第二話 芽生え



「ほあ、あああ、ああああああー。やっちゃった」


 こつりと額を机に押さえ付けて、みちるは後悔の念をたっぷり込めた息を吐き出した。

 伏せた顔はほんのりと赤い。

 ひかりの唇の感触も、温度も、何一つとして覚えていないけれど、あのあまりに濃厚だった二秒ははっきりとみちるの中に根付いて、隙を見てはフラッシュバックしてくる。

 それがジェットコースターのようなすごい速さで、みちるの感情を上げたり下げたりしていた。

 じんとしびれるような幸福の後に、ふつふつと煮えたぎった後悔が押し寄せてくる。


「うう、何であんなことしたんだろ」


 学校の、古臭い木製の机はひんやりとしていて、頭を冷やすのにちょうどよかった。

 何十年も前の先輩から受け継がれてきたそれには、刻まれた歴史が今もなおしっかりと目に見える形として残っている。

 具体的に言うと、カッターの切り傷。コンパスの針で貫通された小さな穴。マジックで書かれた〝じゃあな〟の男っぽい雑な文字は、少しかすれてしまっている。みちるが爪の先でこすり続けると、〝じ〟の点々がとれて、〝しゃあな〟になった。

 ううん。これでは意味が分からない。このまま〝あ〟まで消してしまおうか。確か、アニメのキャラクターにそんな名前の女の子がいたはずだ。

 なんて下らない現実逃避にみちるは意識を割きつつ、カッターの切り傷をひとさし指でなぞっていると、破片がささったのかちくりと痛んだ。確認することもなく親指でさすってみる。

 刺さったところが浅かったらしく、木片は、案外簡単にぽろりと外れていった。

 ちぇ。少しくらい気を紛れさせてくれたらいいのに。

 あるいはわたしの悩みも後悔も、こんな風にぽろりと剥がれ落ちてくれればいいのに。

 みちるはずっと指の腹をこすり続けている。

 はあ。

 と、もう数えきれないくらい零したため息と同時に、丸めた背中に何かが圧し掛かってきた。柔らかな感触は、みちるのそれよりもずいぶんと豊かだ。みちるの胸は、せいぜいぷにっという感じだが、背中のものは、むにょんって感じ。

 しかし不意にみちるの頭の中に浮かんでいたのは、後ろにいる誰かのものじゃなくて、昨日の夜に背中に感じていた、より豊かな同居人の柔らかさ。

 自分のものとは全く違う成熟した大人の体。いつもより近い声。吐息がうなじにかかったあの時の、なんとも言えない感覚を思い出すと、心臓が一度だけ大きく弾んだ。

 強く、とても強く。

 トクン、と。

 ああ、とみちるは思う。

 昨日から、何か変だ。

 その何かは分からないままだけれど。

 まあ、今はそれよりも――。


「和ちゃん、重い」

「えー、ひどくない?」

「ひどくないよ。事実だし」

「ちぇー」


 ぶつぶつとした小さな文句たちを引き連れて、柔らかさが遠くなっていく。

 同時に、みちるもまた上半身を起こす。無理やり現実に戻されたような気がして、みちるはほっとしたような残念なような、不思議な気分。

 するとみちるの顔を見て、いきなり級友がぶふっなんて吹き出した。ケタケタとみちるを指さし笑い転げているのは、クラスメイトの月城和葉。

 長い手足に、ボーイッシュな短めの髪がよく似合っている。

 胸は学年で多分、一番大きい。

 笑い声の大きさは確実に学年一だ。

 中学二年の三学期という微妙なタイミングで転校してきたみちるに、いの一番に声をかけてきた人物だった。


「めっちゃ痕がついてる」

「うそ。どこ?」

「ここ」


 和葉の指が、みちるの額に触れた。

 そっと痕をなぞっていく。

 触れられたところに神経が集中して、熱くなっていく。

 ほっそりとした和葉の指はひかりのものに少しだけ似ているような気もしたけれど、みちるの胸はときめなかない。心臓も平時のまま、規則正しく動いている。

 システム、オールグリーン。


「休み時間中に元に戻るかなあ」


 隠すように、みちるは前髪を下ろした。


「大丈夫じゃない? 知らないけど」

「無責任だなあ」

「ぬははは。だって、わたしに責任ないもん。みっちーが勝手に黄昏てただけだし」

「別に、黄昏ているわけじゃないよ。落ち込んでるの」

「落ち込んでるのかー。そっかー。実力テストの結果が悪かったとか?」

「そっちはちゃんと実力通りの結果が出てたから無問題」


 言いつつ、机の中を右手で漁って長方形の紙を探し当てる。

 先ほど返ってきたばかりの夏休み明けの実力テストの結果だ。


「ん」


 中指と人差し指で挟んで、みちるはそれを和葉に渡した。

 どれどれ、と和葉が成績表を検め始める。

 平均点は九十をオーバー。学年順位は六番。

 そんな高得点を威張るわけでもなく嫌味なく見せられるのは、目の前の相手がこれと同じくらいか、なんならこれより高い点数を取っていると知っているから。


「和ちゃんもいつも通りでしょう?」

「まあね、と言いたいところだけど、五問も間違えちゃった。朝は少し眠かったからなあ」


 長方形の紙が二枚になって、みちるへと戻された。一枚はみちるの分で、もう一枚は和葉のものだ。

 みちるは自分の方を机の中に戻して、和葉の成績表だけを眺めた。

 堂々の総合順位一位が刻まれている。

 五教科それぞれで見ても、三教科は満点で一位。

 二教科のみ、二位だった。

 どちらもみちるが一位を取っていたもの。


「数学と英語か」

「そう。その二つだけ、みっちーに負けたみたい。次は勝つから」

「それ、わたしのセリフだと思うんだけど」

「何で?」


 本当に分からないって感じで、和葉が首を傾げた。

 自分もなかなかの負けず嫌いではあるのだが、この子も相当なものだ、とみちるは思う。まあ、だからこそ友達になれたのだろうけど。

 普段から勉強もしないくせに、低い点数を嘆き、平均点を上げる自分たちを妬んでくる人たちを、みちるも和葉も好きではなかった。文句の一つでも言う暇があるのなら、日頃からしっかり積み重ねておけばいいのだ。


「いや、それでこそ月城和葉って感じだね。まあ、わたしも負けないけど」

「そうこなくちゃ。で、テストの結果じゃないなら、なんで落ち込んでるの?」

「女子中学生にはいろいろあるのさ」


 んん、とみちるは体をぐぐーっと伸ばした。

 日々、女の子らしく、柔らかく丸くなっていく体。紺色のスカートから伸びる足は、しかしまだ子供の色を濃く残している。大人なのか、子供なのか。

 まあ、十中八九子供なのだけれど。あ、なんか今、ちょっとO脚ぽい。治さなくちゃ、とみちるは足にぐっと力を入れてみる。


「えー、何それ。わたしも女子中学生なんですけど」

「だから――」


 みちるは足に力を入れたまま、和葉の目をしっかりと見た。自分の姿が、笑っている顔が、瞳に映っていることをきちんと確認してから声のトーンをわざと変える。

 楽しげな雰囲気を崩さない程度に、それでも一段だけ低く、ゆっくりと、言葉を紡ぐ。

 もちろん、目だけは笑わないままで。


「いろいろあるでしょう?」

「そっか。それもそうだ」


 和葉もみちるも女子中学生で、こういう〝空気を読む〟ということはまさに呼吸をするくらい容易いことだった。聞かないで、なんて直接的な言葉を口にしてはダメなのだ。その一言は空気を壊してしまうから。

 別の言葉で、仕草で、纏う雰囲気で逆に相手に問いかける必要があった。

 こういう時、あなたはどうすればいいのかしら、と。

 空気を読んだ和葉は、きちんと話題を変えてくれた。


「じゃあ、テストが終わった記念に駅前の喫茶店にいかない? 新作の特製パフェが美味しそうだったよ」

「いいねって言いたいところだけど、ごめん。やめておくね。仕事が一段落したみたいで、今日からひかりさんが早く帰ってくるの。晩御飯の準備しないと」

「ひかりさんって、みっちーがお世話になってるっていう人だっけ?」

「そうそう」

「ちなみになんだけど」

「うん?」


 話し始めてから和葉はいくらか言葉を探したようだったけど、うまい言葉が見つからなかったのか、結局疑問を何にも包まずに口にしていた。


「そのひかりさんって人、怖いの? 晩御飯準備してなかったら怒られるとか」

「ううん。逆に家事とかあんまりしなくていいって言われてる」


 みちる的にはもう少し頼って欲しいくらいなのだが。


「外ではバリバリのキャリアウーマンなんだけどさ、家では一切やる気を出さないタイプらしくて。服は着られればいい。ご飯はお腹が膨れればいい。掃除も月に一度くらい掃除機をかければいいって言ってるよ。平日は仕事であんまりいないし、休日も大体寝てるから部屋も汚れないしね」

「じゃあ、なんでみっちーは家事をやってるわけ? 大変じゃない?」

「まあ、大変だなとは思う時もあるけど」


 お世話になるからせめて、と半ば義務のようにみちるは家事を引き受けた。それまで家事なんてろくにしたことなかったけれど、少しずつ学んでいった。

 幸いなことに、情報収集も、基礎を固めることも、応用も、コツをつかむこともみちるは得意だった。勉強と一緒だ。

 先人たちが知恵を絞り、便利で効率的なものをたくさん作っている。

 あとは、それを学び利用するだけでいい。

 半月も経過すれば、みちるは一通りの家事を高水準でこなせるようになっていた。

 今ではひかりの弁当まで作っているほど。

 そして、これはみちるにとっても意外だったのだけれど、家事の一つ一つが案外楽しかったりするのだ。

 工程は確かに地味だし面白味はないけれど、ふとした時、嬉しく思うことがある。

 シャツにアイロンをかけている時、ちょっと味見したお味噌汁が美味しかった時、寝ぼけたひかりをベッドから下ろして体温の残った布団を干す瞬間。


「けど?」

「楽しかったりするかも」

「えー、どの辺が?」


 ひかりの顔を思い浮かべたまま、みちるは続ける。


「んー、例えば。ふかふかの布団で寝ると、次の日の朝、ひかりさんがやたらと元気だし、ご飯を作ったらひかりさんもりもり食べてくれるし、掃除したところもちゃんと気付いてくれるし、そういうことがね。楽しいの」

「なんだか母親みたい」

「わたし、まだ中学生」

「じゃあ、恋人だ!」


 和葉が軽くチョップを入れてくる。痛くはないけれど、痛っとみちるは声を上げておいた。友人同士のスキンシップだ。

 こういうやり取りが人間関係を円滑に回す潤滑油になる。

 頭をさすりながら、みちるはすとんと胸の中に何かが綺麗に収まっていくのを感じていた。ずっとずっと悩んでいた問題が、何かのきっかけで解けていく時の爽快感によく似ている。

 ああ、そうか。

 あまりに単純すぎて気付かなかったけれど、答えはすでに出ていたのだ。

 あの二秒。

 世界で最初の特別なキスをした時点で。

 みちるにとってひかりは、同性でも、母の親友でも、自分の後見人でもなくて、ただの世界で一番好きな人になっていたのだと。

 今日、たくさん零したため息の中で、一際深い息を吐いた。きっと、これが本日最後のため息になるのだとみちるは分かっていた。

 だって、昨日から続いていたモヤモヤが全部晴れてしまったから。

 もうきちんと呼吸ができる。

 酸素が肺に届く。


「ありがと」

「え?」

「和ちゃんはやっぱり頭がいいなあ」

「いやいや。今、何を納得したの? この一瞬ですっごいすっきりしましたみたいな顔してるけど、みっちーの思考回路についていけてないよ、わたしは」


 ひひっと笑うみちると、首を傾げる和葉。

 さて、宴もたけなわではございますが。

 なんていう風に、そのタイミングで授業開始のチャイムが鳴った。



 放課後――。

 いつものように駅前で和葉と別れたみちるは、そのまま寄り道せずに岐路へついた。

 大体、徒歩で十分くらいだ。

 秋の入りで夕暮れはいくらか早くなったものの、中学校が終わる時間に日が暮れてしまうことなどそうそうない。

 一秒毎に長く伸びていく影を横目に、みちるは家路を歩いていく。


「恋か」


 一人になったみちるは、辺りに誰もいないことを確認してから呟いてみた。


「わたしはひかりさんが好き」


 言葉にすると、あやふやだった感情の輪郭がはっきりして、重さとか手触りとかが分かるような気になって、感情が膨らんでいく。

 気を抜けば、このまま空へと飛んでいってしまうのではないかと錯覚してしまいそうになる。

 もちろん、そんなことがあるわけないことはみちるだって百も承知。

 トントンとステップを踏んでいた足は、不意に現実へと引き戻されて、次第に速度を緩めていった。みちるはまだ中学生だけど、中学生なりに知っていることがある。

 ひかりがみちるの気持ちに応えてくれることは、きっとないだろう。

 正確に言えばゼロではないけれど、限りなくゼロ。

 彼女は自分と違って大人だし、もしかしたら彼氏だっているかもしれない。そもそも同性だし。お母さんの親友だし。

 恋人になれたら最高だけど、今は一緒にいられるだけでいいやと、みちるは自分の気持ちに蓋をする。

 一緒に暮らして、唇でのキスではないけれどキスを交わして、そんな日々ができるだけ長く続けばいい。

 その為にはこうやって宝物みたいな気持ちを大事に自分の奥底に仕舞い込んで、たまに眺めては満足するだけにとどめておかなくてはいけない。辛いだろうな。だって、考えるだけでこんなにも胸が痛い。

 光が強い分だけ、闇もまた濃かった。

 果たして、自分にできるだろうか。

 それからもう一つ。

 きっと、こちらが重要。

 ひかりの本当の意味での家族にならなくては。

 一緒に暮らせるのは、甘く見積もっても高校を卒業するまでだ。

 もし、ひかりが結婚するなんてことがあれば、もっと早くこの生活は終わってしまう。ひかりの意志を無視してまで、一緒にいようとは思わない。

 だから、ひかりにずっと一緒にいて欲しいと思ってもらえるような存在になりたい。

 体は無理でも、心だけでも。

 そういう存在をきっと、家族なんて呼ぶのだ。

 しかし、現状、みちるは少しだけひかりとの距離を感じていた。心が一番近かったのは、おいで、と手を差し伸べてもらったあの日。両親の葬式の時だった。

 風が吹くと、みちるの髪が揺れた。さわさわさわさわ。雑草が揺れる音がした。スカートが太ももの上を擽っていた。

 吸い込んだ空気は少し冷たくて、肺がちくりと痛んだ。

 今の中学の制服をみちるが着るのも、あと半年。

 すぐに高校生になってしまう。

 和葉のものとは違って、みちるの制服もローファーもきっと綺麗なまま卒業を迎えてしまうのだろう。

 新品は好きだ。

 綺麗なものも好きだ。

 だけど、制服とかローファーとか、学校のカバンなんかは少しくらいくたびれていた方が、みちるの好みだった。なんだか気恥ずかしいのだ。

 新参者、というか。

 三年の教室の空気に、ぴかぴかの制服は馴染まない。わざと汚してみせても同じこと。ひたすらに時間をかけなければ、みんなと同じにはなれはしない。

 そして、そんな時間はもうない。

〝みんな〟とみちるは同じになれない。

 やがて、みちるは足を止め、空を見上げた。

 夏と秋の境界線のような色をした青に、二人が暮らしているマンション〝マイ・ディア・ガーデン〟の屋上が刺さるように伸びている。

 二人の住む部屋に、灯りがついている様子はない。

 エレベータでさっさと上り、灯りをつける。

 ああ、この部屋も同じだ。

 まだ何一つとして馴染んでいないではないか。

 両親と暮らしていたアパートから持ってきた机も、椅子も、ベッドも、どこか異物のようにくっきりと空間に浮かんで漂っている。

 そして、これが一番不可解なのだけれど、それはみちるのものに関してだけ言えることではなかった。部屋の主たるひかりやひかりの持ち物もまた、この部屋に馴染んでいない。

 ホテルの一室みたいな感じ。

 住んでいる人の顔が見えてこない、伽藍の部屋。

 着替えすら済ませずに、財布とエコバッグだけを手にして、再び外へとみちるは出ていった。

 たくさん考えなくてはいけないことはあるけれど、今は、夕ご飯の買い出しが先決。頭の中を主婦モードに切り替える。

 お腹がすいていては何もできない。

 何より、仕事でクタクタになって帰ってきたひかりを万全の状態で迎えてあげたい、そう思うから。

 不確かな未来より、ひかりの空腹の方がみちるにとってはずっと大事だ。

 少し寒くなってきたから、温かいものでも作ろう。そうしよう。

 暗くなるまでに戻ってきたいな、とみちるはスーパーへ進む足を速める。

 だって、ひかりが帰ってくるのはすっかりと日が暮れてしまってからだ。

 さっきの自分と同じようにマンションを見上げたひかりの目が、二人の部屋の灯りを捉えたらいい。

 多分、そういう積み重ねこそが、あの部屋を本当の意味で自分たちの庭にしてくれるから。

 みちるは、そう信じている。

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