ひかりがみちる、ふたりの庭で/毎週水曜・日曜更新!

葉月 文/電撃文庫

プロローグ ファーストキス



 ――キスをした。


 この瞬間まで、一ノ瀬みちるにとってその行為は決して特別なものじゃなかった。

 彼女の母親はいわゆるキス魔という奴で、朝のあいさつからおやすみの子守歌代わりまで、みちるの唇以外のいろんなところにキスをしたものだ。

 当然、幼かったみちるはキスという行為はそういう類のものであると勘違いしてしまい、母を真似て両親や仲のいい友人たちの、頬に、額に、手の甲に気軽に唇を重ねてきた。

 そんな悪癖は彼女が小学校に上がる少し前、いろんなことの区別がつくようになるまで続いた。

 ただし、それは外での話。

 みちるが小学校を卒業し、中学生になってからも母からのキスはずっと続いていた。おはようのキスをされ、いってきますのキスをせがまれ、ただいまと同時に唇を押し付けられ、おやすみのキスと共に瞳を閉じた。それから、そう。

 交通事故に遭った母に向けたさよならも、みちるからの頬への短いキスだった。

 遺体は事故に遭ったとはとても思えないほど、綺麗なままだった。

 目を開けることもなく、体温も感じられない体は氷でできた作り物のようで、キスをしたみちるは自分の熱で母の体が溶けてしまうのではないかと、とても怖くなったほど。

 最期のキスが、母の体とは正反対にとても熱くて悲しくて、しょっぱい味がしたから、なおさら。

 こんな風に、一ノ瀬みちるは本当にたくさんのキスを重ねてきた。

 しかし、一般的にキスという言葉で誰もが思い浮かべるような、そんなキスをしたことはなかった。

 ただの一度たりとも。

 少なくとも、この時までは――。



「ただいまー」


 もうすっかりと慣れてしまったマンションのドアを開け、みちるは灯りのついていない部屋へと足を踏み入れた。入ってすぐ、玄関の中心に同居者のパンプスが転がっているのを見つける。

 誰が見ているわけでもないけれど、女の子のたしなみとしてスカートを太ももの裏に張りつけるようにしゃがんでから、脱ぎ散らかされたそれをきちんと揃えておいた。

 少し考え、自分が脱いだばかりの、まだ真新しいローファーの隣に並べておく。


「ひかりさん、帰ってるの?」


 立ち上がり一応呼びかけてみたものの、返事はない。

 鞄を自分の部屋の勉強机に置いて、制服を脱ぐ前にリビングへと続く廊下に散乱していたスーツやらショーツを拾い上げながらみちるは進んでいく。まるで足跡みたい、なんて思った。

 この先に、あの人がいるのだと思うと、どうしてか胸が弾んだ。

 リビングの扉を音をたてないように、ゆっくりとみちるは開いていく。

 予想通り、その先でみちるの後見人がすうすうと規則正しい寝息をたてて眠っていた。すらりと伸びた長い手足を器用に折りたたんで、大きなソファの三分の二くらいしか使っていない。三十も過ぎた女性に対して使う言葉としては不適切かもしれないが、赤子のよう。

 開いていた窓から風が入りこんでカーテンが膨らむと、オレンジの光が、彼女の整った輪郭を黄金色に染め上げた。

 長い睫が光を絡めとり、キラキラと輝いている。

 きめ細やかな肌に落ちた影がやけにくっきりしているのは、西日の強さの証明。

 二日ほど見かけなかったから、泊まり込みで仕事をして昼過ぎにでも帰ってきたのだろう、とみちるは推測する。

 二人が一緒に暮らし始めてから半年以上になるが、今までにも何度かあったことだった。

 仕事のできる人だということは、すぐに分かった。

 三十前半でこれほど大きなマンションを買えるなんてよっぽどだと思う。結構、無理をする人なのだということも。

 それから、家では案外ずぼらな人だということも。

 廊下に散乱していたスーツや、皺になったシャツを一枚だけ身に着けてソファなんかで寝ているのが何よりの証拠。

 全く、しょうがないなあ、とみちるは自分でも気付かず笑っていた。

 昼間は夏の日差しに包まれて暑いくらいだけど、夜が近付くにつれて空気はゆっくりと秋に染まっていく。冬の冷気が、混ざり始める。

 薄暗い部屋の空気はひどく冷たく、吸い込むたびに喉が痛むが、体の奥に辿りつく頃にはみちるの体温に馴染んで温かくなっていた。

 声をかけて起こすか、ブランケットでもかけてあげようか。

 さて、どうしようかなと、眠ってさえなんだか難しそうな表情をしているその人の顔を見ていたら、不意にみちるの体が動いていた。

 まるで一足す一という問いがそこにあって、二と答えを書き込むような自然さ。

 声をかけられたから顔を向けるという行為。

 光が眩しくて、目を細めるのは当たり前のこと。

 それらと一緒。

 考えてのことではなかった。



『いい? みちる。唇と唇のキスは世界で一番好きな人としかしてはダメよ。それは特別なキスなんだから』



 いつだったかの、母親の言葉が頭の中で蘇る。

 事故ではなく、故意だった。

 真っ赤な唇に、唇を重ねていた。

 みちるの全く癖のないさらっとした黒い髪が、ひかりの白い頬に触れて擽った。白と黒は交わり合うことなく、しかし、隣にあることで互いの美しさを一層際立たせている。

 唇は二秒で離れた。

 そっと触れるだけの優しく幼いキスは、その一瞬でみちるのそれまでとこれからを全く違うものに変えてしまった。


「え?」


 あれ、あれれ? わたし何をしてるんだろうと、思考できたのはしかし一瞬だけ。

 顔が一気に熱くなって、何も考えられなくなって、心臓が速く走り出していた。音が聞こえそうなほど強い鼓動がこの世界にあることを、みちるは初めて知った。

 黄昏染まる二人だけの部屋で、一ノ瀬みちるはキスをした。

 それは、キスと言ったら百人中九十八人くらいが思い浮かべるような、当たり前でしかし特別なキスだった。

 ある意味でみちるのファーストキスの相手となったのは、両親を失ったばかりのみちるに唯一手を差し伸べてくれた、とても美しい女性。

 年上で、同性で、同居人で。

 それから、みちるの母親であるあかりの親友、一宮ひかり。

 もう一度だけ言っておこう。

 事故ではなく、恋だった。

 十四歳の女の子、一ノ瀬みちるにやってきたずいぶんと遅い初恋だった。

 誰も見ていないけれど、みちるの顔は耳まで真っ赤になっている。

 それを夕日のせいだなんて口にすることは、みちるにはもうできはしない。

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