い部屋の、大きなソファの上で、ひかりはいつも叱られた子供がするみたいに身を丸めながら窮屈そうに眠っている。

 そんな眠り方を彼女がしていることは、みちるには少しだけ寂しい。


「ひかりさん」


 買い置きのチェックをする手を止め、思わず呼びかけてしまった。

 ひかりは目を開けなかった。

 それでも、みちるは何となく続けてみた。


「ひかりさん。インスタントだけど、コーヒー飲む?」

「ん、もらおうかしら」


 すっかりと寝てしまっていると思ったのに。

 珍しくひかりは目を開け、上半身をのそりと起き上げた。


「分かった」


 案外、甘党なひかりのコーヒーには砂糖を四つ。自分の分には二つだけ入れてから、熱いマグカップを手に、みちるはひかりの横へと腰掛けた。

 付かず離れずの三十センチの距離は、みちるを心地がいいような、少しだけ緊張してしまうような変な気分にさせた。

 思い返してみれば、いつもはみちるがバタバタと家事をやっているので、こんな時間を持つことはなかった。

 少しだけ迷ったものの、みちるはテレビのリモコンを遠ざける。

 どんな面白い番組でも、今はきっと雑音にしかならない。

 それがひどくもったいないような気がしたからだ。


「はい、どうぞ」

「ありがとう」


 ひかりの横ですすったコーヒーはやけに熱くて、やけどまではしなかったけれど、味がこれっぽちも分からない。甘いのか、苦いのか。

 今のみちるの気持ちとシンクロしている。

 ほうっと思わず吐いていた息が、コーヒーの熱気から秋の風の中で冷やされていく。どうやら開けていた窓から入ってきたらしい。

 カーテンがはためいている。

 シトシトとベランダを黒く濡らす雨に焦点を合わせるも、みちるの意識は、視界の端にぼやけて映るひかりの整った顔へと向けられている。

 雨の匂いに混じって届くのは、ひかりのシャンプーの香りだろうか。

 同じ家で暮らして、同じものを食べて、同じ洗剤で服を洗い、同じシャンプーで髪を洗っている。なのにこの匂いは、ほんの少しだけ部屋に馴染んだものとも、みちる自身のものとも違っている。

 不思議と、それが心地よかった。


「ねえ、みちる?」


 コーヒーを生唾のようにこくりと一口呑み込んで、ひかりが尋ねてきた。その音の響きにもまた、どこか緊張が宿っている。


「どうしたの?」

「えっと、そのね」


 一度口にしても決意がつかないのか。

 珍しくひかりが口ごもった。

 今日は珍しいこと続きだ、とみちるは思う。家事を手伝ってくれたり、ソファーでうたたねをしなかったり、口ごもってみたり。

 こんなひかりも新鮮で悪くない。


「なあに?」


 ゆっくりとできるだけ相手を急かさないような言い方を心がけながら、みちるは首を傾げる。

 もう一度、ひかりは乾いた口の中を潤わせる為にコーヒーを口に運んでから、告げた。


「ダメだったらいいのだけれど」

「うん」

「そのさ。抱きしめてもいいかしら?」

「うん。いいよ」


 即答だった。

 あまりにあっけなくみちるは頷いていた。

 少しだけ大げさすぎる言い方になるかもしれないけれど、運命とかそういう抗えない流れに身を委ねている感じ。

 でも、ただ一つだけ。

 仮に運命とかがそういう風に流れていこうとも、それは前提としてみちるの意志があってのことだった。この気持ちまで運命だなんて、みちるは呼ばせはしない。


「いいの?」

「うん。ほら、どうぞ」


 みちるはマグカップを置いて、熱くなった手のひらを感じながら、空っぽの両手をひかりの方へと広げてみせる。


「じゃあ、失礼するわね」


 少しだけたどたどしい感じでひかりの手がみちるの脇をこすり、背中に辿りつく。

 ふわっと鼻先に当たるひかりの香りが濃くなって、顔が熱くて、でもやっぱり心地よくて。背中に広がるひかりの手の形とか、その大きさとか、強さとか。

 そういうものの一つ一つに幸福というものの在り処を、みちるは見つけたような気分だった。

 とんとひかりの顎を乗せたみちるの肩は、驚くほどしっくりきていた。

 寒さから身を守るように、二人は体を寄せ合っていた。

 そのまま重力に手を引かれるままに、ひかりの背中からソファに倒れ込む。

 ぎしっと沈む。跳ねる。

 ばさっとみちるの眼前に広がったのは、翼のような黒。

 髪が流れていく。

 笑顔が、その先にある。


「温かい」

「そうだね。もう秋も深くなったのにね」

「あ、こうしていると、みちるの匂いがするわ。あたしのと少しだけ違うのはどうしてかしら」

「それ、わたしも同じこと考えてた」

「そう」


 くすくすと笑うひかりの声が、みちるの鼓膜を揺さぶる。くすぐったくて、気持ちいい。いつまでも聞いていたい。

 同じように、くすくすとみちるも笑った。

 やがて二人の匂いが混じり合っていくと、それは二人の暮らすこの部屋の匂いになっていった。

〝マイ・ディア・ガーデン〟

 わたしの最愛の庭。

 この部屋が、ひかりにとってその名前の通りになったのは、一体、いつからか。

 一人で過ごしていた数年間、ずっと空っぽだったはずなのに。

 孤独の面影はもう、どこにも見つけられない。

 数年間で馴染まなかったものが、この数か月ですっかりと馴染んでしまっていた。

 二人で選んだカーテンも、ラグも、元気に咲いているポトスも。

 ここには世界の全てがあった。

 二人の全てがあった。

 少なくとも、ひかりとみちるはそう思っている。


「さっきの話だけど」

「さっきのって?」


 クスクスと聞こえる笑い声は、果たしてどちらのものか。

 笑い声にシンクロして脈動している鼓動は誰のものか。

 距離があまりに近すぎて分からない。

 まあ、でもどちらでもいい。

 変わりはないのだ。


「人をダメにしちゃう系のソファの話。少し考えてみたんだけどね、あれ、買わないことにした」

「どうして?」

「あんたが――」


 言いかけて、ひかりは言葉を選んだ。

 それでも込める感情は変えはしない。あんたがいるから十分よ、なんて感情が別の言葉に込められる。


「ん?」

「……これ以上、ダメになりたくないもの」

「ひかりさんはダメじゃないよ」

「そんなこと言ってくれるのはみちるだけよ、きっと」

「そうかな」

「そうよ」

「じゃあ、わたしがその分、たくさん言ってあげるね」

「何を?」

「好きって」


 その言葉に、ひかりは笑う。

 好き、だって。

 やっぱり言葉にできないまま、ひかりは頭の中で反芻する。

 幼い頃、あれほどまでに欲した言葉だ。

 結局、母親には一度だって言ってもらえなかった。

 大人になると、男の人に何度か言われたことはあるけれど。

 今のものよりも、激しく、強く、求められた。ただ、体を重ねてみても、積みあげられた愛の言葉は胸に届く前に皮膚のあたりで溶けて消えていくばかり。

 一度だって、ひかりの体を満たすことはなかった。

 なのに、みちるの言葉は違った。

 かつて、一度だけ似たようなことがあったことを、ひかりは思い出していた。



『ひかり!』



 一人ぼっちだったひかりの名前を呼んでくれた、ただ一人の人。

 ひかりにとっての救い、希望。

 あるいは、道しるべ。

 気付けば、ひかりはもう体を丸めていない。足を伸ばし、何かから守るようにしていた空っぽの腕の中には今、確かなものがある。

 ぬくもりが一滴、心に落ちて広がっていく。


「そう。なら、それでいいわ」


 あんたが言ってくれるなら、それでいい。

 やがて、心地よいまどろみが、雨の音と共に二人をゆっくりと包んでいった。

 もうおやすみの一言さえ言うことができないくらい、睡魔が瞼を唇を重くしている。それでも困ることがないのはきっと、首を動かさなくてもいいくらい距離が近いから。

 二人にはそれで十分だから。

 ちゅっと、小さな音が同時に響いた。

 おやすみの言葉の代わりに、二人が紡ぐもの。

 体温が、感触が肌に馴染んでいく。

 まるで一個の生き物になったよう。

 意識がするりと手の中から落ちてしまったから、ひかりも、それからみちるも、最後の瞬間、ひかりが口にした名前を聞き届けることはなかった。


「あかりさん」


 ひかりにとって世界で一番特別な名前を、不意に彼女は呟いていた。

 瞳の端っこを透明な一滴の滴で濡らしながら。

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