第233話 春たてば、消ゆる氷の残りなく
ルイさんの形の良い唇から転げ落ちて来た名前に、一瞬誰のことだと考えて。
それからいつも静かに後ろに控えていてくれる、眼鏡をかけきっちり髪を結わえたメイド服のロッテンマイヤーさんがふっと鮮やかに浮かぶ。
使用人と主人と。
その線引きをきっちりされているように見せつつ、その線を超えて私を見てくれている人。
親に棄てられた私を、見捨てずに育ててくれたロッテンマイヤーさん。
その人が結婚を望まれている。
おめでたいことの筈なのに、指先から血の気が引いて冷たくなっていくのが解った。
何かしら言葉にしようとしても、唇は震えてはくはくとしか動かない。
息を吸おうにも、その方法を身体が忘れてしまったのか、喉や肺が動いてくれなくて。
ひゅっと詰まった呼吸に、目の前にいる筈のルイさんの像が水中にいるかのように歪む。
「我が君!?」
「鳳蝶君!?」
どうしよう?
どうしよう?
どうしよう?
ロッテンマイヤーさんがいなくなってしまう?
ルイさんは、結婚してもロッテンマイヤーさんに仕事を続けてもらえればって言ってた。
でもロッテンマイヤーさんは?
前の私は、ロッテンマイヤーさんを随分と困らせた。
それでもロッテンマイヤーさんは「命有る限り若様のお傍におりますとも」って言ってくれて。
だから……。
だけど……。
グルグルと頭の中が渦を巻く。
何か言わなきゃいけないのに、言わなきゃいけない何かが解らない。
違う。
言いたいことは押さえ付けなきゃ喉から飛び出そうだけど、それは絶対言っちゃいけないことだ。
代わりに言わなきゃいけないのは「おめでとう」の一言だけど、それをどうしても本音が邪魔する。
押さえつけた本音と、祝福したい気持ちがぶつかりあって、紅茶の無くなったカップにパタパタと目から雫が落ちた。
ふわりと頭を撫でられる。
「無理に気持ちを押さえず、思うことを言ってしまって良いんですよ」
「我が君。どうぞ仰ってください」
二人が心配そうに私を見てる。
本音を言って、それで?
言ったら最後、ロッテンマイヤーさんの幸せが壊れてしまうかも知れないのに?
息を深く吸って、吐く。
「わ、私、私は……ロッテンマイヤーさんが幸せであれば……!」
彼女が幸せであれば、それで良い。
それが良い。
だけど……!
「わたしから、ロッテンマイヤーさんをとらないで……!」
ぎゅっと胸を掴むと、それだけ吐き出す。
奪わないで。
私からロッテンマイヤーさんを遠ざけないで。
はあはあと自分の吐く息の音が煩い。
言ってしまった。
ハッとして二人を見れば、そこにあったのは私の我が儘に呆れた顔ではなくて。
ルイさんが穏やかに口を開く。
「勿論ですとも。ロッテンマイヤーさんは有り得ぬことですが、私と我が君を秤にかけねばならぬとなった時には、必ず我が君を選ばれる。ロッテンマイヤーさんはそういう方だ。そしてそういう方だからこそ、私は彼女に惹かれるのです」
「…………!」
「それに私もまた、ロッテンマイヤーさんと我が君を秤にかけねばならぬ時には、我が君を選ぶ。そういう男だからこそ、彼女の心を得られたのだと自負しております」
ボタボタ落ちる涙を、横からロマノフ先生が拭ってくれる。
ずびっと鼻を鳴らせば、それも拭かれた。
「うちの娘は愛されてますねぇ。傍から離れるのを、泣いて嫌がってもらえるなんて」
「うぇ……だってぇ……!」
「この人が何のために鳳蝶君に根回しをしたと思ってるんです? フラれたくないからですよ。そのために君から、結婚しても仕事を辞める必要などないという言葉を引き出したかったんです。ハイジに自分を選べば、君から離れずに済むというメリットを提示出来るじゃないですか」
「そう、なんですか?」
「それだけではありませんが、そういう意味があるのはたしかです。しかし、私の期待した以上に、我が君は職業婦人の結婚を後押しする制度や、共働き家庭への支援策を考えておられた。これは私への追い風かと」
「鳳蝶君はハイジに結婚しても仕事を続けてほしいと願っていて、そのために異世界の職業婦人や共働き家庭への支援策を学んで、それを施策として行おうと提案したんですからね。いやはや、囲い込みますね」
しぱしぱと瞬きすれば、涙が引っ込む。
ぐすっと洟を啜れば、ロマノフ先生にもう一度お鼻をちーんっと拭かれた。
先生が柔く笑う。
「それにしてもよっぽど衝撃的だったんですね? 先ほどから仕事は辞めない前提で話していたのに……」
「その……ロッテンマイヤーさんは、私の育ての親というか、お母さんみたいに思ってたので……驚いて。それにちっともそんな素振りなかったから」
いや、あったか?
そういえば「ルイ様」って言いかけて「サン=ジュスト様」って言い直してたことはあったっけ。
何にせよ、仲良しなのかなとしか思ってなかったんだよ。
それなのにいきなりプロポーズとか結婚とか言うから!
そこまで考えて、そうかと思う。
「私、ロッテンマイヤーさんに秘密にされてたのがショックだったのかな……?」
ぽそっと呟けば、ルイさんがはっとした顔でソファから降りて私の前に跪く。
そっと両手を取られると、真摯にルイさんは頭を下げた。
「決してロッテンマイヤーさんは我が君に内緒事を作ろうとした訳ではないのです。私達二人が交際しているとなると、我が君は私達を思いやって、二人で過ごせる時間を作ろうとご無理なさるのでは……と」
「あ、いや、知らなかったことに不満があるとかじゃなくて、なんだろう……?」
胸が痛いとは違って、なんと言えばいいのか。
解らなくなって隣のロマノフ先生を見れば、穏やかな表情で私を見る。
「二人のことを知らなくて、胸がすうすうしますか?」
「う、そう、ですね?」
「胸にすきま風が吹くような感じを、歌などでは何の表現として使っていましたかね?」
「えぇっと……」
胸にすきま風が吹くって、寂寥感とか寂しいとかの比喩表現だったっけ……って、んん?
すとんっと言葉が降ってきて、すうすうした胸を埋める。
なんだ、そうか。
「私はロッテンマイヤーさんから、二人のお付き合いの話を聞けなくて寂しかったんですね」
「それは……大変失礼いたしました」
「でも、そうですね。聞かされてたら、私は変に二人に同じ日のお休みを作ったりしてたかもです。流石ロッテンマイヤーさん、解ってる」
苦く笑えば、僅かにルイさんもロマノフ先生も私から視線を反らす。
なるほど、ルイさんは兎も角ロマノフ先生もそう思ってた訳だ。
まあ、その通りだからいいけど。
一息吐くと、ルイさんが手配してくれたのか、暖かいおしぼりと紅茶のおかわりを係の人が持ってきてくれて。
それで顔を拭うと、涙が乾いてバリバリになった跡がさっぱりする。
好みの味に淹れられた紅茶を飲むと、その暖かさが沁みた。
「何はともあれ、ロッテンマイヤーさんを大事にして、ロッテンマイヤーさんから大事にされてください。二人とも私に取っても菊乃井にとっても、代わりのない大切な人達なんだから」
「は、必ず」
ルイさんと握手を交わす。
まだ早いと思った春が、おめでたいことを連れて来たようだ。
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