第三話 灯りのともる部屋



「一宮主任、変わりましたね」


 ひかりがそう言われたのは、お昼休みのこと。

 半年前までは一人で食べていた昼食をこんな風に部下たちと肩を並べて食べるようになったのは、みちる特製のお弁当がきっかけだった。

 特別目を引くものではなかったけれど、基本に忠実で彩りよく、健康的なバランスも考えられ、なにより美味しい手作り弁当は、ひかりよりいくらか若い子たちの心を容易く掴んでしまった。

 食堂で弁当箱を広げてすぐに目ざとくキャッチされてしまい、美味しそう、からの、おかずを交換してくださいまでの流れはあまりに早く、気付けばいつも誰かしらが隣に座ってくるようになっていた。

 今日などは会議で遅れたひかりの席を確保しつつ、間に合うのかも分からないのに食べるのを待っていたほど。


「別に待たなくてもよかったのに。あたしが来るかなんて分からないでしょう?」

「でもでも、主任は来てくれたじゃないですかっ」

「それは、そうね」

「ね? 結果オーライって奴ですよぅ。それに一人じゃないですしぃ。ねぇー」

「ねー」


 まるで蝶や花のように軽やかな笑い声。

 それを見て、ふふっと思わずひかりが笑うと、Bランチを食べていた部下の一人が言ったのだった。



 一宮主任、変わりましたね、と。



 ひかりは咀嚼していた煮物をしっかりと楽しみ、呑み込んでから首を傾げた。

 よく味が染みている。今日の朝、慌てて作ったものではなく、少なくとも昨日から準備していたことが分かる。


「どこが?」

「あ、それ、わたしも思った」


 ひかり的には何も変わったつもりはないが、周りからは違って見えるらしい。


「だよね。タバコとか吸わなくなりましたし」

「それは、わたし的にはちょっと残念ポイントなんだけど。喫煙ルームでの主任、恰好よかったし。タバコを挟む指先とか、男の人よりセクシーよね」

「あら、あんた、そういう趣味があるんだ?」

「でも、そう思ったことくらいあるでしょう」

「実は、ちょっと」

「ほらー」


 きゃあきゃあと黄色く色付く声が、ひかりの変化を一つ、また一つと教えてくれる。

 タバコを吸わなくなった、飲み会への参加回数が減った、お弁当を持ってくるようになった。あと、表情が柔らかくなった、などなど。

 ひかりは元々タバコやお酒に依存するタイプではない。

 煙やアルコールによって、空っぽの何かが埋められるようなあのまやかしに似た感覚は嫌いではないが、そもそもは仕事をやりやすくする為に始めたものだ。

 女子トイレの鏡――そこは、男子禁制、女の聖域――にこそ女の子たちの真実が映っているように、喫煙ルームやお酒の場でしか語られないことは多い。

 一人で数時間悩むより、たった十分の喫煙時間の方が有意義だったりする。あの狭い喫煙室の灰色の煙の中には、たくさんの有益な情報が揺らめいているから。

 上司や部下と他愛ない話をしつつ、体に悪いが、たまらなく甘美な煙を吸い込むだけでいいのだ。肺を真っ黒にしながら、心も黒くなりながら、時に誰かを蹴落としていく。

 おかげで同期の誰よりもひかりは今、先頭を走っている。

 その武器を手放したのは、ひかりにとって少なくとも喫煙室の煙より大事なものができたからだ。

 当の本人は、ひかりさん、ほどほどにならお酒もタバコもしていいからね、などとひかりを気遣って言ってくれるが、ひかりとしてはみちるにタバコやアルコールの匂いがついたものなんて触れさせたくなかった。

 自分とは違って、綺麗なままでいて欲しい。

 そんな生娘みたいな理想を抱いてしまう。


「やっぱり、その恋人とかできたんですか?」

「違うわよ」

「えー、本当ですかあ?」

「こんなことで嘘をつかないわ」


 未だ疑うようにじっと見つめてくる後輩の視線を頬で感じつつ、ひかりは卵焼きを口にした。

 できたのは恋人ではなく、同居人だし、嘘ではない。

 それにしても、どうして彼女たちはこういう話題が好きなのだろう。

 愛だとか、恋だとかをひかりはよく分からない。

 格好をつけて気取っているわけではなく、街にあふれている恋の歌も、百万人が涙した恋愛映画にも生まれたから一度だって共感したことがない。

 そういう風に育った。

 いや、育てられた。


「じゃあ、トモさんにもまだチャンスがあるってことか」


 取り巻きの内の一人が、鮭の切り身をほおばりながら呟いた言葉だった。

 独り言のようでいて、その実、しっかりとひかりの耳に届くように計算されている。そういうのは女同士、よく分かる。よく分かったうえで、文句も言えず無視もできない。

 目に見えないこの〝空気〟という名前のルールは、時に憲法なんかよりずっと強固だ。


「どうして、ここで新橋の名前が出てくるのよ」


 二つ目の卵焼きを咀嚼しつつ、ひかりは返す。

 新橋智弘は、ひかりの後輩であり部下だ。

 ひかりが三年目の時に入社してきたから、かれこれ八年くらいの付き合いになる。

 上司とは別に指導役となる若い先輩社員が年の近い新人をマンツーマンでサポートするというメンター制度で、ひかりが担当することになったのが、この新橋だった。

 ひかりが先輩であるメンター、新橋が後輩であるメンティ。

 仕事のことやプライベートなことも相談できるように、一月に一度くらい面談と称しながらお酒の席も持った。仕事をし込み、人間関係を広げ、ミスのカバーに付き合った。

 結局、一年の制度が終わる頃、新橋はすっかりとひかりに懐いていた。

 案外と真面目で仕事のできる新橋のことをひかりも重宝していて、今ではひかりが自分の仕事を任せられる数少ない部下となっている。

 その新橋は現在、本来ひかりが向かうはずだった海外にある子会社へ三か月ほど出向している。二年くらい前から予定されていたものだったが、みちるのこともあり、さすがに長期で家を空けることができないひかりが、新橋に頼んだのだ。

 新橋は嫌な顔一つせずに頷いてくれた。

 帰ってきたら、うんと労ってやらなくては。


「だって、トモさん、主任のことずっと好きじゃないですか」

「懐いてはくれてるけどね。そんなんじゃないわよ。だって、あの子、彼女いるでしょう? 今は、えっと、受付の城ケ崎さんだっけ?」


 新橋はわりと頻繁に彼女が変わるので、ひかりはたまに混乱してしまう。

 それでも覚えているのは、変わるたびにひかりのもとへ新橋が報告してくるからだ。一宮主任、聞いてくださいよ。そのどこか拗ねたような、甘えるような声に、ひかりは、弟がいたらこんな感じなのかしら、なんて思いつつもう八年近くも耳を傾け続けている。


「今回の長期出張の件で別れたらしいです」

「嘘。あたし、それ聞いてないわよ」

「そりゃ、言えないでしょう。ただの出張ならまだしも、主任から頼まれたからいくことになった出張で振られたなんて」

「うーん。あたしのせいなのか。あとでフォロー入れておかなくちゃいけないわね」


 少しだけズレたひかりの心からの呟きに、周りにいた部下全員から同時に深いため息が漏れる。

 この人、あれだけ仕事ができるのに、どうしてこっち方面はこんなにポンコツなんだろう、と。

 ひかりだけがずっと首を傾げながら弁当を突いている。


「ちなみにですけど、トモさんが主任のせいで振られるのはいつものことですからね」

「え?」

「あの人、デート中でも旅行中でも、主任から電話が入るとホイホイ飛んでいっちゃうから」


 そう言ったのは、この話題を切り出してきた女の子。

 そう言えば、新橋と何年か前に付き合っていた女の子の中に、この子と同じ名前の子がいなかったか。


「もしかして」

「あ、やっと気付きました? そうです。わたしもトモさんを振った女の一人です」


 それを皮切りに、そこにいたひかりを除く五人中三人が、わたしも、と手を上げてきた。

 これでは手当たり次第ではないか。

 ひかりが目を丸くしていると、ふっと三人が柔らかく笑った。さっきまで学生のような空気をしていたくせに、今はきちんと年齢相応の雰囲気を纏っている。

 逆に、ひかりの方が子供のようだった。


「でも、別にトモさんを恨んだりとか、主任を逆恨みをしたりとかはしてないです。というより、できないんですよねえ。トモさんが本当に主任のことが好きなの、分かっちゃうから。大体みんな、怒りを通り越して呆れちゃうんです。そして、最後に応援してしまうんです」

「どうして、あたしにそんなことを言うのかしら」

「だって、このままだと主任は一生、トモさんの気持ちに気付かないと思ったから。仮にも一度だけ本気で好きになった男ですし、いつまでもウジウジしてて欲しくないじゃないですか」


 そんなことを口にする、自分よりいくらか年下の後輩の笑顔を本当に美しいと、思わずひかりは見惚れてしまう。

 自分が仕事ができることは自覚している。

 今の彼女たちの年の頃、ひかりは彼女たちの何倍もの仕事をこなしていた。このまま歩き続ければ、彼女たちが決して辿りつけない場所まで上れるだろう。

 それでも、ひかりが必死になって仕事をしていた時に、彼女たちは別の場所で、別の何かを積み上げていた。

 それは逆に、今のひかりでは辿りつけない場所に続いている。

 別に今さらだ、とは心の底から思う。

 愛だとか、恋だとか、やっぱりひかりにとっては遠い国での出来事のよう。

 だけど自分はこんなに美しく笑ったことがあるだろうか、笑える日がくるだろうか、と少しだけ考えてしまう自分も、ひかりの中には確かに存在していた。



 電車を降りて、掲示板の光に濡れた駅構内をひかりは抜けていく。

 改札口から続く人波に乗り、流れに逆らうことなく商店街の方へ。

 幼少時に住んでいた九州の田舎町とは違い、都心に近いこの場所では商店街も活気があるらしくシャッターの下りたお店など見つける方が難しい。

 不意に肉屋から聞こえてきた唐揚げを揚げる音に反応したひかりのお腹が、くうっと小さく鳴った。けれど、ひかりは軽くお腹を擦るだけで、顔を赤くすることはない。

 そんな小さな音に気付く人はいないからだ。

 不規則な足音が、掻き消してくれる。

 この町に、あるいは東京というこの国の中心地に初めてやってきた時、とても驚いたことをひかりは今でも忘れていない。

 商店街を歩くことすら、それなりのスキルとか経験が必要だった。

 みんながみんな、顔を上げず、スマホを見つめたり、音楽を聞いたりしながら呼吸をするような気軽さで歩いているけれど、田舎から出てきたばかりのひかりの目には中国雑技団の演目のようにすら映った。

 人波ができることなんて、地元ではせいぜい年に一度の夏祭りくらいなのだ。

 しかも、規模はこれの十分の一よりもさらに小さい。

 途切れることのない流れにえいっと入ることもできず、目当てのお店に入ることすら諦め、人にぶつかり、頭を下げ、端へ逃げるように移動しながら何とか商店街を抜けていた日々。

 きちんと呼吸することすら難しかったあの頃は、しかしもう遠い。

 今ではヒールでだって歩けるし、人にぶつかるヘマもしない。

 反対側にあるお店に入ることだって余裕だ。

 何年もかけて体に馴染ませた狭い空の下を、ひかりはいつものペースで歩いていく。

 商店街を抜けてからは、河川敷を横目に進み、スーパーにもコンビニにも目をくれず、数十年のローンを組んで買ったマンションへ。

 すっかりと暗くなった空に目を凝らすと、小さな星々の内のいくつかをひかりの目は捉えていた。

 小学校の授業で習った星座を思い出し探してみたけれど、光が淡すぎて難しい。

 町は明るく、人々が眠りにつくにはいささか早い。

 小さな星の光など、地表に落ちる前に全部呑み込まれてしまっている。

 その中で、ひかりがほっと無意識に息を吐いていたのはなぜか。

 天に繋がるような高いマンションの一角に、温かな光が灯っている。オレンジ色のそれが、ひかりの瞳に満ちて揺れる。

 決して特別なものなんかじゃない。

 その部屋の上にも、下にも、右にも、左にも、同じような灯りはある。だけど、半年前までひかりがその部屋の灯りを目にすることだけは決してなかったのだ。


「ただいま」


 誰にも聞こえないけれど、ひかりはそう呟いていた。


「ただいま、ただいま」


 練習するように何度も口にする。

 ただいま、と言うのも、おかえりと返ってくることにも、幼少期からそういう習慣のなかったひかりには少し気恥ずかしくて、どうしてもすんなり言うことができないのだ。

 あの灯りの下にいる少女の前では、保護者としてそんな恰好悪いところは見せられないから、こうして部屋に入る前に口の中に馴染ませておく必要があった。

 ただいま。

 たった四文字の何気ない言葉が、ひかりの歩くスピードを速くさせた。ただいま。胸を温かくさせた。

 何なのだろう、この感じ。

 胸に灯るその熱は、ひかりにとってはやっぱり妙に気恥ずかしくて、むずむずして、少し居心地が悪い。

 だけど、手放せと言われたら、即座に断ってしまうだろう。

 一人エレベーターに乗り、目当ての階で降りる。

 かつんと、ひかりの足音だけが響いて夜のしじまをざざっと波立たせる。

 かつん、かつん。

 こぎみよく奏でられていた音がやみ、ひかりはようやく部屋の前に着く。

 慣れた手つきでドアを押し玄関へ入ると、ふわっと柔らかな空気が顔を覆った。あ、暖かい。別に暖房を入れているとかそういうのではなくて、誰かの存在を肌で感じることができる類のもの。

 安心感、だろうか。

 秋用のコートへ、ひかりは深く顔をうずめる。だって、このままではニヤけている唇がみちるにばれてしまう。彼女が顔を出すまでの短い時間で、何とかなるだろうか。

 ならないだろうか。

 どうして笑っているのと尋ねられたら、何と答えればいいのか。

 だけど、目線を上げ、リビングの光が薄暗い廊下に伸びていることに気付くと、ニヤけていることなんてひかりはどうでもよくなった。それよりも早く、みちるに触れたい。

 光の奥にある扉の開く音がする。

 パタパタと、ひかりのものよりいくらか軽やかな足音が聞こえてくる。

 今日もまた制服にエプロンをつけた女子中学生が立っている。

 くりっとした大きな瞳。

 柔らかそうな頬。

 ひかりは手を伸ばし、その頬に触れ、ちゅっと小さく唇をつけた。

 とても自然な行為だった。

 みちるの頬が少し濡れる。すりっと親指でこすっておくと、少しこそばゆそうに目を細めていた。

 そして、今度はひかりが受け入れる番。

 ちゅっと小さな音が響くのと同時に、ひかりの額に熱く柔らかな唇の感触が残る。ああ、とひかりは思う。今らなきっと、自然に言える。


「ただいま」

「おかえりなさい、ひかりさん。ご飯、食べようと思えばすぐに準備できるけど」

「じゃあ、もらおうかな」

「うん」

「今日の献立は何?」

「今日はね――」


 小さな体が翻って、オレンジの光を目指していく。それを追いかけるようにひかりが雑に靴を脱ぐと、音で分かったのか、あー、っとみちるが声を上げた。


「ひかりさん、ちゃんと靴を揃えなさい」

「はいはい」

「はい、は一回」

「はーい」

「伸ばさないの」


 そんなやり取りをしている内に、ひかりの中から気恥ずかしさは消えていっていた。

 残るものは、中学生の女の子が自分を呼ぶ声と、それから、オレンジ色の温かな家の灯り。

 ただいま。

 おかえり。

 やっぱりたった四文字のありふれた言葉たちが、ひかりの足を軽くさせていた。

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