第一話 二人の日々



 十二月も終わりの足音が聞こえ始めた、一際寒いとある冬の日。

 珍しくみちるの住む町に雪が降った。

 九州の田舎町であるこの場所に雪が積もるのは、一年を通してせいぜい二日くらいなもので、朝食を取りながら、珍しいねと一ノ瀬一家は口を揃えた。

 遠くそびえる山々のてっぺんには、すでに白いデコレーションが施されている。

 厚い雲が太陽を隠し、世界が空と同じ灰色で覆われていた。家から一歩外に出さえすれば、みちるの呼吸が、声が、言葉が、白く染まって溶けていく。


「いってらっしゃい」

「いってきます」


 言いながら、いつものように母はみちるの頬にキスをした。

 氷が張り付いているかのように冷たいみちるの頬に、柔らかな感触と熱だけが唇の形をして残った。

 堅実で真面目なみちるの父はしっかりとスタットレスタイヤに履き替えていたし、わき見運転なんてしなかっただろう。だけど、事故は起こすこともあれば、巻き込まれることもある。

 運命とか、現実とか、そういうものが襲ってきたら、人に抗う術などないのだ。

 精々できるのは、理不尽を嘆くことくらい。

 声が枯れ果てるまで泣いて、叫んで、少しでも悲しみを遠ざけて心を守るしかない。

 買い物に出掛けた両親を見送ってから、二時間が経過した頃。

 一本の電話がみちるの背中をトンと押して、絶望が煮えたぎった地獄の窯へと落とした。一ノ瀬みちる様ですか。お父様とお母様が事故に遭い――。

 するりと手の中から滑っていった受話器が硬い音をたて床に弾んだ途端、みちるの視界は真っ黒に染まっていた。

 それからしばらくの間、みちるの頭はうまく物事を考えることができなかった。考えることを放棄していた。

 誰に、どんな手段で、どんな話し方で絶望を聞かされたのかすら、今となっては思い出せない。

 ただただそれまで自分を囲っていた幸福な世界が壊れていく音に耳を澄ませ続けるだけ。

 時間がぬるりと粘度の高い物体となって、体に張り付いているかのように遅く感じられた。しかし、ふとした瞬間に顔を上げると、時計の針はいつの間にか何周も回っていたこともある。水切りの石ころが水面に作る波紋のように途切れ途切れの時空の中で、気付けば真っ黒な服を着た名も知らぬ大人たちに囲まれながらみちるは両親を見送っていた。

 神妙な顔をして並ぶ参列者も、お坊さんのお経も、台の上でいつものように笑っている両親の顔も、気遣わしげに語りかけてくる名前すら知らない親族たちも。

 全てに現実感がないまま。

 指を伸ばせば、あるいは頬をつねれば消えてしまいそうに思えるのに、現実は強固で消えていってくれない。

 分からないよ、誰のところにも届かない声でみちるは呟いていた。何もかもが分からない。


「あんた、あたしと来る?」


 そんな声が空から降ってきたのは、父と母が骨となり、みちるの小さな体より小さな箱の中へ全部収まってからだった。きりっとした強い、何よりかっこいい感じの声だった。

 声の方に顔を上げると、とても綺麗な人がみちるを見ていた。

 別れの日だから黒を纏っているだけなのだろうけど、彼女には黒がよく似合っていた。夜の、どこか恐怖すら抱かせるような美しさをかき集めて人の形にしたら、きっとこんな風になるのだろう。

 話はどうやらみちるの引き取り先についてのことらしい。

 少し離れたところで、大人たちがちらちらとみちるを見ながら話していることには気付いていたが、ずっと無視を決め込んでいた。どうでもいいし、誰でもいい。

 自分は一人なのだ。

 両親はもうおらず、祖父母も他界している。

 親戚付き合いが熱心な方ではなかったから、よく知っている親族はいない。

 まだ子供であるみちるにとって必要なのは、か細い血の繋がりなんかより、人との濃い絆であるというのに。

 事実、声をかけてくれたその女性のことも、みちるはよく知らない。


「あの、あなたは?」

「ああ、そっか。覚えてないわよね。前に会った時、あんたはまだ日本語すら話せなかったし。ばぶーとか、きゃうーとかって懸命に笑ってたわ。ああ、えっと話が逸れちゃった。あたしは、そうね。あんたのお母さんの妹分というか、まあ、友達みたいなものかな」

「妹分? 友達?」


 何となく話くらいは聞いたことがあるような。

 えっと、確か。


「本当は声をかけるつもりはなかった。だけど、あれを見たらそうも言ってられない。あたしも似たような経験をしたことがあるし。なにより、あかりおねえ、ううん。あかりさんにはたくさん助けてもらったから。今のあたしがいるのは、彼女のおかげなの。だから、これは恩返しの一つ。と言っても、強制するつもりはないわ。選ぶのはあんたよ。流されないでしっかりと考えて、ちゃんと選びなさい。いつか後悔を少なくする為に」

「後悔しない為じゃなくて?」


 女性は笑った。

 まるで、幼いわね、なんて言われているような気がした。


「それは無理だもの。何をしても、何を選んでも、後悔はするのよ。人はそういう生き物だから。あたしたちにできるのは、せいぜい未来の自分に恨まれないように日々を精一杯過ごすことだけ」


 びしっとした話し方は、みちるにとってどこか新鮮だった。

 他の大人たちはまるで腫れ物にでも触るみたいにみちるに声をかけてきたというのに、彼女からはそんな気遣いすら感じられない。いや、というより、むしろ。


「……一つ教えて下さい」

「何?」

「あなたは、泣きましたか?」


 お母さんが死んで、お母さんの為に泣きましたか? 泣いて、くれましたか?

 他にも聞きたいことはあった。聞かなくてはいけないことも。それでもみちるが口にしたのは、そんな疑問。

 今のみちるにとって何よりも大切なこと。


「……悪いけど、あんたの置かれた環境とか、あんたのお父さんの為には一滴も涙を流していない。だって、よく知らないんだもの。だけど、あかりさんに関してだけは少なくともあんたと同じくらい泣いたと思うわ」


 聞いた瞬間、みちるは思った。

 この人がいい、と。

 この人でいいではなく、この人でなくてはダメなのだと。

 だって、彼女の声は雄弁に語っていたから。

 誰よりも大人な雰囲気をしているのに、纏う感情はまるで子供のようにみちると張り合っていた。

 悲しいのはあんただけじゃない。あたしも、すごく悲しいのよ、と。

 同じ悲しみを持っているこの人となら、きっと歩いていける。

 血よりももっと濃い絆が、死者の空白という形で二人を繋いでいた。

 ひひっと笑い声が聞こえた。

 誰の笑い声だろうとみちるは辺りを見回したけれど、誰も笑っている人はいなかった。逆に不気味そうにみんながみんな、みちるを見ている。どうしてだろう。

 答えは、目の前にいた女性が教えてくれた。

 あんたよ、と胸の付近をトンと突いてきたのだ。

 ちょうど、心臓のあるところ。

 時間がゆっくりと流れ出していく。

 きちんと鼓動を刻み始める。

 くすくすと笑い続けるみちるを、親戚たちの不謹慎なものを見る目がずっと射抜いている。きっともう、みちるを引き取ってあげるという奇特な人間はいないだろう。だけど、ダメだ。止まらない。笑い声が漏れる。

 何がおかしいのか分からないのに、笑ってしまう。

 そんなみちるに対して、目の前の女性だけが一緒になって笑ってくれた。

 二人は、ずっとずっと笑っていた。

 少なくとも、二人を除く全ての人間にはそう見えた。

 だけど――。

 二人にとってお互いの笑い声は、泣き声にしか聞こえなかった。二人は笑った。どちらが先に天国へ悲しみを届けるのか、競い合うように笑い続けた。

 一頻り笑ってから、みちるは尋ねた。


「お姉さん、名前を聞いてもいい?」

「あたし?」

「そう」

「お姉さんなんて年じゃないけどね。あたしは一宮ひかり」

「じゃあ、一宮さん。わたし、一宮さんのところでお世話になろうと思うの。いいかな」


 尋ねると、ひかりはにっと笑った。

 ちゃんとした笑顔だったことに、みちるはほっとしていた。


「いいも何も、あたしは自分で選んであんたに声をかけたの。おいで」


 差し出された手を、自分の意志でみちるは掴みとる。


「あ、でも一つだけ。一宮さんじゃなくて、ひかりって呼んで。苗字、嫌いなのよ」

「分かった。ひかりさんね」

「そうよ、みちる」


 繋いだ手に、どちらかともなく力を込める。

 どうしてか冷たいものと思っていたひかりの手は、思っていたよりもずっと温かった。そのことが、みちるは嬉しかった。


   φ


「ほら、起きて。ひかりさん」


 声に誘われて、ひかりは目を開く。ライトの眩い光を、瞬きすることで瞳に馴染ませていく。満ちて、揺れて、たゆたっているものが、焦点が合うにつれて像を結ぶ。

 光は一人の女の子の姿をしていた。

 まあ、なかなかに可愛らしい。でも――

 制服にエプロンなんてマニアック過ぎるんじゃないだろうか? しかも女子中学生なんて。靄のかかった思考でひかりはそんなことを思う。

 ああ、これ。あたしが男だったら犯罪になるのかしら。

 三十二歳、独身。女子中学生と二人暮らし。制服にエプロン。ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう。数え役満までは、あと何役必要だったか。

 指折り数えていると、


「しょうもないこと考えない。晩御飯もう少しでできるから、ひかりさんはシャワーでも浴びてきて。どうせ帰ってすぐにバタンキューだったんでしょう?」


 言われて、ひかりはのそりと上半身を起こした。

 二つの顔の距離が近くなる。

 それでもキスするにはいくらか遠い。

 あと少し、近付かなくては。


「何よ、しょうもないことって」

「詳しくは何とも。でも、ぼうっとしてる時のひかりさんってわたしが考えている以上に下らないこと考えてるんだろうなって、最近分かるようになってきた」

「それはいい成長なのかしら、悪い成長なのかしら」


 どうも悪い成長のような気がする。

 どうしよう。あかりさんに顔向けできないではないか。


「違うよ。ひかりさん。これはね、ひかりさんのことが知れたっていう嬉しい成長なんだよ。それ以上でもそれ以下でもないよ、きっと」


 ひひっと笑うみちるが台所の方へ戻っていこうとするのを、手を伸ばしてひかりは引き留めた。思わず掴んだ手首はあまりに細い。手の皮膚に馴染む艶や張りもひかりのものとは違っている。

 同じ人間、同じ性別。

 違うのは年齢くらいなものか。

 かつてひかりが持っていたもの、失くしてしまったもの。

 まあ、今さら惜しいなんて思わないけれど。


「ちょっとちょっと、おかえりの挨拶は?」

「……あれ、してなかったっけ?」


 なぜだかみちるの声は早口だった。

 不自然にひかりの方へ顔を向けもしない。


「してないでしょう。今、起きたばかりだし」

「……そっか、そっか」


 すすっと忍び足でみちるが近寄ってくる。やっぱり顔をこちらに向けない。と、みちるとの距離が再び近くなるにつれて、ひかりには分かったことがある。


「あんた、もしかして」


 ひかりが尋ねようとすると、途端にみちるがぎくりなんて音が似合いそうな感じで不自然に体を跳ねさせた。

 それが契機になったのか、みちるは子どものようにバタバタと暴れ出し、視線をぐるりとさまよわせ、右を向いたり左を向いたり下を向いたりしている。

 やっぱり、前だけは向かないけれど。


「ち、ちち、違うからね。そう、違うの。あれは、なんていうか、その。とりあえず、何でもないの」

「何でもないって。でも、あんたすごく顔が赤いわよ。それに手首だって熱いし。本当に風邪じゃないのね? 無理して我慢してるんじゃないのね?」

「へ? 風邪?」


 きょとんとみちるの動きが止まる。


「熱は測ったの?」


 再度ひかりが尋ねると、みちるは少し考え、


「……風邪じゃないと思う」


 と小さく呟いた。

 だから、ひかりもその言葉を信じることにした。

 みちるはそういう時に我慢する子じゃない。

 あかりはそういう風にしつけている。

 わがままというわけでは、決してない。我慢して、耐えて、あとで倒れてしまった方がより心配をかけることを、みちるがちゃんと理解しているだけ。頭のいい子なのだ。


「これは風邪なんかじゃないよ、多分」


 自分でもよく分かっていないようだったが、まるで言い聞かせるように、もう一度だけ、みちるは言った。


「そう。なら、いいわ。じゃあ、せーのっと」


 ぐいっとそのまま腕を引っ張ると、みちるは体勢を崩し、ストンとひかりの腕の中に納まった。小さな体。白い肌。やたらと高い体温。未成熟な何もかもが全部腕の中にある。

 今から、ここにキスをするのだ。

 かつて、幼かった自分にあかりが何度もしてくれたように。


「ただいま」


 小さく告げて、ひかりはみちるの二の腕に優しく唇をつけた。

 痕になるほど深くもなく、長くもない。マーキングをするみたいに、強くする必要はない。ただのあいさつなのだから。

 それは二人の約束。

 ひかりにとってのあかりがそうであったように、みちるにとっての母がそうであったように、その空白によって繋がれた二人は、彼女にしてもらったみたいにあいさつ代わりのキスを互いに重ねる。

 手に、頬に、額に。

 特別な一人としかしてはいけないと禁じられている、唇以外の場所に。

 それでも、みちるは、ひゃう、なんて奇声を上げた。


「ん。んんっ。ちょ、ちょっと、ひかりさん。くすぐったいよ」

「えー、みちる、敏感すぎない?」

「そんなことないよ。ひかりさんがいきなり変なところにするから悪いの」


 言いつつ、みちるはぐるりと体の向きを変えて、


「おかえり、ひかりさん」


 首筋に噛みつくようなキスをした。寒気のような、びりりとした電流に似た何かがひかりの体を駆け抜ける。

 ひゃう、っとひかりは先ほどの誰かと同じような奇声を上げていた。

 思わず首に手を伸ばす。

 痛みはないから、傷もできていないはずだ。

 それでも、じんとした熱だけは籠っている。

 なかなか溶けていかない。


「ほら、ひかりさんも変な声を上げてるじゃない」


 勝ち誇ったように笑う親友の形見は、どうやら負けず嫌いであったらしい。

 それにしても、ひゃう、なんて少女のような声を出したのは何年振りだろう。

 少々、いや、かなり恥ずかしい。


「あとね、ひかりさんの顔も今、真っ赤だからね」


 それだけ告げて、みちるはさっさと離れていった。重さが、体温が、柔らかさが遠くなっていく。どうしてかひかりにはみちるが楽しげに見えた。

 彼女の太ももをこするように揺れるスカートの動きを、ひかりの目が追う。

 もう何年も履いてないっけ。学生服だけじゃなくて、普通のスカートもだ。そもそもスカートというものが、自分に合うなんて思ったことがない。似合う似合わないじゃなく――もちろん、似合いもしないのだけれど――、性分の問題。

 だって、落ち着かない。

 どうしてあんな薄い布で、世の女性は自分の身を守れると考えられるのだろうと、ひかりはいつも不思議に思っていた。


「ひかりさん。シャワー」

「ああ、はいはい」

「はい、は一回でいいよ」

「はーい」


 わざと伸ばしていうと、みちるが、もう、と呆れた声をあげた。


「ひかりさんって結構子供っぽいところがあるよね」


 そんなセリフこそが大人をマネしての背伸びであり、そのことに気付いてすらいないみちるの方が子供っぽいことは、さすがに言わないでおいた。みんな、そうやって大人になっていくのだから。

 ひかりも多分、そうだった。

 立ち上がり、リビングから出ていこうとすると、背後で鍋の蓋がカタカタと動く音がする。音に温度なんてないはずなのに、どうしてかそれをひかりは温かく感じていた。

 ひい、ふう、みい。

 ひかりはもう一度、指を折って数えてみる。

 三十二歳、独身。女子中学生と二人暮らし。制服にエプロン。二の腕にキスをし、首にキスを返された。太ももを撫でるスカート。鍋蓋の温かな音。小さな体、高い体温。負けず嫌いな誰かの勝ち誇った声。十三役。ああ、そうだ。十三役で数え役満だ。上がりだ。

 だったらきっと、これは、この生活は、そう悪いものでもないのだろう。

 そんなことを思いながら、ひかりは硬くなった筋肉をほぐすように、一度だけ腕をぐるりと大きく回した。

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