第48話 今そこにある真心

 話が終わるのを待っていたように、控え目に扉がノックされた。

 コツコツと響く木の音に、ロマノフ先生が入室の許可を出す。

 戸口に現れたのはロッテンマイヤーさんで、何故か心臓が跳ねた。


 「失礼致します。こちらに若様がいらっしゃるとお聞きいたしまして」

 「はい、いらっしゃいますよ」


 ロマノフ先生に一礼して私に目線を向けると、癖なのか眼鏡を押し上げながら口を開いた。


 「若様、料理長から『スパイスの準備がととのいました』と連絡がございました」

 「わぁ! じゃあ、直ぐに厨房に行きます」

 「承知致しました」


 ソファから滑るように降りると、先生の手が頭を撫でる。

 見上げると、いつもと変わらぬ飄々とした表情で。


 「例の『カレーライス』のスパイスですか?」

 「はい。先ずはすり潰して粉にしたり、色々下準備が必要で。屋敷の皆さんにお願いしてたんですが、揃ったようです」

 「じゃあ、ようやくご馳走にありつけるんですね」

 「うーん、これから調合したりしなきゃいけないので、今日中に出来るかは謎です」

 「そうですか。では気長に次の課外授業の内容を考えながら、楽しみにしていましょう」

 「はい!」


 とてとてと戸口に行くと、待っていてくれたロッテンマイヤーさんが、ロマノフ先生にお辞儀して部屋を辞した。

 同じようなにロマノフ先生にご挨拶して、案内するように先に歩き出すロッテンマイヤーさんの背中を追う。

 先に歩くのは危ないものがないか確認するため。

 姫君やロマノフ先生のお話を聞いてから、ロッテンマイヤーさんの行動を見ると、そんな風な意味があることに気づく。

 ロッテンマイヤーさんとも話がしたい。

 でも、いざ本人を前にすると言葉なんか出てこない。

 この人は、病気にかかる前の私が一番困らせた人で、今の私を一番心配してくれているひとだ。

 その人に、私は一体何をどう報いることが出来るんだろう。

 じっと背中を見ていると、くるりとロッテンマイヤーさんが振り返った。


 「若様、何か御座いましたか?」

 「へ?」

 「いえ、背中に視線が……」

 「ああ……いえ、ロッテンマイヤーさんは……」

 「はい、何でございましょう」


 何か、と言われても考えが纏まらない。

 だから私は話を逸らすことにした。


 「ロッテンマイヤーさんは……嫌いな食べ物とかありますか?」

 「嫌いな食べ物、ですか?」

 「はい」

 「いえ、そう言ったものは特に。……若様、僭越せんえつながらお勉強のひとつとしてお聞き下さいませ。私は昔、宇都宮さんと同じ境遇で御座いました。ですので、食べられる物なら何でも食べて生きてきたので御座います。今のところ菊乃井はそこまで貧しくはありません。しかし……」

 「今のままではそんな家が出てくるし、個別的に見ればそんな家がもうある。そういうことですね」

 「ご明察で御座います。ロマノフ先生より若様に必要なのは、ありのままを伝えることだとお聞きしました。若様には大望たいもうがあって、そのためには菊乃井を豊かにせねばならぬのだ、と。それに必要なのは、知るべきをきちんと知り、現状を正しく把握せねばならない、とも」

 「その通りです。今の私には出来ることが少ないのではなく、ほぼ何も出来ない。それも目を逸らしてはいけないことだと思っています。でも私が何かをなせるまでにかかる時間は、何かが出来るようになったときに直ぐに動けるように準備しておく時間だとも思います。そのために、色々と色んなひとに協力して欲しい。この料理も、その布石のひとつになれば……」


 ロッテンマイヤーさんが眼鏡を上げる。

 と、ぶ厚いレンズの下がちらりと見えて、随分と心配そうな榛色の目がこちらを見ていた。


 「どうしました?」

 「……若様をお守りくださっている神様より、若様は流行病の後遺症で随分と難儀な病にかかられたと」

 「ロマノフ先生から聞いたんですか?」

 「はい。他にもレグルス様からも」

 「レグルスくんが……?」

 「正確には宇都宮さんが通訳して。『兄上は凄く大変な病気にかかってるけど、魔術のお勉強をして、健康に気をつけていれば大丈夫って、女神様が言ってた』と。何処まで正確かは存じませんが」

 「ほぼ合ってますよ。凄いね、レグルスくん。レグルスくんの言葉が分かる宇都宮さんもだけど」


 レグルスくん、すらすら話せる時もあるけど、まだまだ幼児語だもんね。それをちゃんと理解出来るんだから、宇都宮さんとレグルスくんの関係はかなり良好なようだ。

 幼児の話を理解出来るまで聞くって、聞く方にも根気がいるけど、話す方だって理解してくれないことにイライラして投げ出しちゃうことがあるから、並大抵じゃないもん。

 頷くと、ロッテンマイヤーさんの眉がぴくりと動いた。


 「若様。若様は先程『何かをなせるまでにかかる時間は、何かが出来るようになったときに直ぐに動けるように準備しておく時間』だと仰いました。ならば今は料理や菊乃井の発展を考える前に、若様にはおやりになるべきことがあるのではないでしょうか」

 「やるべきことですか?」

 「はい」


 力強く言うロッテンマイヤーさんに、ちょっと身体が竦む。

 すると難しい顔で、ロッテンマイヤーさんは首をゆるゆると否定系に動かした。


 「若様のおやりになろうとしていることを、決して否定する訳ではないのです。しかしながら、発展や開発などはお父上やお母上のお仕事。若様の領分では御座いません。学ぶことは必要とは存じます。実践も良き学び場と心得てもおります。しかし、まだ若様は子供としてお過ごしになるべき時間です。そして子供として過ごす間に、大人になる準備をなさらなくては」

 「大人になる準備のために、今色々してて……」

 「そうではございません。大人になるには心ばかりではなく、身体も成長させねばならぬものです。心が宿るのは身体。身体が丈夫でなければ、心がいくら強くとも、自ら立って歩むこともできません」

 「……つまり、健康問題を優先しなさい、と」


 重々しく頷くロッテンマイヤーさんに、正直びっくりした。

 だって私、丸々しててちょっと見には凄く健康に見えるはずなんだもの。

 心配してくれてるんだろうけど、過保護過ぎやしないだろうか。


 「えぇっと、私、元気ですよ?」


 ワキワキと手を動かしたり、屈伸してみたり。

 今のところ身体に支障はないことを全身で表現してみたけれど、ロッテンマイヤーさんの表情は晴れない。

 何がそんなに気になるのかと首を捻ると、ロッテンマイヤーさんは屈み込んで、私の肩に両手を置いて目線を合わせてくる。


 「若様、どうかご無理だけはなさいませんよう」

 「はい、無理なんてしませんよ」

 「お約束、頂けますね?」

 「勿論。……どうしたんですか、ロッテンマイヤーさん」


 そっと肩に置いた手を外そうとしたのを捕まえる。

 驚いたのか、一瞬びくりと肩を跳ねさせたロッテンマイヤーさんだったけど、手を払うことはなく、逆に掴み返して来た。

 私の知る中でロッテンマイヤーさんは、ある程度までは私に合わせてくれたし譲歩もしてくれるけど、使用人としてきっちり線引きはするひとで。

 主人の手を握るなど、およそロッテンマイヤーさんらしくない態度だ。

 何がどうしてどうなってるのか、私の方がパニックを起こす寸前で、ロッテンマイヤーさんは唇を震わせながら言葉を紡ぐ。


 「私は……若様が流行り病に苦しんでおられた時、お側におりました。ですから真っ赤だった若様のお顔が土気色に変わっていくのも、荒かった呼吸が今にも事切れてしまいそうなくらい細くなっていくのも、熱かったお身体が氷のように冷えて行くのも、全て見ておりました」


 あ、と思う。

 きゅっと手を掴む力が強くなって、でも震えているのか、すぐにでも振りほどけてしまいそうでもあった。

 私にしてみれば、苦しかったけど起きたらスッキリしてて、でも前世の記憶が生えてて、そりゃもうてんやわんやで。

 だけど、ロッテンマイヤーさんは私が病で体調を崩してから、それこそ葬儀屋さんの手配をしなければいけないくらいまで、弱ったのをずっと見ててくれたのだ。

 

 「ロッテンマイヤーさん、私……」

 「指し出口を申しました、お許し下さいませ」


 何を言えばいいか戸惑っているうちに、ロッテンマイヤーさんの手が離れていく。

 それを咄嗟に捕まえて、逃がさないようにきゅっと力を入れた。

 一瞬手を引かれかけたけれど、じっと待っていると引こうとした腕から力を抜いてくれて。


 「あのね、ロッテンマイヤーさん。私……沢山言いたいことはあるんだけど、言葉に上手く出来なくて……」

 「はい」

 「今、凄く、生きてて良かったし、生きるの楽しいなって……。それから、貴方が……ロッテンマイヤーさんが、傍にいてくれて良かったと思う。これからも傍にいてください」


 静かに告げれば、ロッテンマイヤーさんが肩を震わせた。

 深く息を吸うと、その震えは治まったようで、ふわりと笑みを帯びる。

 って、ロッテンマイヤーさんが笑った!?


 「私、アーデルハイド・ロッテンマイヤーは、命有る限り若様のお傍におりますとも」

 「ありがとう。その言葉に相応しい大人になりますから、見てて下さいね」


 笑顔のまま立ち上がるロッテンマイヤーさんを見上げる。

 そして差し出された手を握ると、厨房へと二人で歩き出した。

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