第92話 久しき薫風
冬来たりなば春遠からじとは、誰の言葉だったか。
雪深い菊乃井も二月の終わりになれば、それなりに風も温んでくる。
相も変わらず日々は忙しくて、本当に人手不足で辛いなか、その吉報が入ったのは、繁く通ってくださる氷輪様からだった。
曰く、三の月の中旬に強い春風が吹く。それに乗って百華が久々に地上に降りる、と。
『屋敷の者には早々に箝口令を敷くがいい』
「何故ですか?」
『昨年の春から冬にかけて、この屋敷の庭に百華が居座っていたせいで、ここは百華の神殿のようなものと認識されている。だから草花も動物も精霊も、百華に関わりあるものは並べてこの地にくるはずだ。そうなれば植えてもない花が庭に咲くし、なんなら花びらだけでも飛ばすものもあろう。庭がおかしな有り様になるのだ。家人には無闇に騒がぬよう伝えておかねば、お前が要らぬ耳目を集めるぞ』
なるほど。
庭が花だらけになるのは構わないけど、騒がれるのはちょっと困るな。
教えに素直に頷くと、氷輪様が目を細める。そして少し迷うように手を出したり引っ込めたりしつつ、私の肩より長くなってきた髪に触れた。
『百華が帰ってきても、訪ねてよいか?』
「はい、勿論」
『朝も夜も神と会うなど、お前の負担にはなっていないのか?』
「いいえ。だって私は訪ねて下さるのを待つだけですもの。他に何かしている訳ではありませんし」
『そうか』
鷹揚に返す氷輪様の姿は、ここ最近は腰まで伸びた銀髪に蒼銀の瞳、ビロードの質感も艶かしい蝶の羽の模様が織られた黒いマントに、同じ色の肋骨服で固定されている。
どうやら、その姿が気に入っているらしい。
ただ私がその姿に、オペラ座の怪人を想像してしまったりするから、顔の片側を覆う仮面を身につけておられることも。
それはそれで面白いと、楽しんで下さってるようではある。
いかん、話が逸れた。
お戻りになる姫君に、お預かりした懐刀をお返ししなければ。
それから、この冬から春にかけて何がどれだけ出来るようになったか、少しだけでもお見せしたい。
意気込む私の心の声を聴いたのだろう、氷輪様が口許を僅かに上げる。
『士別れて三日なれば刮目して相待すべし、か』
「それは……え? この世界に『三國志』ってあるんですか?」
『その【三國志】とはなんだ。後で教えろ。……いや、イゴールのところの小僧が言っていたらしい』
イゴール様のところの小僧とは、次男坊さんのことだろう。
次男坊さん、そう言うの好きなひとだったのかしら。
この国にも戦記っぽいのはあるみたい。
吟遊詩人が語るのは英雄の恋と栄枯盛衰だもんね。そりゃあるわな。
そんな訳で、その日の夜は三國志談義で更けて行った。
それからの日々はやはり忙しく、イゴール様経由で「初心者冒険者に与える書」の完成のための取引が。
親に私達が何をしているか知られれば取り上げられかねないからって、神様を使い走りにするのは本当に気が引けるんだけど、そう思うのは私だけだそうで。
「アイツは僕のことを共同経営者か何かだと思ってるよ。君に比べたら、実に雑な扱いをしてくるんだから」
「うへぇ……心臓に毛が生えてるんですか」
「うーん、一回死んだんだから二度死ぬのも同じって言ってたかな。前世の記憶が残り過ぎてて、あんまりこっちの世界に執着がないんだよ。両親とも仲が良くないし、兄弟だって妹以外は有象無象だって言ってたし」
「それは、余り良い傾向ではないような……」
「まあ、それも最近変わってきたよ。君の手紙を心待ちにしてる」
生きるための
やっぱり私の様にオールリセットからの「あるぇ?」って思い出した人間より、前世の人格を保ったまま生まれ変わるのとでは大分違いがあるんだろう。
見習いとは言えドワーフのそれは、人間の見習いとは雲泥の差があって。
人間の一人前の鍛治師がドワーフの郷にいくと、半人前どころか三分の一人前扱いされることもしばしばだとか。
つまり初心者冒険者には破格のブツなのだ。
。
本来なら自らの技に誇りを持つドワーフは、見習いの品を売ったりはしない。しかし、それを次男坊さんが「沢山の初心者冒険者の命を守るためだ」と、肉体言語込みで話し合って売り物にしたのだとか。
種族的に物理防御力最高を誇るドワーフと、肉体言語で語り合うとか、次男坊さんかなり強いんじゃないのかしら。
ちなみに、この世界でもドワーフとエルフって、余り仲良くないみたい。
だけどラーラさんとロマノフ先生としては「酒癖さえなんとかなったら、同族より付き合いやすい」そうで、ヴィクトルさんから言わせれば「確かに悪いやつらじゃないけど、酒癖の最悪さで台無し」なんだそうな。
この辺はもう相性問題だよね。
私も酒癖悪いのはちょっと遠慮したいかな。
閑話休題。
「次の取引の頃には百華も帰ってきてると思うよ」と言う言葉を残して、イゴール様は去っていかれた。
んで、折角取引成立した訳だし、試験運用第一号にローランさんの許可も貰って
彼ら三人とロマノフ先生と私withタラちゃんで、件のダンジョンに潜ってみたんだけど、まあ驚いた。
ちゃんと三人とも強くなってるの。
いや、修行させてるんだから強くなって貰わなきゃ困るんだけど、なんと三人だけで初心者冒険者と中級冒険者を隔てる階層のボスに勝っちゃったんだよ。
ロマノフ先生に出番はないし、私も付与魔術使う暇もないし、タラちゃんだけはお零れの階層ボスの巨大ミミズだったモノを食べてご満悦で。
そこからの階層もちょっと苦労したけど、ボスのいる階層までは手伝わないでも何とか踏破できた。
ボスの巨大シロアリだけは私の付与魔術とタラちゃんの加勢があったくらい。
具体的に何をしたかと言うと、私が付与魔術で俊敏と防御力と攻撃力を物理・魔術両面で上げておいて、タラちゃんが糸をトリモチがわりにしてシロアリの足止めをしただけ。後は三人でタコ殴りにして終わらせてた。死骸は勿論タラちゃんのお腹の中へ。
武闘会への調整は順当に行っているようで何よりだ。
そして待ちに待った三の月の中頃、朝陽が昇って身支度も朝食も済ませて、私とレグルスくんが奥庭に行く時間。
ざっと一際強い風が木々を揺らして、青葉がざわめく。
さわさわと音を立てる草の合間に、様々な春の花がぽんぽんと順次開いて奥庭に続く小道を可憐に彩る。
姫君がお戻りあそばしたのだ。
ひよこちゃんの手を引いて花の小路を駈けて、奥へ奥へと進めば、森の中の開けた───去年の春先に野ばらを見つけた場所へと辿り着く。
すると咲き乱れる花々の中に、大きくて薫り高い艶やかに美しい紅の牡丹が一輪。
「お戻りなさいませ」
「なちゃいましぇ!」
牡丹に跪き、頭を垂れれば芳しい香気が風に乗って届く。地面に向かう視線に、花と同じ色の薄絹が写りこんだ。
「出迎え大儀、息災かや?」
頭上に降る言葉に顔を上げれば、絹の団扇で口許を隠す姫君の麗しくも懐かしいお顔が目に入った。
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