第五話 合鍵



 女子トイレの鏡には、男子に言えないことばかりが映っている。

 普段、化粧の下に隠している女の子たちの素顔。

 教室の机を挟んで飛び交う言葉のようにキラキラしたものなんかじゃないけれど、飾り気のない分純度が高くて、何と言うか自然に呼吸ができる感じ。

 森林浴のどこか柔らかで満ち足りた光景をみちるは思い浮かべたけれど、それには首を振っておく。

 どう取り繕うとも、所詮は学校のうす暗いトイレの中だ。

 実際の気温より低く感じる体感温度に、少しすえた臭い。

 擦りガラスが光を取り込んで真っ白な輪郭を床に落とし、端の方が輪郭を曖昧にさせたままゆらゆらと揺れ続ける。


「ねえ、みっちー。聞いてる?」

「はいはい、聞いてますよー」


 ぶちぶちと唇を尖らせる友人の気配を背中で感じつつ、みちるは鏡の中に映った自分とにらめっこを続けた。

 昨晩、自分で切ったばかりの前髪が少しばかり気になっている。

 よく見なければ分からない程度のものだったが、よく見てしまうみちるには大問題。

 一度気になってしまうと、ずっと違和感が付きまとう。指ですいてみたり、挟んでみたり、ひっぱったり。

 それで髪が伸びることなんてあるはずもないのに。

 ううん。ひかりさんにくっつくの、数日くらいやめた方が良いかな。

 指摘されるのも、気付かれないのも、どちらも同じくらい嫌だ。


「それならいいけど。でもさ、ひどいと思わない? 何でもくれるって言ったのにさ」


 友人である和葉の熱は一向に収まることはなくて、みちるはおでこに前髪を押さえ付けながら苦笑いを浮かべていた。

 だってたくさんの怒りの声も、罵詈雑言も、拗ねていじけてるようにしか聞こえないから。

 事実、和葉はどれだけヒートアップしても、〝嫌い〟の一言だけは口にしていない。

 それも意図的という風ではなく。

 そもそもそんな感情が彼女の中にはないのだろう。

 聞かされているのは愚痴なのか、のろけなのか。

 分からなくなりそうだったみちるは、一応、尋ねておく。


「でも、好きなんでしょう?」

「うん。好き」


 予想通り、あまりにあっさりと和葉は頷いた。

 少しの照れもない。

 ああ、やっぱりのろけの方だったか、とみちるは得心する。


「惚れた方が負けとはよく言ったものだよねえ」

「悔しいなあ。この気持ち、タカヤさんにも味あわせたいのに。今のタカヤさんの年齢に追いつくまでに、あと五年もかかるの。遠すぎるよ」


 そして、五年経ってもその差は縮まることはない。

 和葉は言いつつ、汚れてしまっている上靴の先を踏んでいる。少しくたびれて、擦れた靴の赤い先っぽは、和葉が何度も何度もこうやって恋をし、悩み、踏んできた証だった。


「別に、タカヤさんだっけ? その人もちゃんと和葉ちゃんのこと好きだと思うけど。プレゼント、結構気合入ってたんでしょう?」

「それはね、そうなんだけどさ」


 少しだけ和葉の声の感じが上を向く。

 文句を言いつつ、和葉が大事そうに手首に付けているブレスレットは昨日まではそこになかったものだ。

 派手さはないがよく見ればそれと分かるワンポイントはブランド物に全く興味のないみちるでも知っているくらい有名なもので、中学生が付けるには少しばかり分不相応にすら思えるほど高価だ。

 特別な日だけでなく、普段から使うことのできるデザインに、みちるは素直にそのセンスの良さを感じていた。

 和葉の誕生日のお祝いで、近くの大学に通う彼氏にもらったものらしい。

 昨日は朝から放課後までずっと、和葉のテンションがいつもの三割増しで高かったのをみちるはよく覚えている。

 プレゼントで用意していたみちる手作りのコースターを、予想以上に喜んでくれたのだった。

 これで和葉は十五歳。

 年明けのみちるの誕生日までのいくらかの間、彼女の方が少しばかりお姉さんだ。


「今日はさ、タカヤさんがお祝いしてくれるの。じゃあ、また明日」


 放っておけばスキップで天まで飛んでいきそうなほど浮かれながら走っていく友人のシルエットが、大きな太陽の中でチカチカと点滅を繰り返す光へと変わっていった。

 その熱は一日そばにいたみちるにもすっかりと移ってしまい、今日のキスは唇の近くにしてしまおうか、なんてみちるを甘く誘惑していた。

 実際、不意打ち気味に唇の端と頬のちょうど中間くらいにキスをすると、仕事帰りのひかりは思い切りうろたえた。

 ひひっ。あの時の、ひかりさん。めちゃくちゃ可愛かったな。

 キスの感触をみちるが思い出して笑っていると、でもさあ、と和葉が豊満な胸をみちるの背中にいつものように押さえつけてきた。


「わたしは、タカヤさんの部屋の鍵が欲しかったんだよ。別に使わなくてもいいからさ」


 プレゼントに何が欲しいかと言われていた和葉が望んだのは、背伸びしたディナーでも、高価なアクセサリーでもなくて、数百円で作ってしまえる恋人の部屋の合鍵だった。でも、タカヤが用意していたのが銀色のブレスレットと、お祝いのディナー。

 それが、和葉の不機嫌の理由らしい。

 そのあたり、どうにもみちるには分からない。

 まあ、みちるとしてもプレゼントでもらうなら、ブレスレットなんかより、サクサク切れる包丁とか、片手で振れる軽いフライパンとか。ふっくらモチモチに炊ける炊飯ジャーの方が喜ばしいのだけど。

 ブレスレットではお腹がふくれないし、ひかりだって喜ばない。


「使わないなら、使えるものの方がよくない?」

「そーじゃなくてさー。合鍵って、どこか特別な感じがするでしょう。わたしは、その特別が欲しかったの」

「ごめん、和ちゃん。何言ってるか、ちょっと分かんないや」

「えー、何で分からないの。部屋ってさ、その人の生活の中心でもあるじゃない。そこに入る為のものをもらうってことは、特別であり、許しでもあるんだよ」

「特別、許し」


 気になった単語だけを、みちるは思わず繰り返してしまう。


「そう。心を許されてるんだよ。それは何よりも嬉しいことだとわたしは思う」


 その瞬間、ポケットに入っていた小さな金属の欠片が質量を増大させたから、みちるは慌てて手を置いた。重すぎて、ポケットに穴が開いてしまうのではないかと思うほど。

 もちろん、そんなことがあるはずもなく。

 なのに心臓ばかりが、トクントクンと強く小刻みに走り出す。

 ずっと当たり前のものだと、みちるは思っていた。

 一緒に暮らしているのだから、鍵を持つことは当たり前。

 でもそれは、部屋の扉を開く以上に、もっと特別で大切なものを開くもので。

 みちるはひかりにとって、少なくとも他の人よりは内側に入れてもらえた人間だったのだ。

 どうして気付かなかったのだろう。

 もっと大切にしなかったのだろう。

 ううん。

 今からでもまだ間に合うはずだ。

 ぎゅうっと握りしめると、手のひらに鍵の形の痕が残るのが分かる。その痛みや形を感じながら、手を放す。


「キスも、高校卒業するまではダメだって言われてるしさあ。大事にされてるのは嬉しいけど、もっとくっつきたいよ。わたし、そんなに魅力がないのかなあ」


 少なくとも胸だけを見ればそんなこともないと思うけど、なんて喉まで出かかった言葉を、さすがにみちるは呑み込んでおいた。

 安っぽい慰めを和葉が望んでいるわけじゃないってことは知っていたから。

 ただ聞いて、相槌だけを打っていればいいのだ。

 それにしても、と肩の上から伸びている和葉の手をみちるは掴む。気安い感じで、和葉もまた握り返してくる。

 友人同士だからこその、近くて、でも近過ぎない絶妙な距離感。

 恋人なのに合鍵ももらえずキスもできない和葉と、恋人じゃないのに毎日キスをして、合鍵どころか一緒に住んでいる自分と。

 一体、どちらが幸せなんだろうねと、声には出さずに鏡の中に映った自分に向けてみちるは尋ねてみた。

 昨日より数ミリだけ前髪の短い一ノ瀬みちるは答えてくれず、みちると一緒に困ったような笑顔を浮かべているだけだったけれど。



 結局、ほぼ半日、みちるは和葉の愚痴兼のろけに付き合った。みちるに夕飯の買い物の予定がないことが分かると、放課後の時間も延々と愚痴は続いてしまったのだ。

 半分以上、いや、三分の二くらいは聞き流したとはいえ、それでも結構な疲れが溜まっている。

 解放された頃にはすっかりと日は沈んでしまっていて、まるでみちるのうっぷんが蒸発して空の冷えた大気の中で凝固したようにいつしか厚い雲がたっぷりと浮かんでいた。少しでも振動を与えると、降ってきそう。

 今日は一日秋晴れのはずだったのに。

 朝の天気予報はどうやら外れてしまったらしい。

 そういえば、ひかりさんは傘持っていっていたっけ。

 性格的に、折り畳み傘なんてものを持ち運ぶ人間ではないはずだけど。

 記憶の糸を手繰り寄せてみると、玄関に立ったひかりの手の中にはそれらしきものはなかった。

 時計を見る。

 ここから駅まで引き返すと、ちょうどいい時間かもしれない。

 みちるの頭の中で、少しだけ愉快なことが思い付いていた。



 真っ白い水滴が、長く引き伸ばされて斜めに横切っていく。

 ひかりが会社を出た時はまだ曇り空だったけれど、電車に乗る頃にはすっかりと飽和してしまい、雨は次第に激しさを増していった。

 ビニール傘、買わないといけないかしら。

 いや、そもそも財布の中にお金が入っていただろうか。

 みちるが弁当を作ってくれるようになってから、仕事に行ってお金を使うことがほとんどなくなっていた。就業中はできるだけ残業をしなくてすむように息つく間もないくらい働き通しだし、電車は定期がある。

 どちらかと言えば、ひかりはズボラな方だ。

 使わない財布の中身をいちいち確認する人間ではない。

 ひかりが電車を降りると、冷えた風が吹きつけてきた。

 吸い込んだ空気に、肺が少し痛む。

 雨が降ると、気温が下がって冬に一気に近付いていくのをひかりの肌が感じていた。

 スーツに沁み込んだ雨の匂い。閉じた傘の先から落ちる水滴。足元に溜まってできた水たまりに、トン、トン、と水滴が落ちて広がっていく。

 慣れたはずの人のざわめきが、ひかりにとっては随分と遠い。

 まるでテレビを見ているかのよう。

 画面の向こう側にはきちんと人がいて、そういう世界が存在することは分かっているのに、どうしてもひかりは自分の世界とは切り離してしまうのだ。

 別にそれを不便に思うことはなかったひかりが、その孤独という感情の名前を思い出したのは、ここ最近のこと。

 その理由は、まだ中学生の女の子の形をしていた。

 改札を出てコンビニの方へ向かおうとしたひかりの足が不意に止まる。

 今まさに思い浮かべていた笑顔が、そこにあったから。


「あ、ひかりさん、おかえりなさい」


 響いた声に、呼ばれた名前に、温度が宿る。

 それはひかりと世界との間で、厚い氷の壁のようにそびえ立っていた何かをするりと溶かしてしまった。

 さっきまでうまく聞き取れなかった雑踏の音が、ひかりの肌を震わす。


「みちる、あんた、こんなところで何してるの?」

「雨降りそうだったから、迎えにきたの」

「迎えにきたって、制服で?」

「うん」


 どうしてかその短い会話で、ひかりの肺にするりと空気が入っていく。ああ、とひかりはおかしくて一瞬だけ目を瞑る。もうほんの少しだって痛くはない。


「というか、和ちゃんに付き合ってたからまだマンションに帰れてないの。で、近くにいたから一緒に帰ろうと思って。どうせ、ひかりさん傘なんて持ってないでしょう?」

「まあね。あんたは持ってたの?」

「ううん」


 みちるはにへらと笑って首を振る。


「だから、これ買っておいたよ。一緒に入って帰ろう」


 みちるの手の中には、成人男性用の大きなビニール傘が一本だけあった。

 それはみちるの小さな体には少しだけ不釣り合いで。


「どうして一本だけなのよ?」

「これなら二本もいらないでしょう。一緒に帰るんだし」

「それはまあ、そうだけど」

「お金ももったいないし。ビニール傘を何本も家に置いておく必要もないし」


 そう言われて、ひかりは財布の中身を結局確認していないことに気付く。

 まあ、でもいい。このまま財布を開くことなく、ひかりは家に帰れるのだから。ああ、やっぱりひかりはズボラだ。


「貸して。あたしの方が背が高いから、傘をさしてあげる」

「うん」


 雨だったから、二人はゆっくりと歩いた。

 肩をぶつけながら、跳ねた泥で少しだけ汚れたソックスや靴に笑ったりなんかして。

 結局、いつもの倍以上の時間をかけてマンションへと帰り着く。

 と――。

 ひかりが鍵を取り出そうとしたところで、みちるがそれを制した。


「待って待って。わたしが開ける。いいでしょう?」

「え? ああ、どうぞ」

「うん」


 鍵穴に突っ込んだ鍵を捻ると、ガチャっとロックの解除される音がする。

 どうしてか嬉しそうで、誇らし気な表情を浮かべたみちるにひかりが首を傾げていると、彼女はささっと一人先に入ってしまった。

 別にそんなに慌てることもないのに。

 傘についていた水滴を払い、みちるの背中を追いかけるようにひかりが玄関へと足を踏み入れると、流れるようにみちるがひかりの方へ振り向いた。

 女子中学生のスカートが風を孕んで膨らんで、髪が揺れて、幼い両手が広げられている。

 まるで世界の全てがそこにあるかのよう。


「おかえりなさい」


 誰よりも早く、みちるは言った。

 それが合鍵をもらったみちるの役目だった。

 義務ではなく、権利。

 これは誰にも譲ってあげない、とみちるは思う。

 世界でたった一人だけ、ひかりにそう言ってあげられる女の子。

 それがわたしなんだ。


「ただいま」


 応えるように、ひかりは告げた。

 そうして、二人はいつものようにキスをした。

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