第四話 誰が為に鐘は鳴る



「ねえ、ひかりさん。買い物にいこう」


 みちるがそう言い出したのは、よく晴れた日曜日のことだった。

 普段の休日であるなら十四時間は寝て過ごすひかりの生活は、みちるがきてから随分と人間らしいものへと変化していた。

 一日一食だった食事を朝からしっかりと取って、ソファではなくベッドで眠る頻度が高くなり、日が上ると窓から射し込む日差しをきちんと浴びた。

 まつ毛に乗った朝の光は重くて、たまに瞳を再び閉じたくなることもあったけれど、自分の名前を呼ぶ誰かの存在を近くに感じると、まどろみの皮を脱いだひかりはその誰かと同じ世界で同じ時間を過ごすことを選んだ。

 今日もまた、そんな風に始まった朝だった。

 ひかりはフォークにさした皮がパリパリに焼けたソーセージを見つつ、


「何か欲しいものがあるの?」


 尋ねてから口に運ぶ。

 パリッと皮が弾けると、内に凝縮された肉汁が旨味となって、じゅわっと口いっぱいに広がっていく。


「うん。欲しいものっていうか、部屋の模様替えをしたいなって」

「いいわよ。いってらっしゃい。お金はどのくらいいるかしら」


 二つ目のソーセージを口にしつつ、財布に手を伸ばそうとするひかりに対し、みちるは分かりやすくむすっと顔をしかめる。


「なんて顔してるのよ。せっかく可愛い顔にあかりさんが産んでくれたんだから、そんな顔してたら台無しになっちゃうじゃない」

「え、わたし、可愛い?」

「あたしはそう思うわよ」

「えへへへ。そっかあ」


 ひかりがみちるの頬を指で挟むと、頬を膨らませていた空気が、ぷひーと抜けていった。ひかりに可愛いと言われて上機嫌なみちるは、ひかりさん、紅茶のお替りは、いただこうかな、はい、どうぞ、ありがとう。なんてやりとりを終えた後に、はっと、うまくかわされたことに気付いた。


「ひ・か・り・さ・ん」


 じとっと睨むけれど、ひかりはどこ吹く風というように紅茶をすすっている。


「どうしたの?」

「わたし、いこうって言った。それとも仕事が忙しかったりする?」

「いや、そんなことはないけど」

「じゃあ、用事でもあるの?」

「ううん。別に。二度寝しようかなって思ってるだけ」

「布団、干しちゃったけど」

「あら、早いわね。いつの間に。まあ、いいわ。ソファで寝るから」

「そうじゃなくて、一緒にいこうよ」

「あたしはいいわよ。買い物ってあまり好きじゃないの。あんたの好きなものを買っておいで」


 ひかりが買い物が好きじゃないことは、この部屋を一望すれば誰だって分かってしまうだろう。圧倒的にものが少ないのだ。

 リビングの中心にはローテーブルが一つと、大きめのソファーがあるだけ。

 みちるが引っ越してきた当初は、テレビもパソコンもなかった。

 そのくせ、部屋だけはやけに広く、五人家族くらいなら余裕で住めるくらいのスペース、部屋数がある。寝室がある――とはいっても、ベッドが一つ置いてあるだけだが――のに、ひかりが赤子のように体を丸めてソファで寝ていると知った時、みちるはショックだった。

 起きてすぐに仕事にいけるのがいいのよ、なんて屈託なく笑うひかりに少しばかりの苛立ちすら覚えたほど。

 ひかりの部屋から、生活の痕跡を、匂いを、温度を全く感じないのは、だからだろうとみちるは考えた。

 彼女にとってこの部屋は生活スペースではなく、寝る為だけにあるようなもの。

 今日の買い物は、それを改善するための第一歩なのだ。

 ならば、みちるが一人だけで買い物にいっても意味がない。

 当事者意識を持ってもらう必要がある。


「ちなみになんだけど」

「うん?」

「わたしに全部任せたら、めちゃくちゃファンシーな部屋にするから」

「へ?」

「カーテンとかピンクにして、ハート形のクッションとか置いて、ソファーのカバーも合わないから変えちゃうからね。壁紙にシールとかベタベタと貼っちゃうから。綺麗に剥がせる奴だけど」

「あんた、そういうのが趣味だったの?」


 もちろん、みちるにそんな趣味はない。ブラフだ。

 ただひかりが嫌がるだろうなと思ったから言っただけ。

 ちなみに、それでもひかりがこないというのなら、みちるは本当にそんな部屋に模様替えするつもりである。

 ソファーでうたたねすることが唯一の趣味と言っていいひかりはきっと居心地が悪くなって、そのうち買い替えようと言ってくるはずだから。

 手間と時間とお金はかかってしまうけれど、しょうがない。

 もちろん、みちるだって家計を預かる者としての役目は、きっちり果たす所存だ。

 しばらくの間、もやしパーティーを連日開催することすら辞さない覚悟を決めた。もやし、最高。安いし、えっと、それから安いし。暗示をかけるようにみちるは心の中で呟く。

 それから、ひかりに向けてにっこりと笑って、


「わたしも一応、女子中学生だから」

「あんたの部屋だけじゃダメ?」

「ひかりさんが一緒に買い物にいってくれたら考えてあげる」


 さて、どうなるかなと静観しつつ、みちるはフレンチトーストを齧り、紅茶を口にした。

 一方のひかりも無言で、同じように朝食を食べ続けた。サラダを食べ、最後のソーセージを齧り、フレンチトーストを呑み込む。

 ふう、と息を吐き、紅茶のおかわりを要求しながら、ひかりは端で束ねられた茶色のカーテンを眺めていた。

 休日の柔らかな光が、濃い茶色を少しだけ白く染めている。

 じっと眺めていると、ひかりの瞳の中でそれがドキツイ、たとえばショッキングピンクなんかへと変わっていった。

 お気に入りのソファも似たような傾向のものになって、必要もないのに間接照明なんかがついて、LOVEとかPEACEとかわけのわからないローマ字のオブジェが置かれたりするのだ。ああ、それはとてもとても。

 ――落ち着かない。

 降参しましたとばかりに、ひかりはため息を吐いた。


「分かった。一緒にいきましょう」

「やった。二時間後に出発するから、準備していてね」

「二時間? どうしてそんなに後なの?」

「掃除と洗濯をしてしまいたいから。あと、買い物にいくならしっかりとおしゃれをしなくちゃ」

「そういうもの?」

「ひかりさんも仕事の時みたいに、とまでは言わないけれど、休日スタイルはダメだからね」

「分かりました」


 言いつつ、ひかりはふわああと大きな欠伸をした。

 家事をこなすみちるとは対照的にそのままひかりはソファでうたたねをしてしまったので、結局、二人が買い物に出掛けるのは、お昼ご飯を食べた後になった。



 なんだかんだ言いつつ、お店にまで引っ張ってくればひかりの気分も乗ってきたらしい。

 最初は付添いです、なんて雰囲気を出していたけれど、ひかりが店員と話していると、一言二言言葉を挟んできて、次第にいろいろと意見を言うようになり、最後は主導権を握っていた。お仕事モードみたいな状態に入ったらしい。

 カーテンは今のものよりも少しだけ明るいものに変わり、オレンジ色のラグマットを買い、みちるの提案で観葉植物なんかも置くことになった。選んだのは、育てやすいとお勧めされたポトス。花言葉は、長い幸とか華やかな明るさ。

 ひかりは、〝人をダメにしちゃう系のソファ〟なるものに随分と心を惹かれていたようだったけれど、みちるが何かを言う前に自制していた。

 それでも何度かみちるが嫉妬してしまいそうなほど熱い視線を送っていたので、そのうちマンションに届く日がやってくるかもしれない。

 別にものを増やしたかったわけじゃないけれど、空っぽの部屋が少しだけ豊かになるのはいいな、とみちるは思った。

 家や部屋は、そこに住む人の一部であり鏡だ。

 だからこそ、二人の部屋が空っぽなのは、みちるは寂しかった。こんなに魅力的で美しい人なのに、ひかり自身が空っぽのように思えるから。

 配送の手配を一通り済ませてから、二人は外に出た。

 季節は日々、秋を濃くしていく。

 乾いた葉が赤くなり、人々の衣は厚くなり。

 元気なのは小学生くらいなものだ。二の腕や太ももを露わにしつつ、小さな手足を懸命に動かし、風を切り裂くように走っていた。

 そんな様子を見つつ、ひかりは、ああ、元気なのは小学生だけじゃないか、と隣を歩く少女を眺めた。ん? どしたの、とみちるが首を傾げている。

 癖のない真っ直ぐな黒髪が、風の向かう先を教えてくれる。


「いや、それ寒くないのかなって思って」

「それってどれ?」

「スカート」


 みちるのスカートは膝丈よりいくらか短い。

 健康的で未成熟な太ももの上を優しくこすったり、風で押し付けられてその輪郭をくっきりとさせている。


「ああ。これ? もちろん、寒いよ」

「だったら、どうしてそんなものを履くのかしら?」

「だって、可愛いから」

「それだけの理由?」

「うん。女の子の可愛いは、我慢と根性で成り立っているものだから仕方がないの」

「そう」


 ひかりにはそこまで可愛いにこだわる理由はさっぱり分からなかったけれど、分からないことを理由にあれこれとケチをつけるほどの愚か者でもないので、それだけを呟いておいた。

 当然、これでみちるが風邪をひきでもしたら叱るけれど。

 いつしか二人は手を繋ぎ、仲の良い親子のように、離れるのを拒む姉妹のように、ずっと一緒にいる親友のように、あるいは寄り添い合う恋人のように歩いていた。

 ひかりにとっては気付いた時にはすでに繋がれていた手はしかし、本当はみちるがずっと機会を伺っていた成果。

 そっと指先でひかりの手に触れ、拒絶されそうな雰囲気がないことを確認してから、こっちにいってみようよ、とひかりを引っ張るように手を繋ぐことに成功したのだった。

 スキンシップは慣れていたはずなのに、こうして二人で肩を並べて歩いているというシチュエーションがめったにないせいか、みちるはやたらとドキドキしていたし、なんなら指先が触れるだけで電流が走り、顔が熱くなったものだ。

 気付かれて欲しくない、気付かれてはダメだと赤くなった頬に冷気を当てる一方、少しくらい気付いてほしいと思うみちるも存在している。

 心臓の強い鼓動が、熱が、ほんの少しだけ移ってひかりの頬に灯ればいいのに、なんて浅ましくも願ってしまう。

 そろっと見上げたひかりは、しかしいつもと同じ顔色だった。

 ……まあ、いいけど。

 なんて意味もないのに強がって、みちるはひかりの向こうにある随分と高くなった空を見上げた。

 その時だった。

 急にひかりが手に込めた力が強くなって、みちるの心臓がさらに痛くなる。


「ど、どうしたの。ひかりさん」


 みちるの声は、思わず上ずっていた。


「あれ、何かしら」

「あれ?」


 ひかりが指さす先へ、みちるも視線を向ける。

 池の上に石造りでできたアーチ状の短い橋が架かっていて、それはT字のような変わった形状をしていた。

 池の端へ繋がっている下腹部から入れそうだが、橋の先の両端には少しだけ広いスペースがあるだけで、どこにも繋がっていない。

 両スペースには、やけに立派な鐘が一つずつ置いてあった。


「何だかテレビゲームのステージみたいね」

「ゲーム?」

「みちるはやったことがないのかしら。あかりさんは、男の子がやるようなRPGとか好きでよくやっていたけれど」

「そうなんだ。知らなかったな。それで、どの辺りがゲームっぽいの?」

「ああ、うん。こういうシーンではね、大体、両方の鐘を同時に鳴らす必要があるわけ。そうしたら、池の中からボスが出てきてバトルが始まるの」


 タンタンタンタタンタン、デデーンなんてみちるの聞いたことのない音楽をひかりが口ずさんだ。

 きっと昔、あかりがやっていたというゲームのBGMなのだろう。

 少し古臭いのに、どうしてかこう闘争心が燃え上がるような気分にみちるはなった。あかりの遺伝子が叫んでいる。やれー、やっちまえ、と。


「ね、ひかりさん、せっかく二人でいるんだからちょっと鳴らしてみようよ」

「別にいいけれど、怪獣が出てきたらどうするの? あたし、爬虫類とかダメなんだけど」

「大丈夫。その時はわたしが守ってあげる」

「そう。なら、安心ね」


 下らない冗談をつっこみ不在のまま交し合いつつ、二人は石橋へと足を踏み入れ、中央まで歩いてから手を離した。

 そこには看板が立っていて、男性は右へ女性は左へと書かれている。

 ここには二人の女性しかいないので、深く考えないままみちるは右へ、ひかりは左へと進んでいった。

 しっかりとした造りになっているので、二人とも恐怖を感じることもなく、あっさりと鐘のもとへと辿りつく。

 と、そこで女性側にだけはこの鐘が何の為にあるのかが書かれた説明文が置いてあったことにひかりは気付いた。

 本当に短い文章なので、意識せずとも数秒で読めてしまう。

 もちろん、書かれている内容を理解するのも然りだ。


「おーい、ひかりさん、いくよー」


 みちるが手を上げ、ひかりへと合図を送ってくる。


「ちょっ、ちょっと待って」

「えー、何? 聞こえない」

「だから、待ちなさい」

「聞ーこーえーなーい」


 カーンとみちるが鐘を打った。

 強い音が響いて、段々と薄くなっていく。

 とても美しい鐘の音だった。

 みちるを見ると、ほら、鐘を打って、というジェスチャーを送ってきている。早く早くと急かしている。

 あたしは何を動揺しているのだろう、とひかりは思った。

 これがどんなものであるのかということを知ったところで、どうしてうろたえる必要があるのか。

 それでも、いや、それなのに。

 紐を持った手が震える。顔が熱い。


「いっせーの、せー」


 みちるの合図で同時に鐘を打った。

 みちる側は勢いがよかったけれど、ひかりは力がうまく入らなくて、少しタイミングがずれてしまう。カ、カーン、という感じ。

 みちるを見ると、ダメダメと首を横に振って、もっと強くと合図をしている。

 ええい、ままよ。

 どうにでもなれと、ひかりはぎゅっと垂れている紐を握った。

 口の中で、みちるの声に合わせて言葉を紡ぐ。


「いっせーの」



 せー。



 カーン。



 二つの鐘が同時に鳴って、共鳴し世界に広がっていった。

 とても美しい音色だった。

 その音に耳を澄ませながら、説明文の文脈をひかりは思い出す。

 意中の人と同時に鐘を鳴らすことでその恋は叶い、二人はずっと一緒にいられる、と書かれてある。秘めた恋をしている女の子の為にあるおまじない。

 決して、自分のような人間の為のものではない。

 何より、みちるは親友の娘だ。

 分かっている。いろんなことを分かっているし、否定もできる。

 それでもあまりにロマンチックな鐘の音がそうさせるのか。

 あるいは、今日一日、朝ご飯を食べて、買い物に出掛けて、こうして鐘をついたりした何気ない時間が楽しかったからか。

 ひかりは思う。

 こんな日々がずっと続けばいい。

 池の中をわくわくと覗き込んだみちるは、魚か何かが跳ねてできた水滴にびっくりして、のけぞってお尻から倒れ込んでいる。

 やがて、ひかりが見ていることに気付いて、お尻を叩き立ち上がる。えへへへと笑いながら誤魔化しているが、耳まで真っ赤なことはひかりの位置からでもよく分かる。

 生まれて初めて抱くその感情を持て余すように、ひかりはみちるへと近付いていった。

 みちるもそのままひかりの元へ。

 さっき別れた橋の中央で、二人は再会する。


「さあ、帰りましょうか?」

「うん。ボスも出てこなかったしね」

「そうだったかしら?」

「むう。ひかりさんは意地悪だ」

「そうよ。大人って意地悪な生き物なの」


 当たり前のように、みちるはひかりへと手を差し出す。え、え、と慌てたようにみちるがひかりの顔を見上げ、おずおずと握ってくるから、ひかりは強く握り返す。


「ねえ。みちるって、唐揚げ作れたりする?」

「うん。大丈夫だと思う」

「じゃあ、作ってくれるかしら? 今日はそんな気分なの」

「え?」


 ぽかんとみちるが口を開ける。


「嫌?」

「ううん。違う。そうじゃなくて。えっと、えっとね。わたし、美味しいの作るから」

「どうしてそんなに嬉しそうなわけ?」

「だって」


 続く言葉を、みちるは呑み込む。作ってくれる、だって。

 家事はしなくていい、なんて言っていたひかりが、初めてみちるにした小さなわがまま。嬉しい、嬉しい。

 みちるの小さな体を破ってしまいそうなほどの歓喜があふれてくる。


「ね、ね。ひかりさん。早く帰ろう」

「あ、ちょっとそんなに焦らなくても」

「帰りに商店街寄ろうね」


 ぐいっとみちるはひかりの体を引っ張っていく。

 手を繋ぎ、肩を並べ、速度を合わせながら歩いていく。

 何かが確かに一歩分近付いていた。

 世界で一番美しい鐘の音が、二人の耳の奥でずっとずっと響き続けている。

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