第218話 弟の心、兄知らず

 カカオパウダーをミルクと砂糖で甘く煮とかし作る「ショコラ」なる飲み物は、去年だか一昨年の冬辺りから帝都で流行っているそうだ。

 前世のココアだよね。

 菊乃井にもちらほらとカカオパウダーが入り始めて、ショコラが飲めるようになった。

 そのショコラの入ったカップを抱えるレグルスくんは、まだ膨れっ面をしている。

 そんなレグルスくんの様子に「僭越ながら」と、私達の会話を書斎の隣の部屋で聞いていたロッテンマイヤーさんが、私達の阿鼻叫喚具合に驚いて呼んだ宇都宮さんが口を開いた。

 曰く、レグルスくんは一昨年の初夏に菊乃井の屋敷に連れてこられた時から、父をちょっと不審に思っていたらしい。

 お母様の想い出や匂いの残る屋敷から、誰も知らない人ばかりのお屋敷に連れて来られ、家庭教師にと望んだ人からは拒否されて。

 この上私に拒絶されたら行き場がない状況に置かれたことを、小さいなりにレグルスくんはきちんと理解していたのだ。

 更に養育費も用意しないで、全部こちら任せ。

 かと思ったら護衛もなしで「帰っておいで」なんて無責任な手紙を送ってくる始末。


「その……『とうさまはれーのこと、ほんとうにすきなの? ほんとうにうちゅのみやはそうおもうの?』と何度もお尋ねに……」

「あー……それは答えにくいよね。ごめんね、宇都宮さん」

「いえいえ! 若様がお謝りになることなんて、全然ないです!」


 うぁー、くそ親父が本当にクソだった件、だ。

 それでも、そういうことを何一つ私に言わなかったのは、私がレグルスくんに「父上はレグルスくんのこと可愛いと思ってるからね」とか「大事だと思ってるからね」なんて言うもんだから。


「レグルスくん、私に気を遣ってたの!?」

「えぇっと、その、真に言いにくいことですが……」

「おぅふ!」


 そうか。

 レグルスくんは常々賢いと思ってたけど、私と大人の話が解るくらいに、本当に賢い子だったんだ。

 小さいから解らないだろうなんてのは、侮りでしかなかったのだ。

 私は大きなため息をついてから、レグルスくんに「ごめんね」と頭を下げた。


「レグルスくんは小さいから、そういうの解らないと思って色々話しをしちゃったけど、本当は聞かせるべきじゃなかったね。どう取り繕っても、やっぱり父上の悪口は悪口だもの」


 もう一度謝れば、レグルスくんはブンブンと頭を否定系に動かす。


「うぅん。れー、まだよくわかんないことたくさんだけど、とうさまがいけないことしてるのはわかるもん! にぃににもいじわるだし!」


 意地悪か。

 今現在倍返し以上の意地悪をしてるのはこっちだし、そもそもの理由は母にある訳だから、それでレグルスくんが父を嫌うのはちょっと複雑なものがある。

 だからってレグルスくんへの仕打ちを許せるかと言われれば、全くなんだけど。

 どうしたもんかと悩んでいると、宇都宮さんがこちらを伺っているのに気づく。

 「どうしたの?」と声を掛ければ、戸惑いながら宇都宮さんは口を開いた。


「あの……帝都にお出掛けになるなら、マーガレット様……レグルス様のお母様のお墓参りに、あの……」


 おずおずといった風情の宇都宮さんが何を言わんとしたか察して、私は大きく息を吐いた。


「本当に私は……父上のことを指差せないな。レグルスくんのお母様のお墓参りに一年以上も行かせてあげられないなんて、気が利かなくてごめんね」


 私はレグルスくんの物質面の充足と地位の向上と安定ばかりに目をやって、そういう大事な所にまで気が回ってなかった。

 本当にそっちをこそ優先すべきだったのに。

 情けない。

 項垂れると、ココアのカップをテーブルに置いたレグルスくんがてててと足早に傍にやって来た。

 その目は驚きに満ちている。


「……こまらないの?」

「へ?」

「にぃには、れーがかあさまのはなしをしても、こまらないの?」


 思いもよらない言葉に、今度はこっちが軽く目を見開く。

 首を横に振ると私は「困らないよ」と、レグルスくんの質問に答えを返した。


「君を産んで、菊乃井に来るまで育ててくれたひとだもの。なんで困るの? お話ししてくれるなら、私は聞きたいけど……」


 そういえばレグルスくんの口から、彼のお母様の話が出ることって無かった気がする。

 この人懐っこい甘えん坊なひよこちゃんが、だ。

 ここに来た当初も聞き分けが良くて、物怖じはしないけどお行儀が良かったこの子は、きっと大事に育てられていたはずなのに。

 その異常さを、どうして私は見過ごしたんだろう?

 ぐるっと見回せば、先生方やロッテンマイヤーさんの表情が固い。

 きっと私と同じことを考えたんだろう。

 宇都宮さんは首を捻ってるってことは、彼女の前ではお母様の話をしてたんだろうか?

 私はレグルスくんの手を取る。

 するとぼたぼたとレグルスくんの目から大粒の涙が落ちた。


「まえのおうち……れーがごあいさつしなかったから、メイドさんたちとなかよくなくて……」

「うん……」

「ひぐっ……うちゅのみやいがいのひと、れーがかあさまのおはなししたら……うぇ……み、みんな、こまったおかおで……」


 なんてことだ。

 宇都宮さんを見れば思い当たる事があるのか、はっとした顔をしていて。

 死というものを小さな子どもに理解させるのは難しい。

 その辺りで向こうのメイドさん達は困ったのかも知れないな。

 他にも気になるのが「ごあいさつしなかったから仲良くなかった」って言葉なんだけど、それは今の話の本質ではない気がするので一先ず置こう。

 向こうのメイドさん達には話せなかったとして、だけどなんでこっちでまで……?

 極力柔らかくレグルスくんに問えば……。


「れーのかあさま、とうさまといっしょになって、にぃににいじわるしてたって……だから……ひっく……」

「は!?」


 なに!? どういうこと!?

 予想もしてなかったレグルスくんの言葉に、目が点になる。

 どこからそんなあるはずない発想にたどり着いたんだろう。

 訳が解らなくて部屋を見回せば、皆困惑していて。


「なんでそう思うの? 私はレグルスのお母様とはあったことないのに……」


 レグルスくん本人に尋ねると、俯いて大きな目からぼとぼとと涙を落とすだけ。

 根気よく待っていると、暫くして服の裾をイジイジしながらレグルスくんが口を開いた。


「まちのひとが……にぃにがごびょうきのときに、おたんじょうびするって、にぃににいやがらせしたんだって……いやがらせってなにかわかんなかったから、きいたら『いじわる』のことだっておしえてくれた……」

「ま、街の人!?」


 なんで街の人がそんなことを言うんだ。

 いよいよ訳が解らない。

 解らないけれど、誤解が生まれているのは解った。

 先ずはそれを解かなくては。


「レグルスくん、私はレグルスくんのお母様に意地悪なんかされてないよ」

「ほんとう?」

「本当だよ。私が病気でも街のひと達だって誕生日してたもん。それならそういう人たちだって私に意地悪してたことにならない?」

「……でも……とうさまがごびょうきのにぃににあいにこなかったのは、かあさまのせいだって……」

「いや、それはないわ」


 ないわー、絶対ない。

 寧ろレグルスくんのお母様は父に菊乃井に帰るように言ってくれてたんじゃないかな。それをあのクソ親父が無視したのが正解だろう。

 レグルスくんの思いやり深さとか、宇都宮さんからの慕われ具合とかで推測したお母様の性格──優しくたおやかな人なら、だけど。

 まあ、何にせよレグルスくんにしなくていい我慢を強いてきた訳だ。

 本当に情けない。


「レグルスくん、その街のひとのお顔か名前覚えてる? ちょっと誤解があるようだから圧迫面接しようかと……」

「待った! あーたんに圧迫面接されたら、その人菊乃井にいられなくなっちゃうから!?」


 ヴィクトルさんの待ったに、大人が全員頷いて、宇都宮さんもレグルスくんも青褪めて首を横に振る。

 なんでや、ちょっとお話するだけじゃん。

 ……って、解ってますよ。八つ当たりだってことくらい。

 ぎゅっと泣き止んだレグルスくんを抱き締めると、すんすん鼻を鳴らしながらひよこちゃんも抱きついてくる。


「ねぇ、レグルスくん」

「……なぁに?」

「レグルスくんのお母様は私に意地悪なんかしてないよ」

「……でも」

「気になるんだよね? なら、聞きに行こう」


 レグルスくんから身体を離すと、驚きに開かれた青い瞳から涙がぽろりと一つ、まろやかな頬に落ちる。

 それを指先で拭うと、垂れていたレグルスくんの洟も、持っていたハンカチでちーんと拭き取った。


「レグルスくんのお母様は意地悪なんかしない、凄く優しい人だって。お母様をよく知ってるひとに、ちゃんとお話を聞こうよ」

「だれにきくの……?」

「父上とレグルスくんのお母様のナニーだった人に」

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