第272話 それぞれの一歩

 ヴィクトルさんの目は、色んな物を写す。

 その物に所縁のある人物やら、中に含まれているもの、付与されている魔術、その他沢山。

 だから時々情報過多になって、目と頭が痛くなるそうで。

 そんな時は【鑑定】のスキルを意図的に遮断するようにしているという。

 でも、あまりにもその物に込められた魔力が多いと情報が遮断しきれないそうで、そんな時は魔力遮断の効果を持ったメガネをかけるそうだ。

 昨夜氷輪様から貰った水差しと姫君からいただいた桃を、厨房に持っていく私と鉢合わせして、ヴィクトルさんたら慌ててメガネをお部屋に取りに行って。

 後ろに控えていたロッテンマイヤーさんが、その背中を遠い目をして見てた。

 まあ、うん、私も多分遠い目をしてたと思う。

 そして朝食の席では、いただいた水差しから注いだお水を全員に飲んで貰ったんだよね。

 最初は先生だけに渡そうかと思ったんだけど、氷輪様がレグルスくんにも飲ませて良いって仰って下さったし、ロスマリウス様が「あの教師どもと、使用人達と奏と……もういいや。関わりある連中、皆に飲ませとけ」って。

 イゴール様が「それじゃあ水差しごとあげたら良いじゃん」って、このお水が涌き出る水差しを下さったんだよね。

 会話の内容からして、単なる水じゃないとは思ってたよ?

 思ってたけど。

 エルフ三先生が一斉に、ごふっと噎せるという珍しい場面に遭遇してしまった。


「い、今、何と言いました?」

変若水おちみずって言いました」

「変若水って、まさか!?」

「滋養強壮に良いそうですよ」

「待って、まんまるちゃん! 変若水って何か分かってるのかい!?」

「天界のお酒造りに使われる甘いお水としか聞いてません」 


 だってそうとしか聞いてないんだもん。

 なんとなくだけど、神様方、私があんまりそう言うことを知らないの解ってて、結構な物をくださるんだよね。

 今回も多分そうじゃないかって薄々感じてたけど、やっぱり単なる甘い水じゃないんだな。

 いや、神様には単なる水でちょっと滋養強壮に良い程度だから、そう仰るんだろうけど。

 それが人間の世界ではどんな風に捉えられていたとしても、神様方にはどうでもよくて、本当に健康に良いから「お飲み」ってだけなんだもんねー。

 ありがたくいただきますけど、これに慣れちゃダメだな。

 じゃないと、甘やかされたまるで駄目男になるわ。

 レグルスくんが三人の様子にきょとんとする。

 ラシードさんとイフラースさんは、もう先に屋敷で働く人達と一緒にご飯を食べて、ヨーゼフと厩舎に馬や鶏の世話に行った。

 一緒に食べたらいいって言ったんだけど、自分達は魔物使いとして雇われてるけじめだって、今朝からそうすることにしたそうな。

 うーん、まあ、族長の息子が使用人してるとは思わないだろうから、彼を狙う誰かへの目眩ましになればいいけど。

 そしてきょとんとしたレグルスくんが可愛いお手々に握っているグラスには、姫君の蜜柑をジャムにした物を、沸かした変若水で溶かした柚子茶ならぬ蜜柑茶が入っていた。

 眼鏡の縁を押さえながら、ヴィクトルさんがテーブルに置かれた切子のような水差しを指差す。


「もしかしなくても、今、れーたんが飲んでるのにも使われてる?」

「はい、だって皆に飲ませておけって言われましたし。なんだったらお米炊いたら美味しくなるから、えんちゃん様がいらっしゃる間はこの水でご飯を炊いてくれって」

「えぇ……変若水でご飯炊くって……」

「あと、姫君から桃をいただいたので、お昼かお夕飯かのデザートに桃のコンポートを作ってもらうように料理長に頼んでます。えんちゃん様もこの桃が大好きなんだそうです」

「……仙桃ですよね、勿論」

「はい」


 ラーラさんが天を仰いで、ロマノフ先生が眉間を押さえたから、後ろを振り返って見るとレグルスくんの後ろに控えていた宇都宮さんも口元をひきつらせていた。

 私が見ている事に気づいたロッテンマイヤーさんは、咳払いを一つ。


「ロッテンマイヤーさん、変若水って何かな?」

「変若水と申しますのは、氷輪公主様の統べる月の宮の奥庭の竹の一筋から湧き出ると言い伝えられているお水で、一口で不治の病や瀕死の大怪我すら癒し、若さと健康をもたらす万能薬にもなる……と」

「わぁ……」


 思ってたより凄い効用だ。

 アレか。

 先生達が作ってくれてたござる丸印のエリクサーモドキ飴玉で、一応私と先生は回復してるけど、念のためにってことね。

 何だかんだ神様方は優しいな。

 後でお礼のお祈りをしておこう。

 そんなこんなで、朝食を終えると何だか先生達がぐったりしてたっぽいけど、私は何にも知らないよ。

 知らないったら知らないんだからね。

 さて、それから。

 お弁当を持って、私達──私とレグルスくんと先生方とラシードさんとイフラースさんは昨日のお約束通り、菊乃井歌劇団の本拠地であるカフェへ。

 えんちゃん様とブラダマンテさん、奏くんと紡くんはもう到着してて、カフェの入り口で待っていた。

 ここでロマノフ先生とラーラさんは、ベルジュラックさんとエルフィンブートキャンプのために別行動。

 挨拶もそこそこにカフェの木の扉に手を掛けて開くと、「こんにちは」と声をかける。

 すると奥から「あいよ」と、よく通る声が返ってきた。

 そして足音が三つ。

 二つはゆっくりとした足取りで、一つはちょっと小走りで軽い。


「いらっしゃい、オーナー」

「ようこそお出でくださいました、オーナー」

「いらっちゃいましぇ!」


 ちょっと緩めなシャツとクラバットの着こなしのユウリさんと、対照的にびしっとフロックコートを着たエリックさん、それから簡素なワンピース姿のアンジェちゃんの三人が揃って出迎えてくれて。


「出迎え、ありがとうございます」

「いいえ、オーナーをお迎えできて幸いです」


 にこっとエリックさんが笑うと、その足元にもじもじと引っ付いていたアンジェちゃんが顔を出す。

 そしてちょこちょことえんちゃん様の側にいくと、その手をきゅっと握った。


「あのね、おねーちゃん、おけーこちゅうなのよ」

「お稽古?」


 不思議そうなえんちゃん様に、アンジェちゃんが首をブンブン上下させる。

 ユウリさんがそれを見て、ニカッと笑った。


「ああ。ほら、兵士の慰問のためのコンサートの演目を固めてるんだ」

「そうなんですね」


 着々と色んな事が進んでいる。

 私も色々進めないと。

 そう思っていると、エリックさんの視線が、私を越えた先に注がれているのに気付いて、振り向くと緊張した面持ちのラシードさんが。

 彼をエリックさんの近くへと呼び寄せ、斯々然々とラシードさんとイフラースさんの事情を説明すると、エリックさんが驚きに目を見張る。


「政を知りたい……と」

「はい。けれどルイさんに教えを仰ぐ前に基礎をと思いまして」

「なるほど、そう言うことでしたらご協力出来るかと」


 穏やかに頷くエリックさんに、ラシードさんとイフラースさんが「よろしくお願いいたします」と頭を下げる。

 それに穏やかにエリックさんは答えた。


「思えば役所に入った新人の教育は、私とヴァーサ……同僚の役目でしたので」

「そうでしたか」

「はい。ところで、護衛の方も一緒に学ばれるのですか?」


 問われてイフラースさんが首を否定系に動かす。

 驚いたのはラシードさんだ。


「え、なんで?」

「なんでって、役割の問題ですよ。自分が政を学んでも大してラシード様のお役に立てるとは思いません。この領には強い結界があって、まずワイバーンとかは来ないし、このカフェにいる間はショスタコーヴィッチ様とご一緒。まず危険はないとロマノフ様が仰っていました。なら自分はベルジュラック殿と共に修行した方がラシード様のお役に立てるかと。ここに伺ったのは、ラシード様のお師匠様になる方に一目ご挨拶をと思ったからです」


 諭すように言うイフラースさんに、ラシードさんは少し考え込む。

 ややあって、引き結んでいた唇をラシードさんは解いた。


「まだ言わずにおこうと思ったんだけど」


 そう前置きして、ラシードさんはイフラースさんを見つめると表情を引き締める。


「俺は力を付けたら一度、雪樹山脈に戻ろうと思う。だけど、それは一族に戻るためじゃない。一族には俺と同じく能力が低くて、生きにくい思いをしている者達がいる。許されるなら彼らをここに連れてきて、俺と同じように生計を立てる術を与えてやりたい。その時は中の兄貴だけじゃなく、上の兄貴とも何らかのケリを付けなきゃいけないと思う。イフラース、付いてきてくれるか?」

「勿論ですとも。その時のためにも、自分は武を磨いた方がいいかと思いまして!」


 ニカッと頼もしげに胸を叩いたイフラースさんに、ラシードさんはホッとしたようで表情を緩める。

 それから私に二人して向き直って。


「どうかな? 将来のことだけど、許してもらえるか?」

「菊乃井は優しい世界を目指す人達に閉ざす扉はありません」

「うん、ありがとう。頑張るよ」


 私の返事に、ラシードさんとイフラースさんが頷く。

 それぞれ、道が定まって来たようだ。

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